副田吉成

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副田吉成
時代 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 甚兵衛尉[1]、与左衛門[2]、穏斎(号)[2]
主君 豊臣秀吉
朝日姫
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副田 吉成(そえだ よしなり)は、安土桃山時代の武将。通称は甚兵衛尉。豊臣秀吉の妹で、後に徳川家康の正室となった朝日姫(南明院)の前夫とされる人物。

略歴[編集]

尾張国愛知郡の人[2]織田信長の武将だった秀吉に従い、秀吉の弟である秀長の妹・朝日姫を妻にしていたとされる[2][3]三木合戦後に秀吉の指示で別所氏に加担していた播磨神吉城を破却している[4]。前後して秀長や宮部継潤によって但馬国が平定されると、継潤の管轄下となった二方郡内の多伊城(指杭城)を与えられた[5][6]天正10年(1582年本能寺の変に呼応した海賊一揆によって多伊城が奪われ、自身も城から落ち延びた[注釈 1][3][5]。同年10月に秀吉が大徳寺で行った信長の葬儀において、杉原家次桑原貞也とともに奉行に任じられている[1]

朝日姫との離縁[編集]

享保18年(1733年)に尾張藩天野信景によって著された随筆「塩尻」によれば、天正13年(1585年)に朝日姫を徳川家康に嫁がせるため、秀吉から5万石の加増を条件に離縁を迫られ、加増を断って出家して愛知郡烏森村に隠棲したという[注釈 2][2][7]。一方延宝元年(1673年)に山鹿素行によって著された歴史書「武家事紀」は、天正10年(1582年)の多伊城失陥によって秀吉の不興を買ったことが離縁の原因としている[3]

なお朝日姫の前夫の名を佐治日向守とする説は軍記「三河後風土記」によるもので、それによれば佐治は天正13年の離縁の際に自らの境遇を恥じて切腹したとされる[8]

演じた人物[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 城は後に宮部継潤によって奪還された。
  2. ^ 烏森にある隠斎塚などといった地名は、吉成の剃髪後の名前と隠棲地に由来しているという。

出典[編集]

  1. ^ a b 近藤 1919, p. 70.
  2. ^ a b c d e 太田 1963, p. 3223.
  3. ^ a b c 山鹿 1982, p. 311.
  4. ^ 今井 1999b, 神吉城跡.
  5. ^ a b 山鹿 1983, p. 128.
  6. ^ 今井 1999a, 指杭村.
  7. ^ 林 1981, 烏森村.
  8. ^ 早稲田大学出版部 1912, p. 175.

参考文献[編集]

  • 太田亮 『姓氏家系大辞典』 2巻 角川書店、1963年。 
  • 山鹿素行武家事紀』 1巻 原書房〈明治百年史叢書〉、1982年。ISBN 9784562013197 
  • 山鹿素行 『武家事紀』 3巻 原書房〈明治百年史叢書〉、1983年。ISBN 9784562013210 
  • 今井林太郎編 『兵庫県の地名』 1巻《摂津・丹波・但馬・淡路編》 平凡社日本歴史地名大系〉、1999a。ISBN 9784582910193 
  • 今井林太郎編 『兵庫県の地名』 2巻《播磨編》 平凡社〈日本歴史地名大系〉、1999b。ISBN 9784582910582 
  • 林英夫編 『愛知県の地名』 平凡社〈日本歴史地名大系〉、1981年。ISBN 9784582910384 
  • 近藤瓶城編 『改定史籍集覧』 6巻《太閤記》 近藤出版部、1919年。 
  • 早稲田大学出版部編 『通俗日本全史』 10巻《三河後風土記 中》 早稲田大学出版部、1912年。