十三翼の戦い

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十三翼の戦い(じゅうさんよくのたたかい)は、1190年ごろに後にモンゴル帝国の祖となるチンギス・ハーンと、かつての盟友ジャムカとの間で行われた戦い。ダラン・バルジュドの戦いともいう。

十三翼の戦いの経緯[編集]

モンゴル部ボルジギン氏キャト氏)の若き首領・テムジン(後のチンギス・ハーン)は、旧交のあったジャジラト氏のジャムカの勢力と盟友の関係にあった。しかし、ジャムカの弟タイチャルが、テムジンの配下・ジェルメの弟ダルマラの馬を盗み、ダルマラに射殺される事件が起こる。ジャムカはテムジンに下手人を出すよう要請したが、テムジンはこれを拒否した。この事件によってテムジンはジャムカと袂を分かち、独自行動をとったため、ジャムカによるテムジン討伐が開始された。

ジャムカはテムジンの同族であるタイチウト氏と同盟して、3万ともいわれる大軍を擁していたのに対して、テムジン側にそれほどの勢力はなく、テムジン幕下にあった本家筋のアルタンらキヤト氏族の戦意も低く、勢力差は歴然としていた。両陣営はダラン・バルジュトの平原で会戦したが、この時、チンギス・ハーンが組んだ布陣は、生母ホエルン率いる第1陣以下13の部隊により編成されたことから、十三翼の戦いと呼ばれる。

この戦いの勝敗について、どちらが勝利したか史料によって食い違うものの、学説上はテムジン側の敗北と見る向きが強い。テムジンの陣営はジェレネ峡谷に逃げ込んだといわれる。ジャムカは戦後、テムジンに味方した氏族の捕虜の将兵約70人を釜茹での刑に処し、離反者の首を切り馬の尾に繋いで曳き、苛烈な処罰で臨んだといわれる。この結果、ジャムカは人望を失い、敗北したテムジンにつく部族が増え、両者の勢力を逆転させる契機になったといわれる。しかし、当時の慣習からいって、敵軍捕虜への苛烈な処罰は珍しくないとの指摘もあり、この後のジャムカ衰退の原因を、戦利品の分与に不満を持った配下が、ジャムカからテムジンに寝返ったものと見る向きもある。