劉喜 (驍騎将軍)

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劉 喜(りゅう き、生没年不詳)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将。字は共仲鉅鹿郡昌城県河北省深州市)の人。雲台二十八将の一人の劉植の弟。従兄は劉歆

事跡[編集]

姓名 劉喜
時代 代 - 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 共仲(字)
本貫・出身地等 冀州鉅鹿郡昌城県
職官 偏将軍〔劉秀〕→

驍騎将軍〔劉秀(後漢)〕

爵位・号等 列侯〔劉秀(後漢)〕

→観津侯〔後漢〕

陣営・所属等 光武帝(劉秀)
家族・一族 兄:劉植 従兄:劉歆

河北で王郎が挙兵すると、劉喜は兄の劉植に従い、宗族賓客を率い、数千人で昌城に籠った。劉秀(後の光武帝)がから戻る途中、劉植はこれを迎え入れた。劉植は驍騎将軍に、劉喜・劉歆は偏将軍にそれぞれ任命され、いずれも列侯に封じられた。

建武2年(26年)、劉植が河南密県の賊を討伐中に戦死すると、光武帝は劉喜に劉植の営を代理して統括させ、さらに驍騎将軍を継がせ、観津侯に封じた。

建武4年(28年)5月、劉喜は、祭遵朱祜耿弇と共に、涿郡で叛逆した太守張豊を討伐したところ、張豊は部下に捕縛されて、あっけなく鎮圧された。次いで、同じく漢に叛逆していた彭寵を討伐するために、祭遵は涿郡の良郷に、劉喜は陽郷にそれぞれ駐屯した。彭寵は弟の彭純、匈奴の軍勢とともに二手に分かれ、祭遵軍・劉喜軍を攻撃した。その後、耿舒の逆撃を受けて、彭寵軍は敗退した。

劉喜が死去すると、劉歆が後任の驍騎将軍となり、浮陽侯に封じられた。

参考文献[編集]

  • 後漢書』列伝11劉植伝
  • 同列伝9耿弇伝
  • 同列伝10祭遵伝

関連項目[編集]