南画

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南宗画から転送)
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大画堂画譜、1803年出版

南画(なんが)とは、中国の南宗画に由来し、これを日本的に解釈した絵画であり、江戸時代中期以降に発展をみた絵画様式である。文人画(ぶんじんが)ともいう。絵画のみならず、漢詩俳句といった言語芸術)と、それを記したである画賛視覚芸術)を組み合わせた芸術であるが、絵のみで成立していることも多い。本項では、日本における文人画については特に断りのないかぎり南画として言及する。

「南画」という用語そのものの定着は、幕末から明治時代にかけてのことである[1][2]。日本においては、新たな絵画様式への模索と中国の文人生活への憧憬により始まった。江戸中期の祇園南海柳沢淇園らに始まり、池大雅与謝蕪村らにより大成、江戸時代後期に一大画派を形成した。絵画様式としては、中国の南宗画・文人画の影響のもとにはじまったものの、北宗画大和絵をはじめとした他の要素も取り込むことにより、独自の様式として成った。また、地域・身分を超えたつながりを持った文人同士の交わりのなかで生み出された作品も多い。明治時代以降は価値観・社会制度の変化により衰退したが、富岡鉄斎らの活躍により「日本画」を生み出すこととなった。

南宗画[編集]

董其昌の自画像『自題小像』

南宗画という発想は、17世紀莫是龍の思想を受け継いだ董其昌(1555年 - 1630年)の画論[注釈 1]画禅室随筆』によって流布した[3]。すなわち、(大乗仏教の)南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠夏珪に連なる北宗派の「鉤斫之法」(鉄線描、刻画)に対置されたものが南宗であり、王維の画法渲淡(せんせん、暈し表現)にはじまり、董源巨然英語版米芾米友仁元末四大家に連なる水墨、在野の文人士大夫の表現主義的画法を称揚した流派が南宗画派である[注釈 2][3][4]

なお、『画禅室随筆』は「文人画」という言葉も絵画史上初めて用いている[3]。董其昌は、「文人画」を制作者の身分・社会的ステータス[注釈 3]に、「南宗画」を表現のスタイルに着目したものとしてそれぞれの用語を使い分けてはいたものの、彼自身、文人・士大夫が描いた絵のうち南宗画様式のものを文人画として位置づけようとしていた。その結果として、後代の人々にも両者を一致した概念として理解するようになった[1]

日本南画[編集]

前史[編集]

松花堂昭乗『樫鴉図』

日本にとっての文人画の第一波ともいうべき流れは、董其昌が生きた明の時代(16世紀)にあたる室町時代に、水墨画の分野を通じてもたらされていた。それにも関わらず、日本側で受容した層が五山文学を背景とした禅宗世界、すわたち禅僧たちのコミュニティという限られた領域であったため、室町時代の文人画様式が後世に及ぼした影響は限定的なものにとどまった。この時期には、のちに記された桑山玉洲の画論『絵事鄙言』(1799年刊)の中で南宗文人画の先駆者として言及される、松花堂昭乗が活躍した(後述[6]

江戸中期に入り、文人画の第二波が日本に伝えられると、いよいよ南画が花開くこととなった。南画が隆盛した要因は複合的なものであった。外部的な要因としては黄檗宗の伝来[7]・画人、商人の渡来[8]画譜の伝来[9]があり、内部的な要因としては狩野派土佐派の停滞[5][2]・日本経済の著しい発展などがあった[10][11]。また、町人文化の発展と漢学儒学の盛行も、宝暦明和年間以降の文人画の定着を後押しした[12][13][注釈 4]。美術史研究家の吉沢忠は、初期の日本南画家たちが描き始めるに至った内的要因として、新しい画風の模索[注釈 5]と、理想化された文人生活への憧憬があったのではないか、と述べている[15]。なお、南画と同時期に興隆した絵画に「写生画」がある。文人画と写生画は、理想主義的写実主義の傾向と表現主義的傾向という芸術性の違いこそあれ、時代性・文化的背景・素材の選択など、成立の根拠の多くを同じくしていた[16]

北山寒厳『林和靖図』 林和靖(林逋)は宋代の詩人。彼をはじめ、陶淵明や蘇東坡といった中国の人物の生き様は、日本の文人画家たちに彼らへのあこがれや共感を抱かせ、南画の題材として描かせしめた[17]

制作姿勢[編集]

江戸期の南画家は、上述の通り、文人画へのあこがれのみならず、文人としての制作行為とライフスタイルを含めた総体としての「文人画スタイル」への憧憬から創作活動を行っていた[18][13]。したがって、南画をただの絵にとどめず総合芸術とする詩書画一体[注釈 6]という考え方や[19]煎茶焚香英語版立花の愛好[20]、内面性の重視といった理論[21]は彼らの制作にあたって重要であった。

文人画の理論は、晩唐(9世紀後半)の張彦遠による『歴代名画記』にはじまり、明代の董其昌に至ってすでに発達をみていた[22]。文人画の理論の前提として、中国の文人たちは「自娯」──すなわち自身の楽しみのため──あるいは友情の証しとして画筆を執った[23]。また、自分たちを低い身分にあった画師・画工と明確に区別し、文人たちの手による絵画こそ高級なものであるとする理論を作り上げていった。これらのスタンスを背景として、中国の文人画家たちが説いた理論の特徴としては、次のようなものがある。第一に、描く者の内面精神の重視。これは「気韻生動[注釈 7]や「写意英語版[注釈 8]を主張し、外形的な巧みさを低いものとした。つぎに、伝統(尚古)主義である。これは、彼らの芸術性のみならず、支配階級としての価値観に基づいたものであった。さらに、「書画同源」に代表される、絵画を詩や書と関係づける考えである。これらの画史・画論を江戸時代の漢学者・画家たちは信奉し、またこれらの思想に根ざした絵画論を記し、創作をした[21]

中国の士大夫にとって、文人画は学問のひとつであった[8][13]。日本の南画家・文人画家の認識も同様ではあったが、池大雅や与謝蕪村に見られるように、その学問の範囲は儒学のみならず文学も含んだ。いずれの場合においても、初期の南画家たちは創作に取り組むにあたり、画論を読み、画譜に軛を求めた[27]

南画は、狩野派円山・四条派などと異なり、師弟関係が存在しても緩やかなものであり、また画風や画法、画域は厳しく教え伝えられるものではなかった[28]。その一方で、出身階級は画家本人の制作姿勢に大きな影響を及ぼした。すなわち、町人階級の出身であれば職業画家としての出世に専念すればよかったが、武士階級の出身であった場合、余技として制作を続けるか、脱藩隠居などを経て強い文人意識のもとで制作に取り組むかの決断を迫られることがあったのである[29]

谷文晁『青緑山水図』

南宗画との相違点[編集]

中国における南宗画の担い手は、為政者であり知識階級でもあった文人、すなわち士大夫層であった。しかし、江戸時代の日本では武士が支配階級を形成しており、ために学者である儒者が武士に仕えていた。したがって、中国と日本における「文人文化」を支えた層は異なっていた[23]。また日本における「文人文化」の担い手も、武士にとどまらず、職業画家や商人、農民などさまざまであった[1][28]。さらに、中国の文人と違い、支配階級である武士の南画家が町人階級出身の専業南画家(すなわち被支配階級のプロの画家)を蔑視することはなかった[30]

また、画風においても違いは存在した。董其昌の定義した南宗画では、もっぱら皴法と渲淡が用いられた。一方日本の文人画家は、南宗画と北宗画院体画)の別にとらわれず、北宗画大和絵をはじめとした他の流派も取りこんだうえで制作を行った[1][2]

呼称[編集]

南宗画を略した言葉である「南画」という呼称自体、場所と時代によって意味合いが異なる[31]。まず、中国においては一般的ではない[2]。一方、日本においてこの言葉が定着したのは幕末になってからであり[2]、それ以前には「文人画」または「唐絵」(からえ)、「漢画」(かんが)と呼ばれていた[32]。昭和以降も、表記については議論が続いた。

日本美術史家の佐藤康宏は、彭城百川や池大雅、与謝蕪村らが職業画家であった点、彼らの主要な絵画様式が明代に活躍した蘇州の画家、盛茂燁英語版から影響を受けていた点を挙げたうえで、「南画」と表記する立場をとっている[33]

同じく日本美術史家の佐々木丞平は、日本における文人画の担い手が官僚的身分にある者達ではなかったと認めつつも、彼らの自意識が文人精神に対する強い共感や憧憬があったことを挙げて、「文人画」表記を残すべきであるとしている[34]

系譜[編集]

『芥子園画伝』にみえる巨然法英語版中国語版
『寫山樓畫本』(1817年刊) 谷文晁自身による画譜
田能村竹田『江邨風雨図』 メトロポリタン美術館

江戸時代における南画は、正保年間(17世紀中ごろ)から幕末文久年間(19世紀後半)までの220年年間あまり描かれ続けた。書道史研究家の中田勇次郎は、南画の変遷に応じ、次のように区分を設けている[35][36]

  1. 正保の勃興期:の遺民渡来、長崎派の隆盛
  2. 宝暦明和安永天明18世紀後半)の盛行期:『芥子園画伝』翻刻[注釈 9]、池大雅、与謝蕪村の活躍
  3. 寛政文化文政天保(19世紀前半)の最盛期:多くの画家出る、新書画展観の開催
  4. 弘化嘉永安政文久(19世紀中ごろ、幕末)の延長時期:情勢不安による退勢、画論の体系化

文化・文政(化政時代)には、日本においても漢詩文が興隆したことで、上方江戸で詩書画三絶が競われるようになり、また文人・南画家同士の交遊が地域を超えてさかんに行われるようになった[38]。絵画の発展自体、文人画にとどまるものではなく、円山・四条派や長崎派の影響をうけた写生画諸派においても同様であった[39]。その一方で、浦上春琴の作品に見てとることができるように、南画そのものの形式化が始まりつつあったのもまたこの時代であった[40]

宝暦・明和から幕末にかけての120年あまりは日本南画家による画論が多く出た[41]

日本南画は日本初期文人画の祇園南海(1676年 - 1751年)(紀州藩儒官)や柳沢淇園(1676年 - 1751年)(甲府藩家老の子)から始まる。祇園南海は『八種画譜[注釈 10]を独学し長崎派の河村若芝に添削指導を受け、柳沢淇園も長崎派の英元章に学び、中国の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年 - 1776年)、与謝蕪村(1716年 - 1784年)により大成され、浦上玉堂(1745年 - 1820年)、谷文晁(1763年 - 1841年)、田能村竹田(1777年 - 1835年)、山本梅逸(1783年 - 1856年)、渡辺崋山(1793年 - 1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。

美術史研究家の吉沢忠は、南画家それぞれの社会的属性・地域性に着目し、次の4種に分類した[43][30]

  1. 「放蕩無頼」の先駆者(祇園南海・柳沢淇園ら)
  2. 南画初期の職業画家(池大雅・与謝蕪村)[注釈 11]
  3. 京阪以西の南画家(浦上玉堂・田能村竹田・頼山陽ら)
  4. 江戸の南画家(谷文晁・渡辺崋山・山本梅逸ら)

吉沢が「先駆者」としたところの画家たちは、当人たちの性格気質に関わらず、周囲から「放蕩無頼」として指弾された経歴をもつ。吉沢はまたこれを踏まえた上で、頼山陽や田能村竹田もこれに含まれうるとしている。池大雅と与謝蕪村に代表される初期の職業画家たちは、町人出身であるだけでなく、他の絵画様式を取りこんだうえで「南画」として消化し、大成させた[43]

『木村蒹葭堂像』谷文晁

京阪以西、すなわち近畿・中国・四国・九州の南画家は、南画においていわゆる主流派を成した。「関西南画」である[44]。池大雅・与謝蕪村の亡き後、彼らの指導的な役割を果たしたのが木村蒹葭堂(1737年 - 1802年)であった[45]。文人・収集家であり、また社交的であった蒹葭堂は、交友関係がひろく、彼のもとを訪れた人々の中から浦上玉堂や木米、田能村竹田が現れることとなった[46]。蒹葭堂の周囲では、近代的な展覧会に先駆けたイベントが行われていた[47]。彼と交誼を結んでいた儒学者、皆川淇園は京都の安養寺也阿弥で新書画展観を、蒹葭堂自身もまた大阪で同様の書画を囲む会を催していた[48]

彼ら京阪以西の南画家たちは、後述する江戸の南画家と比較して、南宗画寄りの絵画様式であった[49]。それと同時に、画風においては互いに共通するところが少なく、おのおのが個性を押し出している[50]。南宗画からの視点で見た場合、青木木米や竹田らは、董其昌の流れをくみつつも、中国においては主流派ではない惲寿平の画風を取り込んでいた。一方、他の南画家に比べ(例外的に)より南宗画に近い作風を追求した浦上玉堂は、文学的主題や画中の人物を描くことはまれであり、また、王原祁英語版[注釈 12]に類似した「礬頭」(ばんとう)という技法を多く用いている[51]。彼らの創作活動を支持したのは、読書人である瀬戸内海沿岸の地主層・商工業者であった[52]

関東の南画は、関西に遅れて始まったものの、谷文晁(1763年 - 1840年)や、その周辺に現れた渡辺崋山や椿椿山、立原杏所らの登場によって、19世紀前半に一気に花開いた[44]。文晁ら江戸の南画家たちは、おおむね仕官したまま制作に臨んでおり、また謝礼も品物で受け取っていた[注釈 13]。さらに、彼らの絵画様式は南宗様式からより逸脱したものであった[49]。江戸周辺で活躍した彼らの作品は関西の作家の作品とは異なるところが多く、前者を「関東南画」と呼ぶ[44]

吉沢は、幕末以降に南画が東北地方にも広まったことを認めながらも、この段階で南画はすでに様式化しており、これをもって芸術としては衰退した、と結論づけている[43]

明治20年にフェノロサ岡倉覚三(天心)主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された[50]。しかし、富岡鉄斎(1837年 - 1924年)が傑出し、その後、小川芋銭(1868年 - 1938年)、冨田溪仙(1868年 - 1938年)、小杉放庵(1888年 - 1964年)等も近代的南画表現を行っている[53]

池大雅の弟子桑山玉洲は『絵事鄙言』(かいじひげん、1799年刊)[注釈 14]松花堂昭乗俵屋宗達尾形光琳も南宗に加え[注釈 15]中国の南宗派、文人精神への憧れとたらしこみ渲淡画様式を南画としてとらえている。南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」と「写意」を第一とするが、南画には加えて、逸品逸格、「去俗」を重要視した[55][56]

流派・画家[編集]

主な流派と画家は次の通り。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 絵画について論じたもの。理論、画法、品等について述べたもののほか、題識、画史、伝記を含む。
  2. ^ 『画禅室随筆』巻二「禪家有南北二宗,唐時始分畫之。南北二宗,亦唐時分也,但其人非南北耳。北宗則李思訓李昭道父子。著色山水,流傳而為宋之趙幹趙伯駒趙伯驌,以至馬夏(馬遠夏珪)輩。南宗則王摩詰(王維)始用渲淡,一變鉤斫之法,其傳為張璪、荊關(荊浩関同)、郭忠恕、董巨(董源巨然)、米家父子(米芾米友仁。以至元之四大家黄公望倪瓚呉鎮王蒙),亦如六祖之后,有馬駒(以下略) http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%95%AB%E7%A6%AA%E5%AE%A4%E9%9A%A8%E7%AD%86/%E5%8D%B7%E4%BA%8C
  3. ^ 『画禅室随筆』はまた、南宗画が北宗画よりも芸術的に優れているとする「尚南貶北論」(しょうなんへんぼくろん)という理論を打ち出したものであった[5]
  4. ^ 江戸中期の京都では私塾寺子屋が伸張しつつあった。また、池大雅・与謝蕪村ら初期の文人画家の周囲には、当時の中国文化発信の一大拠点であった黄檗山萬福寺に出入りする者が多かった。需要の面においても、町衆、旦那衆、地方の素封家に中国文化の愛好家が増加していた。
  5. ^ 例えば、初期の南画である柳沢淇園は、狩野派の画法を修めたうえでこれに見切りをつけ、顧愷之陸探微張僧繇呉道玄らの中国の古典に学び、英元章を師とすると宣言している[14]
  6. ^ 詩書画一致とも。三要素すべてが補い合っている作品、またはこれに優れた人物を「詩書画三絶英語版」と呼んだ。
  7. ^ きいんせいどう。南北朝時代謝赫が説いた「画の六法」の一。文字通りの意味は「万物生成の根元力のひびきが生き生きとして真に迫ること」であり、「対象物の生命力、呼吸をつかんでそれを描け」、「描かれた絵に一個の生命体のような生き生きとした輝きが必要である」ともとれる[24]。清の鄒一桂英語版は「気韻生動」は制作過程のことではなく、またこれを第一に挙げるのは鑑賞家の見方であるとした一方で、日本の狩野派土佐派は筆法、または絵の持つ勢いや活力であるという認識であった。日本の文人画もおおむね後者の考えを受け継いだ[25]
  8. ^ しゃい。形を写実的に描くこと、あるいは似せることよりも、対象物をいかにそれらしいと感じさせるように描くことを重視すること。南画家のみならず日本のその他の流派も写意を重んじたが、円山応挙のように写生・写形をもって本質に迫ろうとする画家も存在した[26]
  9. ^ かいしえんがでん。日本の文人画家たちに最重要視された絵手本・画譜の一つ。明代、嘉禎の文人、李流芳中国語版が収集した、歴代名家の山水画法をして初集の原本となった。清初の画家、王概らがこれに増補し、康煕18年(1678年)から嘉慶23年(1818年)の間に出版される。日本においては、元禄年間にはすでに受容されており、康煕40年(1701年)に増補したものが中国で出るとほどなくして日本に伝来したようである。影響は江戸中期以降の文人画家にとどまらず、狩野派画人も含めた広範囲に及んだ[37]
  10. ^ はっしゅがふ。「唐詩五首」「唐詩六言」「唐詩七言」「梅竹蘭菊」「古今画譜」「草木花詩」「木本花鳥」「名公扇譜」の八種類の画譜を集めたことからこの名がついた。天啓元年(1621年)ごろ纏められたか。日本では寛文12年(1672年)、その後宝永7年(1710年)にふたたび翻刻された[42]
  11. ^ 吉沢は、彭城百川(名古屋の町人階級出身)について池大雅・与謝蕪村らと分けて論じている。彼は職業画家であったものの、様式が安定しなかったことにより、作家性についてはむしろ祇園南海や柳沢淇園に近いのではないかと論じている。
  12. ^ 惲寿平らとともに、清初六大家の四王呉惲の一人。董其昌以降の中国南宗画において主流派に属した。
  13. ^ 脱藩・隠遁して制作に臨んでいた南画家たちは、現金をもって謝礼とすることが多かった[43]
  14. ^ 同書は南画初期(上掲の区分2期から3期の中間)の情勢についてくわしく伝えている[54]
  15. ^ 『絵事鄙言』二十四丁表「近衛公ノ戯墨惺々翁宗達光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ言ハンカ」

出典[編集]

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  • 長尾雨山、『中国書画話』 筑摩叢書、1965年
  • 吉沢 忠、山川 武『南画と写生画』 18巻、小学館〈原色日本の美術〉、1969年。 
  • 『世界美術小辞典 日本編 「絵画 近世」』 新潮社
  • 『日本美術全集6 東アジアのなかの日本美術』 6巻、小学館日本美術全集〉、2015年2月25日。ISBN 978-4096011065 

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