南京事件

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南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争中の1937年12月に日本軍南京戦において、つまり中国南京市を占領した後(もしくはその前後)、数か月にわたって多数の一般市民捕虜、敗残兵、便衣兵を虐殺した事件である[1][2]南京虐殺事件[2]南京大虐殺[3]とも呼ばれる。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否かについては南京事件論争、犠牲者数をめぐる論争は、南京事件の被害者数にて詳細が論じられている。

概要[編集]

日中戦争中の1937年12月上旬、日本軍が中華民国の首都南京を攻略した。この南京攻略の前後に日本軍によって行われた一連の虐殺、および略奪・暴行・強姦・放火などの不法行為を総称して南京事件という[4]。犠牲者の数は正確には不明であるが、日本の研究者の多くは数万人から10数万人と推定しており、中国政府の見解では30万人とされる[5][注釈 1]

事件の名称については「南京事件」の他、「南京虐殺事件」「南京大虐殺」とも呼ばれ、適切な呼称を巡っては様々に議論がある[7]。研究者によって、「南京事件」という用語は「南京大虐殺事件」の略称であるとも[8]、不法な殺害の他に略奪や強姦なども含めた不祥事全体を意味しているようだとも説明される[2]。中国では「南京大屠殺」という呼称が使われ、日本などにも「南京大虐殺」という形で普及している[7][注釈 3]

上海における戦闘のために展開していた日本軍(中支那方面軍麾下の上海派遣軍および第10軍)は、11月上旬に上海戦が一段落すると、現地部隊の独断専行によって南京の攻略を決定し進撃した。日本の陸軍中央は当初南京への進撃に反対したが、最終的に現地軍の行動を追認する形で南京攻略は正式な命令となる。

そして、中支那方面軍は、いくつかの問題を持っていた。軍に対する軍紀・風紀の取り締まりを行う実行能力を持たなかった[9][10]。また、捕虜をむやみに殺さないで人道的に取り扱うための戦時国際法であるハーグ陸戦条約(1907年改定後)を、遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を当時の軍部が出していた[11][12]。そのうえで、作戦行動に必要な物資の補給・兵站の確保が行われず、必要な物資の大半を現地調達(徴発・略奪)に依存することになる[9][10]

以上の様な理由により、日本軍は、南京城に向かう途中の進撃中で、現地家屋の破壊・放火、一般市民・捕虜・敗残兵に対する虐殺、強姦などを行い、南京攻略後には南京市街でより大規模な形で逃げ遅れた一般市民(南京安全区に避難できた住民以外は)に対する虐殺・強姦が発生し、12月14日から12月16日頃にかけてピークを迎えた[9][10]。その後は日本兵による不法行為は減少(散発的になる)し、完全に終息するのは4か月後の1938年3月頃になってからであった[1]

日中戦争(第二次世界大戦)の終戦後開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、中支那方面軍司令官であった松井石根大将が、南京とその周辺における一般市民と捕虜の殺害について犯罪的責任があるとして絞首刑が宣告された[6][13]A級戦犯(平和に対する罪)を裁いた東京裁判とは別に、BC級戦犯(交戦法規違反)とされた被告が連合国各国の軍事法廷で裁かれ、南京事件に関わるものは南京軍事法廷で審理された[14]。この法廷で南京戦に参加した日本軍部隊の関係者4名(谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田穀少尉)に死刑判決が下され処刑された[15]

前史[編集]

上海戦と南京占領[編集]

日本と中国(中華民国)は1937年7月7日の盧溝橋事件以降、日中戦争に突入していた。8月には南京市にも戦禍がおよび始め、8月15日には日本海軍機によって飛行場などの軍事施設と周辺の人口密集地帯に対して爆撃が行われた[16]。以降、南京市には繰り返し爆撃が行われ、8月29日は南京駐在のアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの外交代表が日本に抗議書を出した[17]。しかし、日本軍の空襲は継続し、9月には上海の飛行場からより更に本格的な攻撃が可能な状態となった[18]。日本軍は早期に南京周辺の制空権を確保し、また「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐慌を惹起せしむるを主眼とするをもって...[19]」という通達が出されるなど、民間人への被害を考慮しない姿勢も相まって、一連の爆撃による犠牲者は増大した[20]。日本は9月には上海派遣軍の増派も決定したが、中国軍の激しい抵抗もあって11月まで膠着状態が続いた[21][22]。しかし11月半ばには上海の全域を占領することに成功した[23][22]

上海の占領後、日本軍は南京へ向けて進軍した。日本の上海派遣軍は上海占領時点で軍紀弛緩が深刻化しており、士気の低下や食糧不足によって現地からの徴発(実質的な略奪)や暴行が増大していた[23]。この状況を懸念した参謀本部は南京進軍に反対したが、11月後半に現地軍は独断専行で南京進軍を開始した[24][25]。このような状況で開始された南京への進軍では日本軍は兵站の大半を現地徴発に依存しており、軍紀の紊乱と相まって進撃路上の町や村では略奪と暴行が繰り返された[26][27]。南京への進軍途上で発生した一連の略奪・暴行は、「南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす道程であった」と評される[26][注釈 4]

12月1日、日本軍では正式な南京攻略の命令が出された。当時南京は中華民国の首都であったが、主だった政府首脳部や各国の外交使節は日本軍の進撃を前に脱出し、重慶漢口に拠点を移していた[27][29]。12月9日に日本軍による開城勧告が航空機により城内に投下されたが応答はなく、翌日に総攻撃が命じられた。中国軍の南京防衛準備は遅滞しており、三方から包囲する日本軍に対して長江(揚子江)を背に背水の陣の形をとり、各部隊に死守命令を出すと共に船舶の管理を厳格化することで兵士たちの退路を塞ぎ、南京を死守することを企図した[27][30]

しかし、12月12日午後には中国軍に南京の放棄と退却命令が出された[31]。日本軍による利用を阻止するため、中国軍は重要建造物の放火破壊を開始し、市内の主要な建造物が破却された[31]。13日朝には中国軍の組織的抵抗は終了した。中国軍の司令官は部下・一般市民を無対策のまま置き去りにして逃亡し、さらに長江を渡ろうとする中国軍部隊では船の奪い合いが発生し、また渡江を阻止しようとする部隊の間での同士討ちも発生した[32][33]

南京市に進軍する途上での不法行為[編集]

南京占領に先立って日本軍の進撃路上にあった村落で発生した略奪は兵士個々人の判断によるものではなく、兵站上の問題を解決するために組織的に行われたものであった[28]。日本軍が必要とする物資の大部分が現地調達によって賄われた事は『陸支密大日記』において「丁集団(第十〇軍)作戦地域は地方物資特に※、野菜、肉類は全く糧は敵に依るを得たり[注釈 5]」と記録され、第9師団参謀部は「軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして上海付近より南京に至る約百里の間殆ど糧秣の補給を受くることなくほとんど現地物資のみに依り追撃を敢行」したとすることなどからわかる[34]

こうした物資の強奪は「徴発」という体裁をとっていたため、徴発証券が発行されることになっていたが、その実態は略奪であった[35][36]東京裁判において上海派遣軍参謀榊原主計は占領地に行政上の責任者も一般住民も残留していない場合、軍事上の必要性から徴発が必要であった場合には、徴発した物資を明記し、所有者判明の場合は代金を受領しに出頭するよう張り紙をしていたことを証言している[34]。しかしこの徴発証券の運用は極めて杜撰であり、実際には発行されなかった場合が多く、発行されたものも内容の正確性について注意が払われなかった。第9師団経理部付の将校であった渡辺卯吉は日本軍が発行した徴発証券について次のように回想している。

然るに後日(中国人の)所有者が代金の請求に持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。例えば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云うものや全く何も記入していないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。...徴発したものの話では乃公(自分のこと)は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴はどうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である[37]
渡辺卯吉

略奪には住民の殺害が伴い、戦闘行為の巻き添えになったものも含め、住民の虐殺が横行し多くの犠牲者が出た[38][39]。同県の本湖村でも村民40名余りが殺害された[39]。また、掃討の延長として敗残兵や捕虜の殺害も頻繁に行われた[注釈 6]"。この捕虜の虐殺は、当時複数の日本軍部隊が功名心に駆られ「南京一番乗り」を目指して急進撃を行っていたため、捕虜を足手まといと見たことによってより激しい形で行われた[41]

以上の様に、日本軍は、南京周辺の農村部(南京市の行政区にも含まれる)で、組織的でときに村単位の住民虐殺を行った[42]。農村での虐殺は日中共同研究においても中国側が具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の一般住民の犠牲者は2万6千人以上と記録している[43]

進撃中の不法行為としては日本兵による放火や強姦も深刻な問題となった。兵站が脆弱な日本兵にとって、食糧と並んで現地調達が必要な物資の一つとして防寒用の薪があった。これを現地調達する手段として、タンスなどの家財道具が略奪された他、家そのものを破壊して薪とすることが行われた[44]。また単なる気晴らしや余興として軍事上の必要性が全くない家屋への放火も頻発した[45]。中国人女性に対する強姦事件も頻発した[46]

南京市内へ日本軍突入と南京市陥落後[編集]

日本軍は外国の首都占領が長く歴史に残り諸外国の注目を集める出来事になるとして12月7日に「南京攻略要領」を示達し、前線部隊に統制の強化と綱紀粛正を命じていた[47][48]。しかし、前線部隊の司令部はこうした通達を遵守させる意思に乏しく、また南京への進軍自体が準備不足で行われた中で現実的に統制に十分な憲兵を備えておらず、12月17日時点において7万人の日本兵に対し憲兵は17人しか存在しなかった[49][注釈 7]。このため日本軍は兵員による不法行為を統制する手段を欠いており、更に南京制圧直前に中国軍が実施した焦土戦術によって周辺地域で物資の調達ができていなかったことが日本軍の略奪に拍車をかけることになった[51]

中国軍は日本軍の南京攻略に先立ち、12月7日には南京周辺地域における焦土作戦を開始した(「清野作戦」)。南京周囲の居住地、道路沿いの村落が焼き払われた[51]。日本軍の司令部は現地部隊に南京城内への駐屯を禁止していたが、攻撃の余勢を駆った日本軍部隊は司令部の統制外で城内に入場するものが相次ぎ、また焦土作戦の結果場外区域に駐屯することが困難になった上、飲料水も不足していたことから、7万人の大軍が南京城内に駐屯することになり、食糧の略奪が城内で行われることになった[51][50]

日本軍が押し寄せたとき、南京で戦災に巻き込まれた住民は、南京市内の欧米人が人道的活動として設置した、南京安全区(別称:南京難民区。南京城内の約8分の1の面積に相当する範囲)に逃げ込み、南京陥落直後の安全区内は、約20万人、安全区外からその後も流れ込み後に25万人(ただし諸説あり、推測値)の人口に膨れ上がり、南京城市内の南京安全区の外には住民が少ない状況となる[52][53]。南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベ感謝状」[注釈 8][55][56])とされ、占領後も日本軍は立ち入りは制限された(日本軍と住民の仲良い交流写真が撮られたのは安全区あたり)。ただし、後述するとおり、日本軍は、逃げる途中等の安全区外の民間人を南京市内において殺傷しており、「残敵掃討」(敗残兵狩り)として安全区内でも民間人殺害等の問題有る行為を行った。

日本軍の南京市地域での民間人の殺傷[編集]

日本軍が、南京市内に突入したあとの市民への主な殺害行為は以下のとおりである。 まず、日本軍は、南京市内の警察官や消防夫を殺害、中国側の発電所技術者も政府企業に勤めていたというだけの理由で殺害した[57]。また、南京城市陥落(12月13日)の前後に、安全区に逃れられなかった住民が、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が城内で殺害された証言(新路口事件など)、南京城外において避難中のかなりの市民(数は不明)が兵卒とともに巻き込まれて殺害されて遺体が長江に流された記録(徳川義親ジョン・ラーベの残した記述など)は存在するものの、その正確な数は不明である[58]。その他は、以下の「残敵掃討」の際に脱走兵・便衣兵と見なされて殺害された民間人が相当数含まれる。 一般住民の犠牲者数は、笠原十九司の説では、南京城内:1万2千人(ちなみに農村部:2万7千人)[59]で、 秦郁彦は、1万人(南京城市のみ)[60]と述べる。

また、日本軍は「残敵掃討」を南京を陥落させた翌日から(安全区も含めて)開始した[61]とき、「あらゆる手段を尽くして敵を殲滅」することを要求し、中国軍残兵が「便衣に化せると判断」し「青壮年は全て敗残兵または便衣兵と見なし」て逮捕監禁すべしとされ、しかも捕虜を取らない方針で行動していた[61]ので、誤認による民間人殺傷も行った[62]。これ等の「残敵掃討」は、以下の「捕虜の「解決」と民間人の殺傷」に詳細が記されている。

捕虜の殺傷(民間人も誤認殺害) / 便衣兵としての敗残兵虐殺[編集]

ハーグ陸戦条約の規定では戦意を喪失し組織的な行動能力を失った敗残兵に対しては降伏を勧告し捕虜として待遇する必要があった[63]戦時国際法であるハーグ陸戦条約(1907年改定後)を、日本・中華民国がともに受け入れて条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)[64]していた。しかし、日中戦争時に、日本の軍部が戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を出した記録が残っている[11][65]

また、自軍の補給にも窮していた日本軍は制圧当初から全体として捕虜を殺害する方針で臨んでいた[63]。南京攻略戦に参加した第16師団旅団長佐々木到一は当時の状況について次のような回想を残している。

この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)午後二時ごろ、掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投稿し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとて「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった[66]
佐々木到一

この証言のような状況は他の部隊でも同様に発生していたと見られる[67]。捕虜を取らないとするのは第16師団の方針であり[68][69]、12月13日に処理(殺害)された投降兵・敗残兵は第16師団のみで23,000人を超えた[70]

12月14日、南京陥落を喜ぶ日本国内の世論の熱狂や昭和天皇による祝賀の「御言葉」の下賜があると、日本軍の司令部は12月17日に南京で入城式を執り行うことを決定した[71]。現地部隊は敗残兵の掃討まで時間が足りないことを主張したが、12月17日の入城式の挙行は強行されることとなった[72]。この結果、入城式の日程に合わせて12月14日から17日にかけて残敵の掃討が徹底的に行われることになった[73]

第16師団以外のもの含め、日本軍各部隊が行った敗残兵・便衣兵の「掃討」では時期や部隊によって温度差があり、「良民」と「便衣兵」の選別が多少行われていた場合もあったが、十分な調査を行うような人員が存在しなかったためその選別は非常に荒っぽいものとなった[74]。秦郁彦はこの「良民」と「便衣兵」の選別について「選り分けるといっても、軍帽による日焼けの線(面ずれ)や目付で識別し、家族らしいものに泣きつかれると放してやる式のおよそ非科学的なやり方だったから、末端兵士の気分しだいで連行はふえも減りもしたようだ。こうした気まぐれな選別が、安全区の住民に与えた衝撃と恐怖感は想像に余りある[75]」と述べている。

南満州鉄道株式会社に務めていた小川愛次郎は南京における日本軍の軍紀退廃・虐殺について1938年7月27日、日本の外務大臣宇垣一成に宛てた「時局の動向と収拾策(講和大綱)」と題する意見書の中で次のように述べている[76]

虐殺放火が盛に行われた。南京陥落直後丈でも市民中の男子の狩り出されて機関銃の掃射を蒙ったもの万を以て数うべく、市街火災の多くは占領後日本兵の放火である。之等は、日清役(日清戦争)当時は捕虜を所謂「可然(しかるべく)処分」したり、又旅順大虐殺事件の如き、又満州事変後の匪賊討伐で賊の逃込んだ部落を焼払うと謂うが如き、実情不得已して採りたる処置とか又は敵愾心の発露とは全然其の精神を異にし、殆ど悪戯的に行われて居る、全く軍規の廃頽から来て居る[77]
小川愛次郎

南京攻略戦とその後の占領に携わった日本の現地軍は上海派遣軍と第10軍であったが、上海派遣軍の第16師団、第9師団、第13師団山田支隊、第10軍の第6師団、第114師団について、それぞれの指揮下の部隊がどのように敗残兵・市民の殺害を行ったかについて秦郁彦が整理している[78]

また、軍服を脱いで逃げた中国軍の敗残兵を、民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵であるとして日本軍が虐殺した事例がある。例えば12月14日-16日の安全区において、日本軍が元中国兵を約6500-6700名ほど摘発し処刑したのもその様な考えを根拠とする[79]。便衣兵、つまり兵士が民間人を装って行う戦闘行動は、当時の戦時国際法ではハーグ陸戦条約第23条(ヘ)の趣旨から禁止される[80]。当時の国際法学者立作太郎も昭和19年に、以下の引用のとおり、民間人の敵対行為は原則禁止されるし、戦時犯罪として「概ね死刑に処し得べきもの」であり、正規軍人が民間人に偽装した場合は交戦者としての特権を失う[81]とされる[82]。ただし、この軍服を脱いだ敗残兵を便衣兵として殺したことについては、後述するとおり、戦時国際法上、間違った解釈・行動であるとする批判が存在する。

占領中の不法行為[編集]

占領後の南京城内および周辺地域では激しい略奪・放火が行われた。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物73パーセントが日本軍による略奪の被害を受けた[83]。日本軍による略奪行為の実情は統計情報が残るようなものではないものの、当時南京に在住していた欧米人や日本兵の日記、戦後の証言などによって把握されている。第16師団長中島今朝吾は1937年12月19日の日記に以下のように記している[84]

「日本軍が又我先きにと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構いなしに強奪して往く。此は地方民家屋につきては真に徹底して居る。結局ずうずうしい奴が得というのである。」、「日本人は物好きである。国民政府(の建物)というのでわざわざ見物に来る。唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にカッパラッて行く。兵卒の監督位では何にもならぬ。堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。」、「最も悪質のものは貨幣略奪である。中央銀行の紙幣を目がけ到処の銀行の金庫破り専門のものがある[85]
中島今朝吾

略奪された貨幣は兵営で日本円への換金が行われ、略奪品の一部は日本国内に転送された[86]。一連の日本軍による略奪はアメリカ大使館にまでおよんだ[84]

また、入城式が行われた12月17日前後から日本兵による強姦事件が多発した[87]。日本軍による残敵掃討においては民家一軒一軒に侵入しての捜索が行われたが、その過程で発見された女性が頻繁に強姦・輪姦の被害にあい、酔っぱらった兵士による強姦事件も多発した[88]。恐怖にかられた女性たちが庇護を求めて逃げ込んだ先に金陵女子文理学院の難民キャンプがあり、これを運営していた欧米人が一連の事件について部分的な証言を残している[88]。南京国際救済委員会のメンバーとして活動したアメリカ人大学教授マイナー・S・ベイツは次のような手紙を残している。

有能なドイツ人の同僚たちは(安全区国際委員会委員長ラーベらのこと)強姦の件数を二万件とみています。私にも八〇〇〇件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。われわれ職員家族の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、一〇〇件以上の強姦事件の詳細な記録がありますし、三〇〇件ほどの証拠もあります。ここでの苦痛と恐怖はあなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学構内だけでも、十一歳の少女から五十三歳になる婦人まで強姦されています。他の難民グループでは酷いことにも、七十二歳と七十六歳になる老婆までが冒されているのです。神学院では白昼、十七名の日本兵が一人の女性を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです[89]
マイナー・S・ベイツ

この強姦事件の頻発は日本軍首脳部も現地からの聞き取り等によって把握するところとなり対策が考えられた[90]。第10軍は12月20日に次のような通牒を発した。

掠奪婦女暴行、放火等の厳禁に関しては屡次訓示せられたる所なるも本次南京攻略の実績に徴するに婦女暴行のみにても百余件に上る忌むべき事態を発生せるを以て重複をも顧みず注意するところあらんとす[91]
丁集参一第一四五号

しばらく時間を置き、1938年7月、第11軍司令官として上海に赴任した岡村寧次宮崎周一参謀、原田棟少将らからの聞き取り結果として次のように回想している。

上海に上陸して、一、二日の間に...先遣の宮崎周一参謀、中支那派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある[92]
岡村寧次

進軍中にも行われていた放火も各所で行われた。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内のメインストリート地区の建物2828棟の損傷のうち、軍事行動に起因するもの2.7パーセント、放火に起因するもの32.6パーセント、略奪に起因するもの54.1パーセントだとされる[93]。ニューヨークキリスト教青年国際委員会書記として南京に駐在していたジョージ・A・フィッチは東京裁判において日記に基づいて以下のように証言している[94]

十二月十九日は全く無政府状態の一日であった。兵隊の手で放火された幾つかの大火が荒れ狂い、其後も尚多くの火事が約束されて居た。「アメリカ」の旗は多数の場所で引き裂かれた。軍当局は兵隊の統制が出来ない。
十二月二十日、月曜日、蛮行及び暴行が阻止されることも無く続行された。市街中最枢要の商店街、太平路は全く火災に包まれた。私は火を放つ前に店舗から取り出された掠奪品を積載した数多の日本軍貨物自動車を見受け、又兵隊の一団が建物に現実に放火して居るのを目撃した[95]
ジョージ・A・フィッチ

12月21日には南京在住の外国人が日本大使館に「市の大部分にたいする放火をやめ、残りの部分を、気まぐれからおこなわれたり、組織的におこなわれたりする放火から救うこと」を要望事項として提出した[94]

日本軍による不法行為が一応の終息を見せたのは日本軍の下で中華民国維新政府が南京で設立された1938年3月28日になってからであった[96]

南京城内の外国人の人道支援と外国人記者の報道[編集]

日本軍が南京に進軍する最中の1937年11月下旬、中国人避難民が安全に過ごせる場所を確保するため、南京城内を東西南北に四等分したうちの西北部南半、南京城内の約8分の1の面積に相当する範囲に南京安全区 (別名 南京難民区。The Nangking Safety Zone)が設置された[97]。安全区は、ジーメンス社南京支社支配人であったドイツ人ジョン・H・D・ラーベを委員長とし、アメリカ聖公会伝道団宣教師だったジョン・マギー、アーネスト・フォスターや金陵大学の教授であったルイス・スマイス、マイナー・ベイツらアメリカ人を中心に南京に残留した22人の外国人によって立ち上げられた南京安全区国際委員会によって設置された[98][99]。ラーベが委員長に就任したのは、ドイツ人かつナチ党員であったことから、日本の当局と交渉がしやすいと考えられたためであった[100]。アメリカ人らは災害に対応した救援活動を通じて中国人の組織・指導のノウハウを持っており、南京市の行政的機能を引き継いで組織化することが可能であった[101]

日本軍の侵攻に先だって行われた中国軍の焦土作戦(清野作戦)の結果、南京周辺地域の住民がこの南京安全区に殺到していた[102]。安全区に逃げ込む人々の数はラーベの想定を上回り、彼の証言によれば250,000人に達した[101]。12月12日になるとこの安全区には中国軍の敗残兵が武器・軍服を捨てて多数逃げ込んだ。南京安全区国際委員会のメンバーは市街戦を回避すべく彼らを武装解除して収容する場合もあったが、敗残兵が逃げ込んだことを把握した日本軍は安全区に対しても敗残兵狩りを実施した[103]

当時、南京攻略戦後も、現地欧米人記者5名(ニューヨーク・タイムズティルマン・ダーディン特派員やシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者、ロイター通信社のスミス記者、アソシエイツプレスのマクダニエル記者、パラマウントニュースリールのメンケン記者)が駐在し、[104]、南京占領後の状況を見た後、上海方面へ船で避難した[105]。この5人の記者は実際に南京戦に遭遇しており、彼らの南京事件についての記事が国際社会に対して1937年12月以降翌年にかけて掲載された[105]。その5人の記者の中のひとり、ニューヨーク・タイムスの記者ティルマン・ダーディンが、12月17日、上海沖に停泊中のアメリカ軍砲艦オアフ英語版から打電したレポートが、南京事件に関する第一報となった[106]

「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外交人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった...」「中国政府機構の瓦解と中国軍の解体のため南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともに確立されると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大被害を受けることもなくなったと考えて、中国人住民の間に大きな安堵の気持が広がった。歓呼の声で先頭の日本兵を迎えた住民もいた。
しかし日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、青年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった[107]。」
ティルマン・ダーディン

南京占領直後を直接経験したジャーナリストによる初期の欧米諸国への報道があったものの、南京事件についての欧米各国の反応は概して大きなものではなかった[99]。これはアジアでの出来事に対する欧米社会の関心の低さに加え、1937年12月12日に長江(揚子江)でアメリカ海軍の砲艦パナイ号が日本軍によって撃沈される事件(パナイ号事件)が発生したことに影響されていた[99][108]。この事件は最終的には日本とアメリカの間で外交的に決着されたものの、事件を通じて日本軍の南京占領に対するジャーナリストの取材活動が大きく阻害された他、パナイ号事件の報道が連日トップニュースとして掲載される一方、南京事件の報道は隅に追いやられ、世論の注目自体がパナイ号事件に集中することにもなった[109][注釈 9]。その後、日本軍の不法行為が少なくなり、欧米のジャーナリストもいなくなっていた1938年1月26日に、日本兵の一部が旧米人住居に住みこみ、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していたことをとがめるために日本人憲兵とともにその住居に入ろうとしたアメリカ人外交官ジョン・ムーア・アリソン(この人は戦後、駐日大使になる外交官。南京赴任前も日本在住経験ある元々親日家)が日本兵に殴打される事件がおきる[113]。外交官が兵卒に殴打されるという国家の面子を潰された事件であり、アメリカでは南京事件よりも報道されて、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した[114]

一方で、南京事件に代表される日本軍による中国人大量殺戮の報道は、アメリカにおける対日感情を悪化させ、「『非人道的野蛮行為』を平然とおこなう日本兵にたいする嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米開戦時の『敵国日本』のイメージを形成した側面もあった[115]」。ジョン・ラーベはドイツに帰国後、日本軍の行為についての講演を行いアドルフ・ヒトラーを始めとしたドイツの政府幹部へこの事件を報告したが、同盟国日本の戦争犯罪についての記述がヒトラーの怒りを買い逮捕された[115]。彼はその後、南京事件について発言しないことを条件に釈放されることになる[116]

中国では口コミの形で広く中国人全体に知られることになり、また1938年7月に南京における日本軍の残虐行為の写真集『日寇暴行実録』が発行された[116]。とりわけ中国人女性に対する凌辱は日本に対する敵意を強く醸成し、抗日運動の活発化に繋がった[116]

南京戦における日本軍の編成[編集]

南京攻略に参加した日本軍は、具体的には中支那方面軍隷下の上海派遣軍ならびに第10軍であった[27]

日中戦争が始まって一月あまり経過した1937年8月11日、中国軍は主戦場を華北から華中に移すべく、上海に駐留する日本海軍陸戦隊への攻撃を指示した[117]。海軍陸戦隊の兵員4,000人に対し、中国軍は約30,000人であり、日本政府は陸軍部隊を増援として派遣することを決定した。この増援部隊が上海派遣軍(司令官:松井石根)であり、第3第11師団を基幹とした[118]。その後、9月には第9第13師団第101師団、重藤支隊、野戦重砲兵第5旅団が順次増援として上海派遣軍に加わった[119]

さらに10月には華北に展開していた部隊を引き抜き、第10軍が編成された(司令官:柳川平助[119]。第10軍は第6第18第114師団と国崎支隊を基幹とし、11月5日に杭州湾に上陸して上海戦に参加した[120]。加えて第16師団が華北から転用されて上海派遣軍に加わり、11月13日に上海に上陸した[119]。上海戦末期の11月7日に上海派遣軍と第10軍を統括する中支那方面軍(司令官:松井石根、上海派遣軍司令官と兼任)が新たに編合された[121]

この方面軍が上海戦の後、南京攻略へと向かうことになった。以下に秦郁彦のまとめに従って南京戦における日本軍現地部隊の編成をまとめる(1937年12月10日現在)。

時系列[編集]

  • 1937年7月7日:盧溝橋事件日中戦争開始[130][131]
  • 1937年8月11日:蒋介石上海に駐留する日本海軍陸戦隊への攻勢を指示[117]
  • 1937年8月13日:日中両軍が上海で戦闘開始、日本、陸軍の上海派遣が決定[130]
  • 1937年8月15日:日本、上海派遣軍を編組[130]、日本海軍、南京に初の空襲[16]
  • 1937年9月11日:日本、3個師団(第9第13師団第101師団)の上海派遣軍への増派を決定[130][119]
  • 1937年9月28日:石原莞爾少将、参謀本部第一部長から関東軍参謀副長に転出[132]
  • 1937年10月20日:日本、第10軍を編成[130]
  • 1937年11月5日:第10軍が杭州湾に上陸、上海戦に参加[130]
  • 1937年11月7日:日本、上海派遣軍と第10軍を統括する中支那方面軍を編組[130]
  • 1937年11月13日:第16師団(上海派遣軍)が白茆江に上陸[130]
  • 1937年11月15日:第10軍、南京への追撃前進を独断決定、進撃を開始[133][134]
  • 1937年11月15日:中国、南京分散遷都を決議[130]
  • 1937年11月19日:日本、上海における予定の占領線(蘇州-嘉興)に到達[27][130]
  • 1937年11月20日:日本、大本営を設置[130]
  • 1937年11月22日:中支那方面軍司令官松井石根大将、南京進撃を参謀本部に意見具申[134]
  • 1937年11月25日:上海派遣軍、南京への進撃を開始[134]
    • 以降、進撃路・南京近郊の村々で日本軍による虐殺・略奪・強姦・放火等が発生[135]
  • 1937年11月28日:日本、参謀本部次長多田駿中将、南京攻略に同意[134]
  • 1937年12月1日:日本、大本営が南京攻略を命令[130]
  • 1937年12月2日:上海派遣軍司令官が朝香宮鳩彦王中将に交代[130]
  • 1937年12月4日:中支那方面軍、南京戦区に突入。日本近現代史学者笠原十九司は、この日前後(南京行政区の農村部の虐殺なども含むので)を南京事件の開始とする[96]
  • 1937年12月7日:総統蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出[136]
  • 1937年12月10日:中支那方面軍、南京総攻撃開始[130]
  • 1937年12月12日:日本軍、アメリカ軍の砲艦パナイ号を撃沈(パナイ号事件[137]
  • 1937年12月13日:中支那方面軍、南京占領[137]、入場式に向けての中国軍兵士の「残敵掃討」が開始[61]される。中国兵の捕虜・敗残兵(間違って兵士とされた民間人含む)の殺害、安全区外や南京市外での民間人の殺害の大半がこの時期(12月13日-12月16日)に発生[138]した。
  • 1937年12月15日:ニューヨーク・タイムズティルマン・ダーディン特派員やシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者などの在南京の新聞記者が、南京から上海へ脱出して世界に南京事件を発信するが、南京にはジャーナリスト不在となる[139][140]
  • 1937年12月17日:中支那方面軍、南京で入城式を実施[137]。これ以降、南京での日本軍の虐殺は散発的にしか起きていないが、強姦などの不法行為は発生継続。
  • 1938年1月1日:南京自治委員会発会(日本軍に協力する現地の中国人の自治機関)[141]
  • 1938年1月26日:南京市内の元アメリカ人邸宅において、日本軍の下士官がアメリカ人外交官ジョン・ムーア・アリソンを殴打するというアリソン殴打事件(1938年1月26日)が起きた[142]。アメリカで反日デモも発生し、日本外務省側の陳謝でようやく沈静化[143]
  • 1938年3月28日:日本軍によって設立した言わば傀儡政権中華民国維新政府が南京に成立。日本軍による不法行為は終息。笠原十九司はこの日前後を南京事件の終了とする[96]

事件を引き起こした要因[編集]

軍紀廃頽[編集]

南京事件を引き起こした原因は複数あった。まず大きな要因として挙げられるのが日本軍の軍紀廃頽である。軍の士気・軍紀にまつわる問題は指揮系統から末端の兵士の統制に至るまで様々に存在した。上海における中国軍の攻撃に対応するために1937年が8月15日に編組・派遣された上海派遣軍であったが、これを決定した参謀本部の意向としては、あくまで上海周辺の中国軍を排除し日本人居留民の安全を確保するための限定的な出兵であった[144]。しかし、上海派遣軍司令官の松井石根大将はこの限定的な作戦目標に当初より不満を示し、大規模な陸軍部隊の派遣によって迅速に南京を攻略して満州国と同種の新政権を中国に樹立することを主張していた[145]。その後、上海戦の予想外の苦戦のために日本軍は第10軍を加え、さらに11月には両軍の上位に中支那方面軍が置かれて松井石根が方面軍司令官を兼任した[146][121]。この処置は上海派遣軍と第10軍を統一指揮するための応急的なものであり、方面軍には兵器部・経理部・軍医部・法務部(軍法会議)等、一般的な事務部門が設置されておらず、司令官の指揮権限も限定的なものであった[147]。この変則的な構成のため、後々の作戦指揮・指導において中支那方面軍は権威を欠き、上海派遣軍や第10軍は方面軍の役割を調整程度にしか見なかった[147]。実務部門の欠如は南京占領前後における作戦指導に大きな問題をもたらした。中支那方面軍が作戦行動を支える兵站機関を備えておらず、また法務部門が欠如していたことは、この方面軍が麾下の軍に対する軍紀・風紀の取り締まりを行う実行能力を持っていなかったことを意味していた[146]

激戦を経た上海派遣軍の士気低下・軍紀廃頽はこの時点で既に問題化しており、陸軍省など日本の陸軍中央部は上海戦の収拾を図った[23]。陸軍省軍務局軍事課長田中新一大佐は上海派遣軍の軍紀廃頽について以下のように記している。

軍紀廃頽の根元は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の処置が誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる。
軍紀粛正の道はそれらの全局面にわたって施策せられなければならないが、当面緊急の問題は、後方諸機関にある。後方諸機関の混乱は、動員編成上ならびに指揮系統上の見陥にももちろん起因するが、後方特設部隊の軍紀的乱脈が大問題である。
軍事的無知、無規律、無責任、怠慢など、およそ国体行動の要素は皆無というべく、これをこのまま放置しておいては全軍規律を同様せしめることにもなる。問題は制度や機構よりも人事的刷新にある[148]。」
田中新一
松井大将としては、南京攻略を切望す。目的は倒蔣・・・ただし、師団の現状では戦闘能力なかんずく攻撃能力に不足するものと、見あり。軍紀風紀の維持については、憂慮すべきもの多く、その原因の重大なるものは、指揮官各級ともに威力なきにあるといえる。軍再建に関する件
(1)情況上、整理可能なるに従って予後備兵の召集解除を行い、できるだけ速やかに平常の体制に移し、右による兵員の不足は、補充兵、新兵によって充足する。
(2)下士官の精違整理をおこない、かつ徹底せる短期再教育を行う。将校についても同断。右のほか、戦地教育の徹底をはかる[149]。」
田中新一

南京攻略の意思決定過程[編集]

南京攻略を決定する日本軍の意思決定プロセスも南京事件の遠因となった。上海への派遣兵力は当初想定を超えて大規模なものとなっていた。この増援を決定する過程で、参謀本部において第一部長(作戦部)として上海の戦闘の不拡大を主張していた石原莞爾少将が主導権を失って事実上更迭され、後任には戦線拡大派の下村定少将が就任し、拡大派の武藤章大佐らが主導権を握った[21]。そして上海における戦闘が一段落した1937年11月上旬、武藤章大佐や塚田攻少将ら、拡大派の指揮官たちが中支那方面軍の幕僚として出向した[146]。陸軍省軍務局軍事課長田中新一大佐は武藤章らと同じく戦線の拡大を主張していたが、彼の目から見ても上海派遣軍の兵站・軍紀には重大な問題があることが明らかな状況であった[24]ので、軍の再編を望んだ。しかし、この軍の再編処置は実行されなかった。11月15日、第10軍司令部は内陸への進撃を不可としていた陸軍中央の命令を無視し、撤退する中国軍を追撃して南京に進撃することを独断決定した[133][134]。この報告を受けた参謀本部次長多田駿中将は前進の停止を命令したが、11月20日に設置された大本営では下村少将らによって、南京その他を攻撃することも状況如何によってあり得るとして、なし崩し的に方針の中に組み込まれていった[150]。第10軍が南京への進撃を始めた直後、中支那方面軍司令官と上海派遣軍司令官を兼任していた松井石根大将も南京への進撃を参謀本部に意見具申した[151]。その後上海派遣軍も南京への突進を開始し、第10軍と上海派遣軍による先陣争いのような状況となった[注釈 13]。参謀本部・大本営は最終的に現地の状況を制御できず、11月28日には南京攻略を承認した[153]。このような意思決定のため、南京に向かう部隊は上海戦の損害を補充することもできず、また必要な兵站を殆ど欠いた状態で進軍することになった。これは日本軍の軍紀廃頽に拍車をかけ、また兵站のほとんどを現地調達に依存したことは略奪を拡大することになった[26][134]

秦郁彦はこの状況について、「血気盛りの若い中隊長が功名心にはやるぐらいならともかく、二十万の大軍をひきいる軍司令官が、方面軍はもちろん中央の命令、方針を無視して、敵首都攻略を抜けがけしようというのである。軍紀・軍律を守れと部下兵士に要求するどころではない。それに南京までの四百キロの長距離急進を支える装備も補給の準備もなかった。さすがに幕僚会議では、兵士の多くが軍靴を持たず、地下足袋姿なので追撃は無理ではないか、という声もでたが、作戦主任参謀寺田雅夫中佐が、「地下足袋が破れたら手ぬぐいを巻いても前進できる。弾薬がなくても相手は支那軍、銃剣で足りる。神速なる追撃をやれば現地物資の徴発利用がかえって容易になる」(寺田「第十軍作戦指導ニ関スル考察」)と強気でまとめ、衆議一決したという[154]」とまとめている。

中国軍の焦土戦術[編集]

日本軍の南京進撃に先立ち、中国軍は12月7日から12月9日にかけて「清野作戦」を実行した。これは日本軍に遮蔽物として利用される可能性のある建物を焼却する焦土作戦であり、南京城壁周囲の居住区および南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家が焼払われた[51]。食糧物資を現地調達に依存していた日本軍はこの焦土戦術の結果、南京周辺で駐屯することができなくなり、南京城内に駐屯することになった(これは中支那方面軍の司令部からは厳禁されていた行動であった)[51][48]。南京市街でも軍政部や鉄道部などの主要建造物が焼却された[31]。また、南京防衛を巡る中国軍の方針が死守と撤退で一貫せず、防衛兵力を確保するために兵士の逃亡を防止する処置がとられていたことは、中国軍が実際に撤退する段階に入って多数の兵士が置き去りにされたり、逃走防止のための同士討ちをする事態を引き起こした[32]。日本近代史学者臼井勝美はこの状況を「中国人兵士および南京市民の悲劇は日本軍南京入城前に始まり、そしてさらに陰残な悲劇が日本軍入城後待ちうけていた[32]」と評している。

入城式の強行[編集]

南京での戦闘が完全には終わっていなかった12月14日から日本国内では南京占領を祝賀する各種行事や報道が広範に繰り広げられ戦勝ムードを盛り上げた[155]。現地軍の独断専行から始まった南京攻略戦であったが、昭和天皇から南京占領を喜ぶ「御言葉」も下賜され、南京占領は公式にも認められる戦果となっていった[155]。このような状況を受けた松井石根大将は12月17日に中支那方面軍の入城式を行う旨を上海派遣軍に通達した[156]。上海派遣軍の現地部隊は時期尚早として繰り返し延期を求めたが、松井大将は頑として12月17日の入城式実行を譲らなかった[156][157]。一方で上海派遣軍麾下の第16師団は12月15日には既に独自に入城式を行っており、現地軍の功績を横取りするような中支那方面軍の入城式に関する通達に強い不快感を示している[156][注釈 14]

結局12月17日の入城式は強行されることとなったが、南京城内での戦闘はまだ散発的に発生しており治安が確立されていなかった。また多くの敗残兵が市民の中に紛れ込んだことが予想され、上海戦以来便衣兵の奇襲攻撃による損害を経験していた日本軍はこれに対する強い警戒心を持っていた。このため皇族である朝香宮鳩彦王(12月2日、上海派遣軍司令官に就任)の身の安全の確保やその他の不祥事を防ぐため、入城式の挙行に合わせて早急な治安回復が必要になると「疑わしいものはすべてその日のうちに始末する方針がとられた[158][159]。この結果、例えば南京の難民区における掃討を担当した第9師団などは、兵士と民間人を選別する余裕をもたなかったために成年男子のほとんどを便衣兵と見なして処刑するような事態となった[158]

捕虜への人道的配慮の欠如 / 敗残兵を便衣兵と見なしたことへの疑問[編集]

南京戦では、非常に多かったとされる殺害事案が、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害であり、1万人単位の大掛かりな捕虜殺害は稀であり、数十人や数百人単位の虐殺が数多く発生したと、秦郁彦は説明する[160]。(但し、実際には、揚子江での数千から数万程度の大量処刑の各種証言や大量処刑との関連性を疑わせる一か所での大量死体埋葬の記録が存在する。)

当時の捕虜の取り扱いに係る戦時国際法ハーグ陸戦条約(1907年改定後)は、日本・中華民国がともに条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)[161]していたが、日本の軍部が、戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を出した(日本陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長宛の1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」(陸支密第198号)[11][162]。秦郁彦はこれは国際法を遵守しなくともよいとも読めるが、解釈の責任は受け取る方に任せて逃げたともとれるとした[11]。日本軍は明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していた((1937年10月15日付軍務一機密第40号)「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れる)[163]

このように、日本側が、自ら批准した戦時国際法に忠実にならなかった背景には、日本側が宣戦布告を行わず「事変」とみなす政策をとったため(もし宣戦布告した場合、アメリカが中立法を発動して軍需品をアメリカから輸入できなくなるなど不利であるため)に、本来と公的に「戦争」を宣言しないことの影響として、戦争なら当然適応される戦時国際法による捕虜の対処策などがおろそかになったのでは、という説が日中歴史共同研究にて指摘されている[164]

また、このときの日本陸軍は捕虜管理のための機構を設置しなかった[11]。捕虜を管轄する軍務局にいた武藤章(参謀本部)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されており、つまり、陸軍は戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった[165](但し、1941年には俘虜情報局と俘虜収容所が設置された)。日本軍では捕虜をタブー視しており、上海戦では捕虜処刑が暗黙の方針になっていたが、首都の南京攻略では明確な方針があるべきだったと秦郁彦は述べる[166]

また、日本軍が、軍服を脱いで民衆に紛れようとした中国軍の敗残兵を便衣兵として大量に殺した行為は、戦時国際法上の解釈の間違いであるとする考えがある。つまり、(軍服着用などの)交戦者資格を満たしていないだけでなく、「害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うもの」を便衣兵とみなす、と戦前の国際法学者信夫淳平は説明する[167]北岡伸一も、「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍」と主張している[168]。ただし、南京事件否定派の意見(軍服を脱いで民衆に紛れようとしただけで便衣兵とみなすという考えを主張する)も存在する。(軍服着用などの)交戦者資格を満たしていない場合は(そのまま)非合法戦闘員(便衣兵)となり、戦時国際法に照らして処刑しても合法であり虐殺ではないと東中野修道は主張した[169]佐藤和男も、武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する兵は、逃走したとは認められないと述べた[170]

責任者の処罰[編集]

第二次世界大戦終結時まで、日本において南京事件が公式に問題として取り扱われることがなかったため、一連の虐殺・不法行為に関連する責任が問われたのは戦後に連合国によって開催された極東国際軍事裁判(東京裁判)と、中華民国で開催された南京軍事法廷によってである。第二次世界大戦後に日本の戦犯を裁いたこれらの裁判では、戦犯とされた人々が種別によってA級戦犯BC級戦犯に区別された[171]。このA級、B級、C級という用語は、先行してナチス・ドイツの戦争犯罪を裁くために開催されたニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章の第6条において戦争犯罪の類型が(a)平和に対する罪(b)戦争犯罪(c)人道に対する罪に区分されていたものを適用したものであり、A級がBC級より重大であるというような序列を示すものではない[172]。日本においては東京裁判の被告が即ちA級戦犯であると言え、BC級戦犯は各国で開催された法廷で審理された[171][14]。南京事件を取り扱ったのが南京軍事法廷である。

東京裁判においては、南京事件(南京およびその周辺における市民・捕虜の虐殺)が事実であると判断され、中支那方面軍司令官であった松井石根大将が絞首刑となった[6]。松井大将の責任に対する判断は以下のようなものである。

「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は二十万以上であった」「自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務を怠ったことについて、かれは犯罪的責任がある」[173]
東京裁判

また、南京軍事法廷において次の4名が死刑となった[15]

東京裁判では南京事件について処断されたのは松井石根大将一人であり、実質的に彼が南京事件の責任を負う形となった[174]。また、南京事件についてBC級戦犯として訴追されたのはこの4名だけであった[175]。秦郁彦は「東京裁判に先立って軍事法廷が起訴した戦犯が一五〇八名もいたのに、南京事件に対する起訴者がわずか四人にすぎなかったのは、いかにも不自然」としてその要因を次のようにまとめている[175]。まず、東京裁判から見て8年前の事件容疑者を特定し確認することが技術的に困難であったことがある。その後の戦争で南京戦に参加した兵士たちは各地に移動してしまっており、戦死している者も多く、当時の所属部隊を特定するのも難しかった上、指揮官クラスにも死者が多かった[175]。第2に終戦直後から中国で始まった国共内戦の結果、中国において十分な調査を行う余裕が無かった[175]。最後に、東京裁判は基本的にアメリカのペースで進められたが、アメリカは日本軍の毒ガス細菌戦の方を重視し南京事件に力点をおかなかった[175]。これらの要因から、南京軍事法廷で裁かれた南京事件のBC級戦犯は、谷寿夫中将以外は実際の責任の所在というよりも中国における知名度によって選別されたものであった。田中軍吉大尉は1940年に日本国内で「三百人斬り」の勇士として、向井敏明少尉と野田穀少尉も「百人斬り」の英雄として日本国内のマスコミで紹介されていた[176]。結果として、彼らは名前が知られていたために「不特定多数の犯人の代表として」裁かれる形となった[177]

南京事件の史料[編集]

一般に大規模な虐殺や戦争犯罪において、正確な犠牲者の数を割り出すことには多くの困難が伴う。これは南京事件においても例外ではなく、歴史学者が実証的見地から使用することのできる南京事件(南京大虐殺)の史料には多くの制約がある[178]。この事件についての主たる情報源は次のようなものに分類される。

  • 第三者(ジャーナリストや南京国際安全区にいた外国人)の報道・証言
  • 被害者の証言
  • 加害者の証言

このうち、第三者による証言は南京事件を報告する最も早い記録であった[179][180]。ジャーナリストによる記録は日本軍による南京占領のあと一週間以内に伝えられており、ニューヨーク・タイムズシカゴ・デイリーニュースに掲載された[181]。外国人のジャーナリストは1937年12月16日にAP通信の記者が離れて以降、数か月にわたって南京には一人もいない状態になったが[181][99]、南京国際安全区にはその後も二十数名の欧米人が残留しており、彼らの証言や記録も当時の状況を知るための重要な史料になっている[181][99]。これらは直接日本軍の行動を目撃した人々が間を置かずに記録した史料として重要であるが、限定的な情報でもある。歴史学者楊大慶はこうした欧米人による証言の限界について「第三者の観察者としてこれらの人たちは、日本軍兵士、場合によっては中国軍兵士が加えた残虐行為や損害について説得力ある情報を提供した。しかし、この種類の証拠には限界もある。(中略)残留した欧米人二十四、五人-大部分が安全区内に残っていた-は、何十万という住民がいるより広い地域でその後実際に起こったことのほんの一部分を目撃したにすぎない」とまとめる[181]

被害者の証言も重要な情報源である。しかし、当然ながら死者が証言を残すことはなく、生存した者だけが証言を残すことが可能である[181]。こうした証言のうち最も早いものは、日本軍の占領から数ヶ月後に南京を脱出した一部の人々の証言が中国語新聞に掲載されたものである[181]。しかし、南京で生き残った人々はその後、日本軍の占領下で生活することを余儀なくされており、彼らが公然と日本軍の残虐行為について語ることが可能になったのは事件から第二次世界大戦の終了まで8年弱にわたる時間的懸隔を置いた後であった[181]。これらの証言の中でも早期のものは東京裁判南京軍事法廷に提出された。しかし戦争犯罪の被害者たちが必ずしも積極的に証言を行うことを望んだわけではなく、とりわけ強姦の被害者とその親族は証言を拒否することが多かった[182]。さらにその後成立した中華人民共和国では、1950年代と60年代に生存者たちに面接調査が行われ、1971年以降、朝日新聞記者本多勝一による大規模な面接調査が行われて被害者の証言が集められた[182]。中国で本格的に歴史上の証拠として被害者の証言が収集されたのは1980年代以降になってからである[182]

加害者、即ち日本軍の関係者による証言は、少数の例外を除いて1950年代以降になってから得られたものである[183]。これは同時代においては日本の戦時検閲制度によって南京における日本軍の犯罪についての情報が統制されていたこと、また戦後連合軍が収集した日本側文書の中にも南京攻略戦に関わるものがほとんど無かったことによる[183]。その後、市民グループや関係者によって旧日本兵の日記や日誌などが収集されるなどして加害者の証言も得られ始めた。このため日本軍関係者による証言文書は「歴史上の証拠という点から言えば、それは、戦後の戦犯裁判が始まって以来最も重要な新しい状況である[183]」。しかし、楊大慶によれば南京攻略戦に参加した日本軍部隊の陣中記録の30パーセント弱が突き止められたに過ぎないという[184]。とりわけ、重要な役割を果たした将校たちは南京事件に関して「いかなる『文書足跡』も残さなかった[183]」。

犠牲者数[編集]

大きな史料的制約によって、南京事件において、あるいは日本軍の南京占領に関連して発生した虐殺の犠牲者の正確な数は今日では完全に特定することは不可能になっている[185][186]。日本の研究者の間では数万人から10数万人とする者が多い[5]。日本近代史学者秦郁彦は38,000人から42,000人[注釈 15]、中国近現代史学者の笠原十九司は10数万以上、20万人近いかあるいはそれ以上[188]、という推定を出している。以下に詳細で示す。

  • 11万9000人以上 - 笠原十九司が、南京郊外を含む説としては、中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)、計11万9千人以上という[189]
  • 4万人 - 秦郁彦は、中国兵犠牲3万、一般人犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした[190][注釈 16]。ほか久野輝夫は37,820人とする[192]。中国文献では、中国軍約11-12万人のうち約4-6万人が南京で戦死と捕虜(行方不明を含む)とされる[193]
  • 1〜2万 - 板倉由明は、中国兵の犠牲8千人と一般人の犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする[194]。当時の戦闘詳報などの公式記録には約1万前後の敗残兵(捕虜)の殺害記録もある[195]

中国では30万人という説が主流であり、南京の南京大虐殺記念館の正面入り口にもこの数字がかかれている[5]

南京事件を扱った作品[編集]

小説[編集]

南京事件の生々しい記述のため[要出典]、当時新聞紙法に問われ発禁処分、石川も禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。

映画[編集]

戦時中の記録映像による映画[編集]

  • 南京』(日本、1938年) - 南京陥落翌日昼から翌年1月上旬までの間に南京城内外を撮影したが、南京事件の場面はない。撮影者による、見たもの全部を撮ったわけではなく撮った中にも切られたものがあるとの証言がある。
  • ザ・バトル・オブ・チャイナ』(米国、1944年) - 南京事件が映されているが米中のプロパガンダによる誇張説がある。
  • 中国之怒吼』(中華民国、1945年) - 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を編集したもの。

日本映画[編集]

中華圏映画[編集]

欧米映画[編集]

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

音楽[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 東京裁判判決では20万人以上とされている[6]
  2. ^ 2000年時点
  3. ^ ジョージ・ワシントン大学教授[注釈 2]の歴史学者楊大慶(Daqing Yang)は名称を巡る議論について次のようにまとめている。「一九三七年の議論をどう呼称するかについて合意がないということは、言語上の問題の一つの反映である。初めは中国で使われ、その後、日本、その他の国でも使われている『南京大屠(虐)殺』という語は、それが南京での事件の内容をどのように限定しているかを示している。大屠(虐)殺という語は、強姦や略奪や放火を軽く見ている語ではないだろうか。それはたんに虐殺だったのだろうか、それとも大虐殺だったのだろうか。他方、日本では、さまざまな文筆家によって『南京事件』という語が使われてきたが、しかし、他の国ぐにではそれは、一九三七年の恐怖に、ありふれた事件であるかのような響きを与えるものだとして多分に批判をまねいている[7]
  4. ^ 引用は笠原十九司『南京事件』72頁より。ほとんど同文の評は吉田裕『もうひとつの日中戦争史、天皇の軍隊と南京事件』にも見られる。以下は吉田の評の引用である。「上海攻略後、南京に向かう追撃戦の全過程は、すでに上海戦の段階で顕著になっていたさまざまな不法行為、残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす過程でもあった[28]。」
  5. ^ 原文のカタカナ表記をひらがなに改めた。
  6. ^ このような行軍中の虐殺行為には様々な証言がある。歩兵第20連隊の上等兵牧原信夫の陣中日記は以下のような記述を残す。「(十一月二二日)道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(十一月二六日)午前(原文注:午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失神状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。(十一月二七日)支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて十一時、出発す。...鉄道路線上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。(十一月二八日)午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準をつけ一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれて支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全く火の海である。老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。(十一月二九日)武進(常州市に属する)は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない[40]。」
  7. ^ 秦郁彦が引用する日本の外交官日高信六郎の東京裁判での証言によれば12月17日時点で憲兵14人、数日中に補助憲兵40人が得られるはずという状況であった。秦郁彦は上海派遣軍と第十軍を合わせて、南京占領直後に城内で活動していた日本軍の正規の憲兵は30人を越えなかったと推定している[50]
  8. ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[54]。この文書の冒頭に「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
  9. ^ 笠原十九司によれば、当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日記においてパナイ号事件によって日米の国交断絶を覚悟したと記している。日米開戦にも繋がりかねないこの事件を巡る交渉の方に注目が集中したのは自然の成り行きであった[110]。また、パナイ号はジャーナリストの一時待機所になっており、日本軍の南京占領直前までに行われた取材活動の資料などはパナイ号と共に失われた[111]。パナイ号事件を研究するアメリカの研究者の間では、この事件は真珠湾攻撃に至る日米開戦への転機と位置付けられている[112]
  10. ^ 1937年12月2日に松井石根大将から交代。
  11. ^ 1937年12月28日、稲葉四郎中将に交代。
  12. ^ 海軍
  13. ^ これについて秦郁彦は「松井大将は元来が南京攻略論者だったし、上海派遣軍をひきいる立場から第十軍とのライバル意識を刺激されたのかもしれない」と評している[151]。また、笠原十九司は現地入りしていた武藤章が南京進撃を成功させるために、第10軍(第6師団)の急進撃と戦果を称える一方で上海派遣軍(第16師団)の戦果をこき下ろすような電報を第16師団宛てに送り、第10軍と上海派遣軍の南京一番乗り競争を煽ったことを指摘している[152]
  14. ^ 南京攻略戦の際、中支那方面軍司令官であった松井石根大将は病気と疲労のため蘇州司令部におり、南京攻略戦自体には参加していなかった[156]
  15. ^ 兵士30,000人、一般市民8,000人から12,000人の合計。これはルイス・S・C・スマイスによる民間慈善団体の紅卍字会および崇善堂の死体埋葬記録の調査で得られた数字を参考に調整したものである[187]
  16. ^ 秦は南京の中国軍の兵力10万、5万が戦死、4万が捕虜、3万が殺害(生存捕虜は1万)と推定。台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長飯沼守少将日記、上海派遣軍郵便長佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」に符合[191]

出典[編集]

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  182. ^ a b c 楊 (2000)、175頁
  183. ^ a b c d 楊 (2000)、176頁
  184. ^ 楊 (2000)、177頁
  185. ^ 笠原 (1997)、218頁
  186. ^ 秦 (2007)、207頁
  187. ^ 秦 (2007)、214頁
  188. ^ 笠原 (1997)、227-228頁
  189. ^ 笠原十九司 1997, pp. 218–228。この説に近い者は洞富雄藤原彰吉田裕井上久士本多勝一小野賢二洞富雄、藤原彰、本多勝一編 1987, p. 28
  190. ^ 秦郁彦 2007, p. 317
  191. ^ 「現代史の光と影」P26‐27
  192. ^ 中京学院大学研究紀要「中華民国史料(1946年)からみた「南京事件」 中華民国調査資料国立中央研究院社会科学研究所「中国対日戦時損失之合計」
  193. ^ 民国档案 2004.3、133頁
  194. ^ 板倉由明「本当はこうだった南京事件」199-200頁。中国軍総数5万、戦死者数1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人。市民に対する被害者総数は城内と江寧県を合わせて1万5,000人、うち虐殺被害を5,000-8,000人。兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1〜2万人と推計する。この説に近い者は畝本正己原剛中村粲
  195. ^ 『南京戦史』(1993)偕行社
  196. ^ Chi-Wei Manは,The Rape of Nanking vs. The Incident of Nanking: A Literature Review,in Momentum,Vol. 1: Iss. 1, Article 9,the University of Pennsylvania,2012.で「novel」としている。
  197. ^ 新華社 「(國際)中法主創人員推介漫畫書《南京1937》」Oct 29, 2014
  198. ^ 東網「国内首部南京大屠杀漫画《南京1937》出版」2014年11月10日(一) 17:50.重慶日報「国内首部讲述南京大屠杀的漫画书《南京1937》」2014年11月10日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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