北口本宮冨士浅間神社

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北口本宮冨士浅間神社
北口本宮冨士浅間神社
大鳥居
(2019年8月26日撮影)
所在地 山梨県富士吉田市上吉田5558
位置 北緯35度28分14.8秒
東経138度47分32.6秒
座標: 北緯35度28分14.8秒 東経138度47分32.6秒
主祭神 木花開耶姫命
天孫彦火瓊瓊杵命
大山祇神
社格県社
別表神社
例祭 初申祭 5月5日
地図
北口本宮冨士浅間神社の位置(山梨県内)
北口本宮冨士浅間神社
北口本宮冨士浅間神社
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北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)は、山梨県富士吉田市上吉田にある神社旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

全国にある浅間神社の一社である。富士登山吉田口登山道の起点にあたり、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のひとつである「富士山域」の一部として世界文化遺産に登録されている。

祭神[編集]

大祭[編集]

  • 新年祭 - 2月17日
  • 初申祭(例祭) - 5月5日
  • 鎮火祭(吉田の火祭り) - 8月26、27日
  • 新嘗祭 - 11月23日

由緒[編集]

人皇十二代景行天皇40年(110年)に、日本武尊が東方遠征の折、箱根足柄より甲斐国酒折宮に向かう途次、当地を通過、大塚丘に立たれ、親しく富士山の神霊を遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。

延暦7年(788年)に甲斐守である紀豊庭により現在地に神殿を建て、浅間の大神を祀り、大塚丘には日本武尊の神霊を祀った。以後、逐次造営、改築され、現在の本殿は元和元年(1615年)、谷村城主鳥居土佐守成次により建立された。その後、貞享5年(1688年)に社殿が造修された。

享保18年(1733年)、江戸の富士講村上派を率いる村上光清が、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門を造営した。拝殿の前の両脇には樹齢千年の「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ大きな御神木がある。中世には同社が所在する郡内地方の領主である小山田氏からの庇護を受けた。

富士登山道の吉田口の起点にあたり、江戸時代中期以降には富士講が流行し、上吉田ではこれを早くから受け入れたことから登山道の中心地となった。周辺には御師宿坊が百件近く立ち並んだこともあるが、これは神社に属さない独自の宗教活動であった。昭和初期には神社北の裏手から登山バス浅間神社 - 馬返線が運行していた。

当社は後述のとおり江戸時代中期以降「諏訪大明神」よりも「浅間大菩薩」「富士浅間明神」の名のほうが大きくなり、明治時代には「冨士山北口本宮冨士嶽神社」と改称。その後「浅間神社」とも名乗るようになり、1946年昭和21年)に現在の「北口本宮冨士浅間神社」と改称した。

明治初期、のちに扶桑教を起こす宍野半は北口本宮冨士浅間神社の社司と富士山本宮浅間大社宮司を兼務していた。そのため隣接地には扶桑教元祠があり、現在も扶桑教ではここから北口本宮内の吉田口登山道を登って頂上に至り、富士宮口登山道を下って浅間大社まで参拝している。

諏訪明神と浅間明神[編集]

北口本宮冨士浅間神社 摂社 「諏訪神社」[編集]

祭神[編集]

  • 建御名方神(たけみなかたのかみ)
  • 八坂刀売神(やさかとめのかみ)

例祭[編集]

  • 鎮火祭 - 8月26、27日

由緒[編集]

勧請年代は不詳であるが古くから当社一帯の森を「諏訪の森」と呼ぶことや、『甲斐国志』巻之七十一神社部第十七上「諏方明神」の記述からも古社であることが伺える。元々は当地域の氏神であったが明治維新の際に北口本宮の摂社となる。

往古ヨリ此社中ヲ諏方ノ森ト称スルハ、浅間明神勧請セザル以前ヨリ諏方明神鎮座アル故ナリト云、古文書二諏方ノ森浅間明神トアル是ナリ

このように古来より社中に「諏訪の森」が位置し、諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧請したと伝わる。現在当社は浅間神社であり祭神も木花開耶姫命を主祭神としているが、当初は諏訪神社であったと考えられている。

例えば天文17年(1548年)5月26日、小山田信有[要曖昧さ回避]は吉田の諏訪禰宜に富士山神事の際に新宮を建てる場合は披露するように命じている。このように富士山神事に関わる案件に対しても、諏訪禰宜に宛てがわれている。永禄4年(1561年)3月2日、武田信玄は吉田の諏訪の森の木を伐ることを禁止している。『甲斐国志』によると、同年に武田信玄が富士権現を造営したとある。これらの事柄から、永禄4年(1561年)の信玄による富士権現造営が現在の北口本宮冨士浅間神社の元になるものであるとし、それ以前は諏訪社のみが鎮座していたとする。[1]

小室浅間明神との関係[編集]

浅間明神の勧請元は、『甲斐国志』の以下の記載によれば、吉田口二合目の小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)である。

是古社殿ナキ以前富士浅間遥拝ノ地ニ築ク後神祠ヲ創造シ小室浅間明神ヲ勧請スト云

同じ富士吉田市の下吉田にある下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)は、現在は「下宮」とも「下浅間」とも呼ばれるが、関係は多少複雑である。延宝8年(1680年)の『八葉九尊図』では吉田口の麓に「下浅間」があるが、吉田の町から参道があり、橋・仁王堂を経る様子と、脇に諏訪大明神が鎮座する様子がわかることから、北口本宮の図であると考えられる。『甲斐国志』にも以下の記載がある。

小室ヲ上浅間ト云此祠ヲ下浅間ト稱スルハ本小室ト同社ノ謂ナリトソ、又下吉田ニ浅間アリ是ヲハ下ノ宮浅間ト稱ス

このことから、「上浅間」が冨士御室浅間神社、そこから勧請した「下浅間」が北口本宮冨士浅間神社、それとは別に現小室浅間神社が「下ノ宮浅間」と呼ばれていた。これを見るに少なくとも『八葉九尊図』(1680年)から『甲斐国志』(1814年)までは「下浅間」は北口本宮で、「上浅間」が吉田口二合目冨士御室浅間神社だったことがわかる。

しかしながら、現在では二合目の冨士御室浅間神社を「上浅間」と呼ぶことは少なく、代わりに北口本宮が「上浅間」と呼ばれ、下吉田の小室浅間神社が「下浅間」と呼ばれることが多い。そもそも、富士吉田地域に於いて、北口本宮が浅間神社としては新しく富士講御師に依る対外的な信仰を集めていたのに対し、下吉田の小室浅間神社は農耕信仰を中心として地元民の生活に根差した文化があった。だが、明治に入り、北口本宮には下吉田の小室浅間神社から氏子地域である上吉田を譲られ、氏神としても信仰されるようになった。また、二合目の冨士御室浅間神社は勝山の氏神であり吉田との交流が少なかったことから、関係が薄れていったものと考えられる。

文化財[編集]

重要文化財(国指定)[編集]

  • 北口本宮冨士浅間神社東宮本殿(建造物) - 1907年(明治40年)8月28日指定。
  • 北口本宮冨士浅間神社西宮本殿(建造物) - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
  • 北口本宮冨士浅間神社本殿(附 棟札1枚)(建造物) - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
  • 北口本宮冨士浅間神社 8棟(建造物) - 2017年(平成29年)11月28日指定[2][3]
    • 拝殿及び幣殿
    • 惠毘壽社及び透塀
    • 神楽殿
    • 手水舎(附 棟札1枚)
    • 隨神門(附 棟札1枚)
    • 福地八幡社(附 棟札2枚)
    • 諏訪神社拝殿
    • 社務所(附 棟札1枚)
    • (附指定)灯籠 1基
  • 太刀 銘備州長船経家 文安二年二月日(附 糸巻太刀拵)(工芸品) - 1923年(大正12年)3月28日指定。


国の史跡[編集]

  • 国の史跡「富士山」に包括

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス

脚注[編集]

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  1. ^ 笹本正治は、小山田信有が富士山に関する神事を諏訪禰宜に命じていることから当時諏訪社のみが鎮座していたとし、また永禄期の信玄の施策は、信玄の富士信仰の一端であるとしている。
  2. ^ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト)
  3. ^ 平成29年11月28日文部科学省告示177号。

参考文献[編集]

  • 笹本正治、「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』、名著出版、1991年