前角博雄

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前角 博雄(まえずみ はくゆう、1931年2月24日 - 1995年5月15日)は、日本曹洞宗僧侶

安谷白雲の下で公案も学んだ。

数十年の指導の間に、ロサンゼルス禅センターホワイト・プラム・アサンガ禅マウンテンセンター陽光寺禅マウンテンモナストリー道真寺を設立した。

前角は12人の嗣法の弟子、68人の僧侶、500人の居士を育てた。

鈴木俊隆崇山行願、宣化と同様に、彼の禅は欧米に大きな影響を与えた。

彼の嗣法の弟子の何人か、例えばバーニー・グラスマン・徹玄デニス・ゲンポウ・メルツェルローリ大道ジャン・チョウゼン・ベイズシャーロン・浄光・ベックウィリアム・ニョゲン・イェオらは、それぞれ参禅会を設立した。

数年後、彼はアルコール中毒に悩まされ続け、1995年に浴槽で眠って溺死した。

略歴[編集]

前角は1931年の2月24日に栃木県大田原市の寺院に、黒田白純を父として生まれた。前角の姓は後年に母方の姓を取ったものである。

彼は11歳の時に曹洞宗で出家し、高校生の時に臨済宗苧坂光龍に師事した。その後、駒澤大学東洋哲学を学んだ。

その後、總持寺で修行し、1955年に父から嗣法した。

1956年にアメリカ合衆国に渡り、ロサンゼルスリトル・トーキョー禅宗寺の僧侶となった。工場でアルバイトもした。

禅宗寺では坐禅は重視されていなかった。彼は2年ほど近所のボイルハイツ千崎如玄と共に坐禅を行った。

1959年に彼はサンフランシスコ州立大学で英語を学んだ。その年に鈴木俊隆に初めて会い、鈴木の寺である桑港寺に時々通った。

1960年代の始め、禅宗寺で西洋の学生を対象に坐禅を指導し始め、それは後の1967年のロサンゼルス禅センターの設立に繋がった。

同じ年、彼は最初の妻のシャーリーンと結婚し(1971年に離婚)[1][2]、1967年には安谷白雲の下で公案を学び、1970年に印可証明を受けた。

また、彼は1973年に苧坂光龍からも印可を受けた[1][2][3][4]

1975年に後妻の前角マルサと結婚し、3人の子どもに恵まれた。(娘の前角キリエ女優[5]

1976年には仏教学とヒューマン・バリューを研究するための非営利組織、黒田研究所を設立し、仏教の時事研究に奨学金を支給した。

また、この間にホワイト・プラム・アサンガを設立した[6]

彼の高弟のバーニー・グラスマン・徹玄は、1979年にニューヨークで彼の祝福と奨励の下に禅の集団を組織した。

別の弟子のローリ大道は、ニューヨークのキャットスキル山に土地を手に入れ、1980年に禅マウンテンモナストリー道真寺を設立し、1989年には住職となった。

その翌年、彼は避暑地として禅マウンテンセンター陽光寺を設立した。今日では年間を通して滞在型・非滞在型の禅センターとして利用されている。

1984年には、別の弟子のDennis Genpo Merzelがロサンゼルス禅センターから離れ、三宝教団の観世音サンガを設立した[7][8][9]

彼は彼の家族を訪問するために日本に滞在している間の、1995年5月15日に遷化した。彼はある晩外で飲んできて、風呂場で溺れて亡くなった。

ずいぶん前にバーニー・グラスマン・徹玄に印可証明を与えているが、ホワイト・プラム・サンガの代表にグラスマンが就任するために、三宝教団のその嗣法を強調した[10]

指導法[編集]

3つの日本の禅宗の体系、彼が安谷の下で学んだ、曹洞宗の只管打坐と臨済宗の公案とその併修を行っている。

彼は坐禅の姿勢について特に厳しいことで知られ、彼の教え子たちに対し、警策を背後から使用した。

ロバート・ケネディ神父は『彼はとても強く坐禅することを主張し、心の動きに注意深くしなかった場合、坐らないように勧めました』と述懐している。

彼は『碧巌録』や『無門関』、『伝光録』、『Book of Equanimity』など広範囲な禅語録の公案を使用した[11][12][13]

また、作家で法嗣のゲーリー・シシン・ウィックによると、彼はよく「人生に感謝しましょう」と言っていたという。これは彼の教えをまとめた書籍のタイトルでもある。

その中で彼は次のように言う。「私は勧めます。この素晴らしい人生を一緒に楽しみましょう。この真の世界に感謝しましょう。余分なものは何もありません。最も貴重な宝物として人生に本当に感謝し、そして、それを大事にして下さい[14]

不祥事[編集]

1983年に彼はアルコール中毒であることを認め、ベティ・フォード・センターに入院した。これと同時にロサンゼルス禅センターの彼の何人かの女性の参禅者との性的関係が発覚した。

彼の妻のマリサは10代で飲酒を始め、第二次大戦中はアメリカ軍兵士と喫煙、ビール飲酒をしていた。

彼はその全てにおいて素直に認め、正当化を試みなかった。

これらの発覚は彼の門下を混乱させ、多くの教え子たちが去った。

コミュニティは継続しながらも、参加者らはより人間的な彼を見ざるを得なかった。教え子の中には、この出来事が、彼を欠点のない人物だと欺かれることがなくなって進展したと見る者もいた。

ジャン・チョウゼン・ベイズは彼の飲酒について次のように言った。「我々は彼の飲酒を唆した。彼が飲んでいる時に、我々が一度も見たことがない、禅の指導者としての本領が見られるのではないかと考えた。彼が高潔になるのではないかと思った。人々は慎重に彼が酔っていた時の言動と、壁に批判する方法を見た[15]

ジャン・チョウゼン・ベイズとバーニー・グラスマン・徹玄は、前角の事実が発覚した時に、彼との決別を決心し、それぞれ分派を形成した。[5][16]

弟子[編集]

彼は12人の法嗣と68人の出家の弟子、500人以上の在家信徒を育てた。

作家のジェームス・イシュマエル・フォードは、「西洋の禅における彼の影響は大きい」と言う[17]

ジャン・チョウゼン・ベイズは、「 彼には様々な人々の仏性や伸びる可能性を見出す素質がありました。何人かの嗣法の弟子もいます。チベット仏教の教授方式で広範囲に種を蒔きました。何人かは成長し、何人かは成長しませんでした。私たちは彼の弟子のうちどの系統が何世代存続したかは知りません[5]。」と言う。

著書[編集]

  • 1976年、On Zen Practice: Body, Breath, Mind(バーニー・グラスマン・徹玄との共著)
  • 1978年、On Zen Practice 2: Body, Breath, Mind (a.k.a.The Hazy Moon of Enlightenment)(バーニー・グラスマン・徹玄との共著)
  • 1978年 Way of Everyday Life
  • 1998年 Echoless Valley
  • 2001年 Appreciate Your Life: Zen Teachings of Taizan Maezumi Roshi
  • 2001年 Teaching of the Great Mountain: Zen Talks by Taizan Maezumi

(Anton Tenkei Coppens編)

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]