台湾バナナ

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台湾バナナは、台湾で栽培されているバナナであり、台湾は熱帯植物であるバナナの商業生産地としては北限に位置する。

特徴[編集]

台湾はバナナ生育の条件である気候的には寒く、フィリピンでは8か月で収穫できるのに台湾では収穫まで12か月から13か月かかるものもあり、促成栽培でなくじっくり成長するため味、香りが濃くなる。台湾は小さい島だが、標高4000m近い山(玉山雪山)があったり、熱帯地域があったり、北と南では気温も違い、均一な気候風土ではない。また、台湾は「台風銀座」とも呼ばれ、毎年多くの台風が通過し、バナナ畑にも被害をおよぼす。

台湾が日本の統治下にあった時代に、日本人が現地の農民に日本の果物の端境期である春先から初夏の時期にあわせて出荷できるように、バナナ栽培を指導していた。

同じ台湾バナナでも、時期によって色、形態が微妙に変化する。1月中旬から3月中旬は「冬蕉」(冬バナナ)と呼び、3月中旬から4月中旬は「花竜仔蕉」、4月中旬から5月中旬は「黒皮春蕉」等々。名前のように緑が濃く「黒い皮」のようなバナナや、「白い皮」のバナナ、頭が丸く大きいバナナ、さきが尖ったバナナといった違いがある。

日本における台湾バナナ[編集]

1903年明治36年)、都島金次郎によって日本に初めて台湾バナナが輸入された。当時の日本は冬季のミカンから夏季のスイカまでの間の果物需要を満たす果実が少なく、台湾バナナは日本人好みに品種改良が行われ、次第に日本の食卓へと浸透していった。台湾総督府もこの新たな特産物を奨励し、1924年大正13年)には半官半民の「台湾青果株式会社」を設立。流通を担い、1937年昭和12年)に台湾バナナの出荷がピークを迎えたが、第二次世界大戦の勃発により、戦時中、台湾バナナの出荷量は激減した。

戦後、まずはGHQ向けに出荷が再開され、その後は民間向けにも再び日本への出荷が始まったが、当時の日本政府は外貨不足から輸入割当制度を行っており、その総量はなかなか回復しなかった。一方では、依然として高い消費需要があったため台湾バナナは値上がりし、特に上質の台湾バナナは料亭やホテルに買い占められていたため、1955年(昭和30年)頃まで台湾バナナは「高級品」の位置づけにあり、庶民が上質の台湾バナナを購入できるのは見舞いなどの際にほぼ限られていた。

エクアドル、フィリピン産の参入[編集]

台湾バナナはたびたび台風の直撃を受けたことと、1962年(昭和37年)にコレラが流行ったことにより出荷量がさらに減少するが、同時期にエクアドルが日本市場に売り込みを開始し、一時は市場の8割を占めるまでにエクアドル産バナナが台湾バナナのシェアを奪った。だが、エクアドル産バナナは長距離輸送と管理において台湾バナナに品質の面で大きく水をあけられており、台湾バナナは1967年(昭和42年)頃に再びシェア8割を確保するようになった。

一方、1974年(昭和49年)になるとフィリピン産バナナが台湾バナナの前に立ちはだかった。1967年(昭和42年)頃のフィリピン産のシェアは2%代だったが、日本の商社が大規模生産を開始し、1973年(昭和48年)には約5割、1974年(昭和49年)以降には7割のシェアを奪うまでになる。品質は台湾バナナに及ばないものの、輸送距離の短さによる品質劣化が少なかったことが、フィリピン産バナナの躍進に繋がった。

しかし、バナナの消費大国だった日本ではこの時期、急激にバナナの消費自体が減少していく。これには経済成長と輸送技術の進歩、収穫期をずらして果実を収穫できるハウス栽培の一般化によって、バナナ以外にも果実の選択肢が広がったことが原因としてあげられている。

現在の状況[編集]

2007年平成19年)の市場シェアは約2%となっているが、バナナは再び健康食品として注目を集めており、バナナの消費は増加傾向にある。特に高品質の台湾バナナは健康やダイエットを求める消費者の嗜好に合致するものとして近年売り込みを行っており、大規模ショッピングセンターなどでは台湾バナナはラインナップの一つとして定着しつつある。

参考文献[編集]

  • 高木一也『バナナ輸入沿革史』日本バナナ輸入組合 昭和42年
  • 高木一也『続・バナナ輸入沿革史』日本バナナ輸入組合 昭和50年