卍海宗珊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
卍海宗珊
宝永3年12月27日 - 明和4年1月11日
1707年1月30日 - 1767年2月9日
恒堂
生地 京都
宗旨 曹洞宗
三州白龍
弟子 宗潭円澄、網天祖超、旭山慧琳、宝山禅圭、泰岳穏禅、宝曇光萼、愚国俊英、覚非廉童、大音不説、大道一居、鍾山義道、宗宜、大超[1]
著作 『禅戒訣註解』
テンプレートを表示

卍海宗珊(まんかい そうさん)は、江戸時代中期の曹洞宗[2]。俗姓は増田[2]。別号に恒堂[2]。父は増田姓[1]。母は福井氏[1]

卍山道白の法嗣である三洲白龍の法を嗣ぎ、卍山が開創した京都源光庵五世や、京都安正寺二世(妙玄院)、信濃光厳寺八世を歴任した[3]。『鷹峯卍山和尚広録』(『卍山広録』)の刊行の幹事、『妙玄白龍和尚語録』の編述、『宗統復古志』の筆受・刊行などが主な業績として挙げられる[1]。また語録に『卍海宗珊和尚語録』(『卍海語録』)がある[1]

経歴・人物[編集]

三州白龍の法嗣として[編集]

京都に生まれる[2]享保元年(1716年)の秋、曹洞宗の寺院源光庵三州白龍のもとに投ず。同13年(1728年)の春、隠之道顕の江戸妙喜庵に参じ、梵林(桂巌梵林)や晣賢(晣賢黙伝・戒光折賢)等と法友となり掛錫する。同14年(1729年)、加賀宝円寺大用慧照に参じ、戒脈を相承する。同15年(1730年)の春、加賀の大乗寺大機行休に参ずるが大機は示寂する。同年秋、三洲が大乗寺の後席となり、随身として仕える。同17年(1732年)の冬、三洲の『鷹峯卍山和尚広録』(『卍山広録』)の刊行を発願、卍海はその幹事となり、約10年で刊行する。同18年(1733年)、三洲の印証を授かる。元文2年(1737年)の冬、加賀の浄明寺の覚岸白明安居に赴く。同年秋、越前国永平寺に瑞世拝登する。のち京都の妙玄庵(現在は廃寺)に8-9年住み、『宗統復古志』を筆受した[1]

源光庵住持として[編集]

延享3年(1746年)の春、源光庵四世の覚城請詢の後を継ぎ、源光庵五世となる。同4年(1747年)、僧堂を建て結制し安居する。同年、開堂演法および源光庵一世卍山道白の33回忌を厳修する。寛延3年(1750年)、随意会を発足。同年冬に帰山し、小参説法をする。宝暦2年(1752年)の夏、結制し安居する。道元禅師の五百回遠忌において大蔵経を厳修する。以後3,4年に一度、禅戒を盛んに行う。同5年(1755年)の冬、源光庵の葺き替えを行う。同9年(1759年)の秋、源光庵の大殿を方丈とし、庫堂を拡張する[1]

師・三州の遷化[編集]

宝暦10年(1760年4月8日三洲、遷化する。同12年(1762年)の夏、妙玄庵において戒師に勤しむ。同13年(1763年)、万徳殿、応真閣を建てる。同年厳修した卍山の50回忌には約1600人の雲水僧が集った。明和二年(1765年)、河内の龍光へ戒会に赴く。同年夏の末に帰山する。同3年(1766年)9月、門徒に上堂を請われ、これを受ける。同年の年末に微恙を示す。同4年(1767年1月8日、病臥し侍者に遺偈を示す。同月11日、示寂する[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 塚田 博「卍海宗珊頂相と頑極官慶墨蹟」
  2. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『卍海宗珊』 - コトバンク
  3. ^ 『曹洞宗全書』大系譜、p.183, 187