南部利雄
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| 時代 | 江戸時代中期から後期 |
| 生誕 | 享保9年6月11日(1724年7月30日) |
| 死没 | 安永8年12月5日(1780年1月11日) |
| 別名 | 渾名:惣四郎殿 |
| 官位 | 従四位下、大膳大夫 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家重→家治 |
| 藩 | 陸奥盛岡藩主 |
| 氏族 | 南部氏 |
| 父母 | 父:南部利幹、母:側室橋本氏(貞林院) |
| 兄弟 | 利雄、南部信起 |
| 妻 | 正室:前田利章の娘 |
| 子 |
利謹(長男)、娘(細川利庸継室) 養子:利正 |
経歴[編集]
享保9年(1724年)(享保10年(1725年)とも)、第6代藩主・南部利幹の長男として生まれる。元文3年(1738年)10月21日、従兄の7代藩主・利視の養子になった。同年11月1日、第8代将軍・徳川吉宗にお目見えする。元文4年12月16日、従五位下信濃守に叙任する。元文5年(1740年)11月19日、前田利章の娘と結婚する。
宝暦2年(1752年)5月25日、養父利視の死去により、家督を継いで藩主となった。明和3年(1766年)12月16日、従四位下に昇進する。治世中は連年の凶作による大飢饉に見舞われ、宝暦6年(1756年)には餓死者や病死者が6万人余りに上った。加えて数度にわたる幕府の手伝い普請により、藩財政は極度に疲弊した。
長男の利謹がいたが、幕政参与を画策して重臣と軋轢を生じたため、安永3年(1774年)乱心を理由にこれを廃嫡し、第7代藩主・利視の六男で旗本となっていた南部利正を養嗣子として家督を継がせた。ここに盛岡藩南部家は、第5代信恩 → 第6代利幹(信恩の弟)→ 第7代利視(信恩の子)→ 第8代利雄(利幹の子) → 利正(利視の子/信恩の孫)と、信恩系と利幹系から交互に藩主が迭立される事態となった。
安永8年(1779年)に死去。
人物[編集]
藩政を家老任せにして「そうしろ」というのみだったので、「惣四郎殿」と陰口されたという。
家臣[編集]
宝暦5年頃、利雄の代の家老・側用人・城使ほか主要家臣は下のとおり。
- 家老
- 北民部
- 東彦七郎
- 奥瀬内記
- 南美濃
- 桂源五左衛門
- 用人
- 吉田友右衛門(城使兼務)
- 漆戸主膳
- 河野兵左衛門
- 織笠庄助
- 吉田矢左衛門(城使兼務)
- 三ケ尻弥兵衛
- 山本郷助
- 村松喜太夫
- 米田四郎兵衛
- 三上多兵衛
- 城使
- 尾崎富右衛門
参考文献[編集]
- 『三百藩藩主人名事典1』(1986年、新人物往来社)