加藤明軌
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政11年1月23日(1828年3月8日) |
死没 | 明治16年(1883年)8月11日 |
改名 | 経之助(幼名)→明軌→湘江公(法号) |
戒名 | 慈雲院 |
墓所 | 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地 |
官位 | 従五位下、和泉守、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 近江水口藩主 |
氏族 | 加藤氏 |
父母 | 父:加藤明邦 |
兄弟 | 明軌、明実、稲葉正凝 |
妻 | 正室:泰(松平直寛の娘) |
子 |
小笠原貞規(次男、小笠原貞正養子)、明俊、 養子:明実 |
加藤 明軌(かとう あきのり)は、近江水口藩の第10代藩主。水口藩加藤家12代。書や俳句に優れた文化人だったといわれる。
生涯
[編集]文政11年(1828年)1月23日、第9代藩主・加藤明邦の次男として江戸で生まれる。弘化元年(1844年)10月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・和泉守に叙位・任官する。弘化2年(1845年)2月5日の父の隠居により家督を継いで第10代藩主となり、3月20日に越中守に遷任する。 弘化4年4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永2年(1849年)2月3日、大坂加番を命じられる。
藩政では歴代藩主時代の財政難に加え、嘉永6年(1853年)5月には旱魃が起こるなどしたため、櫨の植樹政策などを行なっている。幕末期においては文久元年(1861年)の和宮警護、文久3年(1863年)の伏見警備、元治元年(1864年)の禁門の変における京都警護などに務めている。慶応2年(1866年)2月29日、家督を弟で養子の加藤明実に譲って隠居する。
明治16年(1883年)8月11日、東京芝愛宕下の旧邸で死去。享年56。
系譜
[編集]父母
- 加藤明邦(父)
- 宮 ー 側室(母)
正室
- 泰 ー 松平直寛の娘
側室
- 美津
子女
養子
- 加藤明実 ー 実弟