劉秀之

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劉 秀之(りゅう しゅうし、隆安元年(397年)- 大明8年1月13日[1]464年2月6日))は、南朝宋官僚軍人は道宝。本貫東莞郡莒県。曾祖父は東晋彭城内史の劉撫。祖父は劉爽。父は劉仲道(劉穆之の従兄)。兄は劉欽之。弟は劉粋之・劉霊真(劉勰の祖父)。前漢の斉悼恵王劉肥の末裔にあたる。

経歴[編集]

劉仲道の子として生まれた。幼くして父を失い、貧困の中で成長した。10歳のころ、子どもたちが前渚で遊んでいたとき、突然に大蛇が現れて襲ってきた。驚かない者はなかったが、秀之はひとり動揺せず、みなと態度が異なっていた。何承天が秀之の器量を知って、その娘を妻にめあわせた。兄の劉欽之が朱齢石の下で右軍参軍をつとめていたが、朱齢石に従って敗死すると、秀之は哀しみに沈んで、10年のあいだ歓宴することがなかった。景平2年(424年)、駙馬都尉・奉朝請に任じられた。家が貧しかったため、広陵郡丞の任を求めた。元嘉初年、江夏王劉義恭の下で撫軍行参軍となった。元嘉6年(429年)以降、彭城王劉義康の下に転じて平北行参軍となり、無錫県令・陽羡県令・烏程県令を歴任して、有能で知られた。

元嘉16年(439年)、建康県令に転じた。尚書中兵郎に任じられ、再び建康県令となった。吏部尚書の沈演之がたびたび文帝の前で秀之のことを称賛した。元嘉22年(445年)、武陵王劉駿雍州刺史となって襄陽に駐屯すると、秀之はその下で撫軍録事参軍・襄陽県令となった。劉駿の命により襄陽の六門堰を修復して、良田を回復した。参軍のまま広平郡太守の兼任に改められた。元嘉25年(448年)、都督梁南北秦三州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられた。

元嘉27年(450年)、文帝が北伐をおこなうと、楊文徳や劉弘宗らが秀之の下について関中に進攻した。秀之は錫千秋に2000人を与えて子午谷の南口に向かわせ、竺宗之に3000人を与えて駱谷の南口に向かわせ、梁尋に1000人を与えて斜谷の南口に向かわせた。の楊高が進攻してくると、秀之はこれを討って、楊高兄弟を斬った。元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害すると、秀之は報を聞いてその日のうちに起兵し、兵を率いて襄陽に向かおうとしたが、南譙王劉義宣にはばまれた。劉劭の乱が平定されると、秀之は使持節・都督益寧二州諸軍事・寧朔将軍・益州刺史に任じられた。

孝建元年(454年)、南譙王劉義宣が荊州で反乱を起こし、参軍の王曜を秀之のもとに派遣して徴兵させようとした。秀之はその日のうちに王曜を斬って戒厳を布いた。中兵参軍の韋山松に1万人を与えて江陵を攻撃させるべく、三峡に進出させた。韋山松は席天生を撃破したが、江陵で魯爽に敗れて殺害された。この年のうちに、秀之は征虜将軍の号を受け、都督を監に改められ、康楽県侯に封じられた。孝建2年(455年)、監郢州諸軍事・郢州刺史に転じた。

大明元年(457年)、建康に召還されて右衛将軍となった。大明2年(458年)、丹陽尹に転じた。大明3年(459年)4月、竟陵王劉誕が反乱を起こすと、秀之は東城に入って防衛にあたった。7月、尚書右僕射に任じられた。大明4年(460年)、律令の改定に参与し、民が官吏を殺害した場合の罪について意見して容れられた。大明5年(461年)、太子右衛率を兼ねた。

雍州刺史の海陵王劉休茂が反乱を起こし、現地の軍に殺害されると、秀之は本官のまま襄陽に派遣され、軍を慰労し、反乱に加担した者とそうでない者を分けて処置した。事後処理を終えて建康に帰ると、使持節・散騎常侍・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事・安北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。孝武帝は新亭に巡幸すると、秀之を召還して尚書左僕射に任じようとしたが、その人事は行われないまま、大明8年(464年)正月に秀之は死去した。享年は68。侍中司空の位を追贈された。は忠成公といった。

子の劉景遠が後を嗣ぎ、前軍将軍に上った。

脚注[編集]

  1. ^ 『宋書』巻6, 孝武帝紀 大明八年正月癸未条による。

伝記資料[編集]