医道

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医道(いどう、醫道)とは、日本律令制における医療そのものあるいはそのための教育(医学教育)を指す。今日でも、医道審議会などで医学のことを「医道」と称すのはその名残である。一般の教育が式部省被官の大学寮で行われたのに対して、医道は宮内省被官の典薬寮で行われたところに特徴がある。

概要[編集]

養老律令によれば、典薬寮に典薬頭以下の四等官が設置され、医師・針師・按摩師・呪禁師の技術官僚が置かれた。これとは別に教育組織として技術官僚の中で学識・技術の優秀な人物から選ばれた医博士針博士按摩博士呪禁博士が各1、学生として医生40・針生20・按摩生10・呪禁生6が置かれていた。これはの太医署の制度を継承したものであるが、医博士が正八品上から正七位上、針博士が従八品下から従七位下、按摩博士が従九品下から正八位上、呪禁博士が従九品下から従七位上と引き上げられており、医師が貴重であった当時の日本の実情を反映している。また、薬学分野には「薬博士」は置かれず薬園師が直接薬園生(典薬寮)・薬生(内薬司)を教育していた。

医生などの学生は13歳以上16歳以下から採られ、蜂田薬師・奈良薬師などの薬部世習(3代続く家系)を優先し、不足する人材は庶人などから採用した。学生は基礎課程として『黄帝甲乙経』・『脈経』・『神農本草経』(延暦6年(787年)以後は『新修本草』に変更[1])を読み、『小品方』・『集験方』を兼修する。針生の場合は更に『黄帝素問経』・『黄帝鍼経』・『脈決』・『黄帝明堂経』を読み、『流注経』・『偃側図』・『赤鳥神針経』を兼修する。『延喜式』の時代には『八十一難経』や『太素』の学習も規定されていた。諸経を学習後、医生40人のうち24人が体療(内科)、6人が創腫(外科)、6人が少小(小児科)、4人が耳目口歯の専門科目に分かれ、他もこれに準じた。その修業年限は体僚・針生は7年、創腫・少小は5年、耳目口歯は4年で月・季・年単位で試験を課され、宮内省での最終試験に合格すると、太政官に挙送され、式部省での任用試験後に叙位任官を受けた。合格者は典薬寮・内薬司の医師の他、衛府馬寮に置かれた医師や諸国国医師などに採用された。国医師は各国1名で典薬寮と同様に医生の設置(大国10・上国8・中国6・小国4)が置かれて医師育成にもあたった。

ただし、慢性的な人材不足は続き、国医師は原則その国出身者から出ることとなっていたが、設置されない国や複数国の国医師を兼務する例、更には成業(卒業)していない学生・医生を任じたりする例もあった。朝廷ではその対策として養老5年(721年)に吉田宜吉宜)を褒賞して医道を奨励し[2]、内薬司に女医博士を設置した[3]天平2年(730年)には優秀者から選抜された医得業生3名を設置するとともに[4]、大学寮の学生並の待遇を与えた[5]。更に弘仁5年(814年)には内薬司所属の扱いで医得業生を4名増加させ[5]、同11年(820年)には同様の針生5名を増加させた[6]。また、勧学田博士職田の充実なども行われた。貞観年間頃より大学寮の明経道などに倣って「医道」という呼称が定着するようになった。だが、10世紀に入ると丹波和気両氏による家学化が進み、内薬司は典薬寮に統合された。永観2年(984年)に丹波康頼が『医心方』を撰進したことで丹波氏の優位は決定的となり、「医道の極官」(『職源鈔』)とされた典薬頭は丹波氏の家職となったのである。

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』延暦6年5月15日条
  2. ^ 『続日本紀』養老5年正月27日条
  3. ^ 『続日本紀』養老6年11月7日
  4. ^ 『続日本紀』天平2年3月27日条
  5. ^ a b 『令集解』
  6. ^ 『日本後紀』弘仁11年12月25日条

参考文献[編集]

  • 丸山裕美子「医道」『日本史大事典 1』平凡社、1992年。ISBN 978-4-582-13101-7 
  • 桃裕行「医道」『国史大辞典 1』吉川弘文館、1979年。ISBN 978-4-642-00501-2