古天明平蜘蛛

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古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)は、戦国時代武将松永久秀が所有していた茶釜

概要[編集]

蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたことから、「平蜘蛛釜」の名が付けられた。

松永久秀は織田信長へ臣従した際に名物・九十九髪茄子を進呈したが、それ以降、信長から幾度も所望された平蜘蛛に関しては断っている。後に久秀は信長に侵攻され信貴山城にて自害するが(信貴山城の戦い)、この際に平蜘蛛は、信長の手に渡るのを潔しとしない久秀によって打ち壊されている。が、昭和に入ってからは自らの爆死のために爆薬を仕込まれ消失したともされている。

一方で現存するとする意見もある。「松屋名物集」には多羅尾玄蕃が落城した信貴山城から「平蛛ノ釜ツキ集メ持ナリ」とあり、その破片を集めて復元したとあり、天正8年(1580年)5月13日に若江三人衆の一人である多羅尾綱知が「平くも釜」を使用したことが津田宗及の『宗及他会記』にある。

そして、静岡県浜松市西区舘山寺町の浜名湖舘山寺美術博物館には「平蜘蛛釜」と伝わる茶釜があり、その由来によれば、信貴山城跡を掘り起こした際にこの茶釜が出土しており、信長の手に渡り愛されたものだという。

また、松永久秀と親交のあった柳生家の家譜『玉栄拾遺』には、久秀が砕いた平蜘蛛は偽物で、本物は友である柳生松吟庵に譲ったという記述がある。[1]

備考[編集]

  • 茶釜の発生は大別すると、芦屋釜(九州)と天明釜(東国)の2つの流れからなり、名称の「古天明」に従うなら、下野国天明(現佐野市)産の茶釜である。
  • 「古天明」とは、正長年間(1428年 - 29年)から天文年間(1532年 - 55年)の時期を指し、以降のものを「後天明」と称する。

注釈[編集]

  1. ^ 『玉栄拾遺』に「同(天正五年)十月十日久秀秘蔵スル所平蛛ト云茶ノ湯釜ヲ打壊、糠ニ詰箱ニ入テ(攻め手の大将の)信忠ニ贈、其後野々宮囃子ヲナシ、火宅ノ門ヲ出ルト云時、城ニ火ヲ懸自滅ス。(息子の)久通ハ行方不知ト云云。臣按、平蜘ノ釜ハ久秀秘蔵スル所、信長所望アリ。久秀不献、此事ヨリ君臣不合タリ。且柳生松吟庵ハ久秀平日断金ノ友タリ。故ニ実ノ平蜘ハ此時竊(ひそか)ニ松吟庵エ贈。打壊所ハ贋物也ト云。松吟庵代々伝テ重器トス」とあり。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 仁木宏・中井均・中西裕樹・摂河泉地域文化研究所編『飯盛山城と三好長慶』(戎光祥出版、2015年