南方就正

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南方就正
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1540年
死没 慶長4年(1599年
官位 宮内少輔壱岐守
主君 毛利元就輝元
氏族 中原姓門司氏庶流南方氏
父母 父:南方元次
兄弟 就由就正
元雅など

南方 就正(みなかた なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。

生涯[編集]

南方氏は元々中原氏の庶流・門司氏の一門、大積(おおつみ)系門司氏の出身。豊後国大友氏厳島神主家と同族。延元元年(1337年)頃に安芸国山県郡南方の地頭となり、名字を「南方」と称した。就正の父の元次の代に毛利興元に仕えた。

天文9年(1540年)、南方元次の子として誕生。

弘治1556年)に大内氏が滅亡した後、山口の防衛拠点の一つである周防国右田ヶ岳城の城代となり、毛利氏の山口支配に従事した。永禄12年(1569年)、毛利氏に滅ぼされた大内氏の残党である大内輝弘大友宗麟の支援を受けて周防に侵攻した際、輝弘の軍勢を撃退して討ち取る(大内輝弘の乱)という功績を挙げるなど、毛利氏配下の勇将として活躍した。

天正9年(1581年)には、織田氏の中国侵攻への備えとして備中国に進出し、忍山城を守った。