創作版画

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創作版画(そうさくはんが)は、複製を目的とせず、版画独特の手法を創作表現の方法として活かした版画。ひとりの人間が彫りや摺りを行って創作される木版画のみを指すこともある[1]。明治末期から大正期にかけて沸き起こった創作版画のムーブメントを創作版画運動と言う。

概要[編集]

木版画は複製の有効な手段として広く普及し、江戸時代中期以降の錦絵(浮世絵)はその大衆性や日常性から大きなジャンルを形成した。錦絵は絵師彫師摺師の協業によって制作されたが、明治末期には複製の手段ばかりがクローズアップされ、木版画の創作的性格が薄められたため、その工業作品的な立場を反省し、非実用性や美術性を前面に押し出した。創作版画は基本的には下絵の作成・彫り・摺りのすべてをひとりの人間が行い(自画自刻自摺)、錦絵に由来する分業体制で制作されたものは新版画として区別された[2]

歴史[編集]

1904年(明治37年)に雑誌『明星』に掲載された山本鼎の『漁夫』が創作版画の記念碑的な作品とされている[3]。それまでは工業・工芸作品であった木版画の芸術的位置づけを鮮明にし、1907年(明治40年)に山本、石井柏亭森田恒友の3人によって刊行された雑誌『方寸』は創作版画の認知を促進。1914年(大正3年)に恩地孝四郎田中恭吉藤森静雄の3人が刊行した『月映』は抽象的な傾向も見せた。

1918年(大正7年)には山本、恩地、戸張孤雁織田一磨らが日本で初めての版画家集団である日本創作版画協会を設立し、これは1931年(昭和6年)の日本版画協会に引き継がれた。大正期には創作版画運動に対抗する形で、浮世絵商の渡邊庄三郎などが版元となって新版画運動が展開され、橋口五葉は『髪梳ける女』や『耶馬渓』などを制作した。1932年(昭和7年)には小野忠重清水正博らを中心として新版画集団が結成され、版画の大衆化を唱えたが、戦争の足音が高まるにつれて運動は薄れていった。

日本版画協会の活動の結果、1927年(昭和2年)には初めて帝国美術院展(帝展、現在の日展)に版画が受理され、1935年(昭和10年)には東京美術学校に臨時版画教室が設置された。これらのことから木版画の芸術性の評価がある程度定まったといえる。戦後には棟方志功池田満寿夫がヴェネツィア・ビエンナーレ版画部門で最高賞を獲得するなど、版画の美術的名声が一気に高まり、創作版画という言葉は使われなくなっていった[4]

作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 恩地邦郎『抽象の表情 - 恩地孝四郎版画芸術論集』 阿部出版、1992年、153頁
  2. ^ 『日本の近代美術12 近代の版画』 50-51頁
  3. ^ 『日本の近代美術12 近代の版画』 13頁
  4. ^ 『日本の近代版画』 和歌山県立近代美術館、1998年、4頁
  5. ^ 文化遺産オンライン『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』”. 文化庁. 2012年1月11日閲覧。

参考文献[編集]

  • 恩地邦郎『抽象の表情 - 恩地孝四郎版画芸術論集』 阿部出版、1992年
  • 青木茂・酒井忠康監修『日本の近代美術12 近代の版画』 大月書店、1994年

外部リンク[編集]