叫ぶ詩人の会
| 叫ぶ詩人の会 | |
|---|---|
| 出身地 |
|
| ジャンル |
パンク・ロック ポスト・パンク |
| 活動期間 | 1990年 - 1999年 |
| レーベル | ポニーキャニオン(1997年-1998年) |
| 旧メンバー |
ドリアン助川 Hiroki 我童 Takuji 源造 |
叫ぶ詩人の会(さけぶしじんのかい)は、1990年に結成され、1994年にデビューした日本のロックバンドである。
現代詩の朗読(ポエトリーリーディング)とパンク・ロックを主体とする独特のパフォーマンスで大きな話題を呼んだが、メンバーの覚醒剤不法所持事件をきっかけに解散した。メンバーはそれぞれにラジオパーソナリティなどもつとめるほか、著書なども数多く出版している。
来歴[編集]
前史[編集]
助川は早稲田大学に在学中、学生演劇集団「青」を結成。演劇ブームの風に乗り、軌道に乗ったかに見えたが、助川自身のワンマンのために活動は破綻する。塾講師の仕事を得るがアルコールのためにこの職も失い、入り浸っていた新宿ゴールデン街の業界人たちに紹介されるがままに放送作家の仕事を始める。
真面目な仕事ぶりで一躍売れっ子となる助川だったが精神的に追い詰められ、アンジーの水戸華之介とともに東欧へ取材に訪れた際、チェコで聴いた市民の歌う「ヘイ・ジュード」やアウシュビッツ強制収容所に送られる直前の子供たちが描いた拙い絵に感化され、帰国後1990年に叫ぶ詩人の会を結成する。
結成~デビュー[編集]
詞の朗読とパンクロックの融合はアメリカのパティ・スミスやロリンズ・バンドがすでに確立させていたスタイルではあった。しかし日本ではなかなか理解されず、スターリンや河島英五などの前座を務めながら歌わないバンドとして少しずつ名を広め始める。深夜番組(テレビ朝日「マグニチュード10」)などでは、特集も組まれるほど当時、エッジのきいたバンドとして紹介されている。
デビューまでのメンバーチェンジは20名を越え、初期メンバーにはお笑い芸人のパンチUFOや映像作家の内田保憲もいた。その中で助川の弟分であった我童が長期に渡り彼を支え、サブボーカルを担当していた。この段階では、女性ファン獲得のために、我童のルックスに頼る面が大きかった。
デビュー直前に我童を除く助川の弟分たちが脱退。我童が知り合いのTakujiを連れてきて、TakujiがLAUGHIN' NOSEのサポートメンバーだったHirokiを引っ張りこみ、我童がベースを担当する形で1994年にメディアレモラスより「虹食い」でデビューする。
全盛期[編集]
これといったヒット曲はなかったが、その音楽・演劇・文学が渾然一体となったステージは高い評価があり、ピーク時には渋谷公会堂を満杯にしたこともある。ライブでのモットーは「余力を残すな」で、結成から解散までアンコールに答えたことがない。アンコールにはニュー・シネマ・パラダイスのテーマをBGMに演劇式のカーテンコールで応えるのが常だった。唯一の例外は「土佐犬」という名前でライブをした時で、持ちネタである「オカマのタバコの吸い方」を披露した。
デビューアルバムでは助川が特派員だった時代の経験を活かしたカンボジアを題材に取った反戦歌など、激しいビートに乗せて詩を絶叫する曲がほとんどだった。2作目「LOVE&PEACE」ではそれを踏襲しながらも、本人たちが出演した佐川急便のCMに起用された「道を越えて」などのスケールの大きい作品も登場する。
助川が放送作家や劇団を主宰していた頃の経験から書かれたこれらの2作を経てリリースした3枚目のアルバム「恋歌」をリリース。助川が単独で行っていたラジオ番組などでの人との出会いによってもたらされた経験から書かれた作品である本作によって、バンドは大きな転換期を迎える。ラストを飾る大作「赤とんぼ」では元ARBの白浜久をプロデューサーに迎え、そのポップなエッセンスを吸収することでファンの幅を広げたが、昔からのファンは次第に離れていった。
硬軟取り混ぜた曲を演奏するバンドであったにもかかわらず硬派の曲ばかりが注目され、出演を依頼されるのは歌番組ではなく報道番組だった。助川のキャラクターと相俟って「社会派バンド」というレッテルがついて回るようになっていき、1996年6月、バンドの方向性に疑問を抱いた我童が世界放浪を理由に脱退。これにより多くの女性ファンを失うことになり、更に追い打ちをかけるように所属していたレーベルが倒産する。同年10月から始まった深夜テレビ番組「金髪先生」は、助川が洋楽を題材に英語を教える内容で、他のメンバーも生徒役で出演し、この番組でバンドの知名度は飛躍的に向上する。しかし、売上には繋がらなかった。
1997年、バンドはポニーキャニオンと契約。ベストアルバムと製作の進んでいたアルバム「青」をリリース。この作品で助川は「叫び」をやめ「歌う」ことに徹しており、以前のスタイルから完全に脱却することを示していた。
事件、解散まで[編集]
1997年11月、アルバム「ベルリン発プラハ」リリースに伴う全国ツアー初日を大阪バナナホールで行う予定だったが、Takujiが覚醒剤所持により現行犯逮捕され公演は中止される。バンドは活動休止に追い込まれ、ツアー中止による多額の負債を抱える。翌日のラジオ番組では憔悴しきった助川がマイクに向かって、中には悪意に満ちたものも含まれた様々な質問に答え続けた。なお、助川個人の活動は継続された。
1998年3月、一連の責任を取ってTakujiが脱退。バンドには彼を迎え入れる用意があったがTakujiは受け入れなかった。同年夏に活動を再開したが、ポニーキャニオンから契約を打ち切られる。1999年、インディーズレーベルでラストアルバム「GOKU」をリリースする。しかしこれは事実上Hirokiのソロワークとも言うべきものだった。同年夏に無期の活動休止を発表し、事実上解散した。
助川は芸名を明川哲也と改名し、2000年にニューヨークへ活動拠点を移す。現地でバンド活動を経て作家として活動を行った後帰国、紆余曲折を経て再びドリアン助川名義で著作活動、朗読活動を再開している。
メンバー[編集]
- ドリアン助川
- ヴォーカル担当。結成から解散まで在籍し、実質的なリーダー(会長)だった。
- Hiroki
- 我童
- ヴォーカル、ベース担当。読みは「がっぱ」。活動初期から在籍していたが、1996年6月に脱退。
- Takuji
- ヴォーカル、ギター担当。デビュー直前に加入、1998年3月脱退。
- 源造
- ヴォーカル、ベース担当。1997年10月加入、解散まで在籍。
サポートメンバー[編集]
- 岡本雅彦
- ベース担当。元アンジー。1996年12月から1997年9月まで参加。
- 白浜久
- ギター担当。1998年7月から解散まで参加。
ディスコグラフィー[編集]
- シングル
- ハタ坊のおでん (1995/7/21・MRDA-52)
- 始まりと終わりの物語 (1996/4/19・MRDA-66)
- はきだめの鶴 (1997/4/18・PCDA-962)
- ラジオ (1998/7/1・PCCA-1213)
- アルバム
- 虹喰い (1994/7/21・MRCA-10017)
- LOVE&PEACE (1994/11/18・MRCA-10021)
- 恋歌 (1995/10/20・MRCA-10036)
- 花束 (1997/3/21・PCCA-1089)
- 青 (1997/5/16・PCCA-1107)
- ベルリン発プラハ (1998/6/17・PCCA-1155)
- Goku (1998)
- ライブ・イン・シドニー (1999)
- Anthology叫ぶ詩人の会BEST (2003/6/18・PCCA-1910)
- ビデオ・LD
- 大漁旗がなびくぜ~叫ぶ詩人の会 復活ライブ~ (1998/11/18・PCVP-52475/PCLP-689)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- こんなこととかしてきました暴発 - 明川哲也のサイト