亥鼻城

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亥鼻城
千葉県
亥鼻城址の碑
亥鼻城址の碑
別名 千葉城、猪鼻城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 千葉常重
築城年 1126年(大治元)
主な城主 千葉氏歴代
廃城年 1516年
遺構 土塁、堀切、模擬天守
指定文化財 市指定文化財(猪鼻城跡、七天王塚)
再建造物 郷土資料館・亥鼻公園
位置
地図
亥鼻城の位置(千葉県内)
亥鼻城
亥鼻城

亥鼻城(いのはなじょう)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の重鎮であった千葉常胤の父・常重が大治元年(1126)に千葉県千葉市中央区亥鼻町に居館を構えた日本の城。土塁、堀切などが現存し城跡は市指定文化財に指定されている。

別名:「千葉城(ちばじょう)」、「猪鼻城(いのはなじょう)」。

1516年(永正13年)に落城後、1861年(文久元年)の千葉八景に「猪鼻山の望月」が選ばれるなど、古くから名所旧跡として親しまれ、1988年昭和63年)に歴史公園亥鼻公園」として千葉市立郷土博物館、いのはな亭(茶室及び庭園)が整備された。公園にはソメイヨシノが約100本あり、毎春「千葉城さくら祭り」が開催され、期間中は夜桜や郷土博物館のライトアップ、多くの出店を楽しめるなど桜の名所としても親しまれている。

概要[編集]

亥鼻城または千葉城ともいわれる千葉氏の居城があった猪鼻山は、北は都川、西は断崖に面した天険の要害の地に築かれた平山城である。源頼朝の挙兵に際し、いち早く参陣して東国武士団の動向に大きな影響を与えた千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の父常重(つねしげ)が、1126(大治元)年、上総国大椎城(おおじじょう)(千葉市大椎町)から拠点を移して以来、1455(康正元)年、胤直(たねなお)が支族原胤房(はらたねふさ)に追われるまで、13代330年にわたって両総に覇を唱えた千葉氏の拠点である[1]

千葉氏最盛期の城主であったが1516年(永正13年)に落城。城跡は1909年明治42年)以降公園として開放され、1959年昭和34年)に歴史公園亥鼻公園」(面積10,293平方メートル)として整備された[2]。亥鼻山の中腹には、外観を日本の近世城郭の天守建築を模して1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で建設された千葉市立郷土博物館がある[3]

歴史・沿革[編集]

亥鼻城は、長らく千葉城に比定され、1126年(大治元年)に千葉常重によって築城された千葉氏の館跡と考えられてきた。しかし、千葉氏の史伝書には、千葉城=亥鼻城という記述はなく、千葉市立郷土博物館が発行した「資料にみる千葉氏」は、亥鼻に千葉氏の城があったというのは江戸時代以降にできた伝説のようなものではないかとしている。ただし別名として亥鼻城を千葉城と呼ぶことはある。

千学集抄は、千葉氏の館の場所を「堀内」と記しており、近年は千葉市街の低地に千葉館があった説が有力視されている。

亥鼻城跡からは、鎌倉時代の蔵骨器が発掘されている一方、生活感のある出土物が少ないため、亥鼻には千葉氏(宗家)の時代に墓地があり、これが後に城郭化されたとする説がある。

亥鼻城は、1516年(永正13年)に落城したと記録されている。

落城後、模擬天守閣をもつ千葉市郷土博物館の周囲一帯(現在の亥鼻公園)及び千葉大学亥鼻キャンパス方面を含んだ場所は城跡であり、地名をとって「亥鼻城跡」と呼ばれている。土塁や空堀が残されており、その特徴から戦国時代の城跡と推測されている[4]

千葉城と亥鼻城[編集]

千葉市立郷土博物館

千葉城といえば亥鼻城のことだというイメージを持つ人は多いが、亥鼻の古城が千葉氏の城だという記述が出てくるのは、江戸時代になってからのことである[5]

1858年(安政5年)、成田山新勝寺の新本堂建立の際に制作された「成田名所図会」には、千葉常胤に関する一節がある。そのなかに、「千葉氏古城址の図」が掲載されており、中央に亥鼻山が描かれている。

また、近現代になってからも、亥鼻山を古城址と書いた絵葉書が複数作られているほか、1926年(昭和元年)には亥鼻城跡に千葉開府800年記念碑、1976年(昭和51年)には千葉開府850年記念碑が建立されており、この時代には亥鼻=千葉氏のイメージが定着していることがわかる。

1967年(昭和42年)には、城跡に天守閣造りの千葉市立郷土博物館がオープンした。この建物は、亥鼻城とも千葉氏とも何ら関係のない構造をしているが、千葉の中心部ではいかにも城らしい城の外観をしているため「千葉城」と呼ばれて親しまれるようになり、次第に亥鼻城と博物館の通称である千葉城が混同されるようになっていった。

中世の千葉城が登場する数少ない資料である「相馬文書」には、1335年(建武2年)の一族の内紛の際に、千葉胤貞方が「千葉城」「千葉楯」を攻撃したことが記されている。しかし、亥鼻城のような台地上の城郭が築かれるようになるのは15世紀以降のことであり、「千葉楯」ともあることから、これは低地上の館を楯などで戦闘時に城郭化したものと考えられる。

構造[編集]

突端の構造が猪の鼻に似ている、あるいは亥の方角を向いていることから、亥鼻の名がある。突端部には神明社と亥鼻城跡の碑があり、神明社のある郭は物見の跡と伝えられる。そこから郷土博物館の間にほぼ唯一の遺構として土塁が残る。

古くは、千葉大学医学部から中央博物館バス停付近までの広大な範囲を城域に含むという説があったが、近年の発掘調査では遺構は確認されていない。

中央博物館バス停付近には、七天王塚があり、千葉市は亥鼻城跡と七天王塚をあわせて市の文化財に指定している。

また、城跡北側の台地下には、「お茶の水」という井戸跡がある。この井戸から汲んだ水で千葉常胤がお茶をたて、源頼朝に献じたなどの伝説が残されている。城跡東側の階段はかつて池田坂と呼ばれ、城の搦手(裏門)にあたると言われる。

アクセス[編集]

  • 千葉駅から千葉大学病院・南矢作・川戸都苑行きバス「郷土博物館・千葉県文化会館」下車徒歩2分
  • 千葉都市モノレール県庁前駅から徒歩5分

脚注[編集]

  1. ^ 千葉県高等学校教育研究会歴史部会=編 (2006-5). 千葉県の歴史散歩. 山川出版社. 
  2. ^ http://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-inage/inohanap-top.html 「ようこそ千葉発祥の地「亥鼻公園」へ」千葉市ホームページ 2016年10月23日 閲覧
  3. ^ 加藤理文著『日本から城が消える : 「城郭再建」がかかえる大問題』洋泉社、2016年、ISBN 978-4-8003-1014-9
  4. ^ 千葉市. “猪鼻城跡(含七天王塚)(市指定文化財)” (日本語). 千葉市. https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/inohanajoseki.html 2018年5月17日閲覧。 
  5. ^ 「資料に見る千葉氏」 千葉市立郷土博物館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]