劉霽

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劉 霽(りゅう せい、478年 - 529年)は、南朝梁官僚文人は士烜、あるいは士湮。本貫平原郡平原県

経歴[編集]

東陽郡太守劉懐慰劉休賓の兄の劉乗民の子)と明氏のあいだの子として生まれた。9歳で『春秋左氏伝』を暗唱することができた。14歳のときに父が死去すると、劉霽はその喪に服して、哭泣するたびに血を吐いた。家は貧しく、弟の劉杳劉歊とあい励まして学問につとめた。成長すると、典籍を広く渉猟してその多くに通じるようになった。天監年間、奉朝請を初任とした。しばらくして晋安王蕭綱の下で宣恵府参軍となり、限内記室を兼ね、西昌相に任じられて出向した。入朝して尚書主客侍郎となった。1年足らずで、海塩県令に任じられた。召還されて建康県正となり、しばらくして病のため免官された。ほどなく建康県令に任じられたが、受けなかった。母の明氏が病床につくと、劉霽は衣の帯を解かずに『観世音経』を唱えながら看病した。母が亡くなると、劉霽は墓のそばに廬を建てて喪に服し、哀哭すること礼の規定を超えていた。2羽の白鶴が廬のそばに寄り添っていたとされる。阮孝緒が無理をしないよう諫める手紙を送ったが、劉霽は思慕の念やまず、服喪を終えないうちに死去した。享年は52。著書に『釈俗語』8巻、文集10巻があった。

伝記資料[編集]