加藤富夫

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加藤 富夫(かとう とみお、1928年(昭和3年)4月3日 - 1977年(昭和52年)12月2日)は、日本の小説家教員

秋田県雄勝郡湯沢町(現・湯沢市)生まれ。1968年に文學界新人賞を受賞したほか、1971年から1975年にかけて四度芥川賞候補となった。

経歴と人物[編集]

秋田県立横手中学校(現・横手高等学校)在学[1]中に予科練に入隊し、土浦海軍航空隊桜花特攻要員として訓練中、秋田県北秋田郡合川町(現・北秋田市)の大野岱で終戦を迎えた[2]。復員後、秋田県立湯沢南高等学校(現・湯沢高等学校)から秋田大学学芸学部(現・教育文化学部)英語科に進み、1954年(昭和29年)3月に卒業[3]。秋田県の高校英語科教員として、横手[4][5]湯沢北 [1][6]・湯沢高校[2]などで教鞭を執った。

大学時代に『秋大文学』に参加し、在学中の1951年、秋田魁新報の新年文芸に応募した「令子」が佳作[1]、1960年には秋田魁新報新年文芸で「花まつり」が第一席となった[1][7]。1967年、「鼠おとし」で第25回文學界新人賞佳作(本賞は該当作なし)となり[1][7]、1968年には「神の女」で第27回文學界新人賞を受賞した[1][7]。1971年、「玩具の兵隊」で第66回芥川賞候補となったのを皮切りに、1972年(第68回)「酋長」、1973年(第69回)「口髭と虱」、1975年(第74回)「さらば、海軍」の計4回、芥川賞候補となった[7]

1977年(昭和52年)12月2日深夜0時前、同僚の教師から暴行を受け、硬膜下出血で死去した。予科練出身のため「若いやつらは戦争も知らないくせに生意気だ」「青二才」などと日頃から若い同僚に云っており、同僚4人で酒場で飲みながらテレビ番組『栄光の戦闘機・ゼロ戦のすべて』の話題になってケンカになったもの[8]。事件をめぐる状況は田中伸尚「ある芥川賞候補作家の死--作家・加藤富夫"不慮の死"の背後にあったもの」(『』1983年9月号)に詳しい。

主な受賞歴[編集]

  • 1951年: 秋田魁新報新年文芸佳作(「令子」)
  • 1960年: 秋田魁新報新年文芸第一席(「花まつり」)
  • 1967年: 第25回文學界新人賞佳作(「鼠おとし」)
  • 1968年: 第27回文學界新人賞(「神の女」)

主要な作品[編集]

  • 「鼠おとし」 (『文學界』1967年12月号掲載)
  • 「神の女」 (『文學界』1968年11月号掲載)
  • 「生物」 (『早稲田文学界』1970年4月号掲載)
  • 「玩具の兵隊」 (『文學界』1971年9月号掲載)
  • 「酋長」 (『文學界』1972年7月号掲載)
  • 「あしたの動物園」 (『文學界』1973年3月号掲載)
  • 「口髭と虱」 (『文學界』1973年5月号掲載)
  • 「眷族祭」 (『文學界』1973年10月号掲載)
  • 「カゲの砦」 (『文學界』1974年9月号掲載)
  • 「さらば、海軍」 (『文學界』1975年8月号掲載)

著書[編集]

  • 『口髭と虱』(文藝春秋、1973年)
  • 『神の女-加藤富夫作品集1』(秋田書房、1983年)
  • 『さらば、海軍-加藤富夫作品集2』(秋田書房、1983年)

脚注[編集]