博経親王妃郁子

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博経親王妃 郁子
華頂宮
続柄 南部利剛長女

全名 郁子(いくこ)
身位 親王妃
敬称 殿下
出生 1853年9月7日
死去 (1908-11-14) 1908年11月14日(55歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国東京府
埋葬 1908年11月21日
豊島岡墓地
配偶者 華頂宮博経親王
子女 華頂宮博厚親王
父親 南部利剛
母親 不詳
栄典 勲一等宝冠章
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博経親王妃 郁子(ひろつねしんのうひ いくこ、嘉永6年8月5日1853年9月7日[1] - 1908年明治41年〉11月14日)は、江戸時代末期の武家女性、明治時代皇族

生涯[編集]

盛岡藩藩主南部利剛の長女として誕生する。

華頂宮博経親王と結婚し、1875年(明治8年)1月18日に長男博厚が誕生する。しかし、1876年(明治9年)5月24日に博経親王は、薨去する。嗣子の博厚もまた1883年(明治16年)2月15日に薨去(同日付で親王宣下)する。

華頂宮は、伏見宮家の博恭王が継承することとなったが、1904年(明治37年)1月に伏見宮家の嗣子邦芳王が「不治の病」を理由に廃嫡され[2]、博恭王が伏見宮家に復帰してその子博忠王が華頂宮を継承した[3][注釈 1]

1908年(明治41年)3月、郁子妃は急性脊髄炎を発病し、一時は快方に向かうものの、同年11月7日頃から神経痛が再発し、同月13日午後8時30分に療養先の鎌倉で危篤となる[4]。11月14日に帰京の後[4]、午後11時に薨去した[5]

同年11月21日、華頂宮邸を出棺した後、豊島岡墓地で葬儀が執り行われた[6]

栄典[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 博忠王も1924年(大正13年)に22歳で早世し、華頂宮家は断絶した。

出典[編集]

  1. ^ 平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年)p.29
  2. ^ 明治37年宮内庁告示第6号(『官報』第6160号、明治37年1月16日)(NDLJP:2949471/3
  3. ^ 明治37年宮内庁告示第5号(『官報』第6160号、明治37年1月16日)(NDLJP:2949471/3
  4. ^ a b 『官報』号外「宮廷録事」、明治41年11月14日(NDLJP:2950965/14
  5. ^ 大正15年宮内省告示第12号(『官報』号外、明治41年11月14日)(NDLJP:2950965/14
  6. ^ 『官報』第7619号「宮廷録事」、明治41年11月17日(NDLJP:2950967/8
  7. ^ 『官報』第1605号、明治21年11月02日(NDLJP:2944843/2

関連項目[編集]