前田惠學

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前田 惠學
人物情報
生誕 (1926-11-29) 1926年11月29日
日本の旗 日本愛知県名古屋市
死没 2010年10月31日(2010-10-31)(83歳)
学問
研究分野 仏教学
学位 文学博士
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前田 惠學(まえだ えがく、1926年11月29日 - 2010年10月31日)は、日本僧侶仏教学者文化功労者真宗大谷派速念寺第15代住職。

経歴[編集]

1926年、愛知県名古屋市で前田家の長男として生まれる。東京大学文学部哲学科で学び、同大学大学院へ進む。辻直四郎宮本正尊中村元水野弘元などに師事し、インド哲学および仏教学を研究した。

1956年より東京大学文学部助手。1962年、博士論文『原始仏教聖典成立史の研究』を東京大学に提出して文学博士学位を取得[1]。旧学位制度下での最後の文学博士号取得者となった。この学位論文の優れた研究成果が認められ、39歳で日本学士院恩賜賞を受賞[2]。 1964年、東海学園女子短期大学教授となる。1969年からは名城大学法学部教授、1972年からは愛知学院大学文学部教授。学界ではパーリ学仏教文化学会を組織し、初代会長をつとめた。

2010年10月31日、膵臓癌のために遷化[3]。83歳没。

学歴・職歴[編集]

非常勤講師歴[編集]

受賞・栄典[編集]

研究内容・業績[編集]

  • 専門は初期のインド仏教原始仏教
  • 「原始仏教」、「パーリ語仏教」および「現代上座仏教」の研究の第一人者として従来の研究手法を踏まえながらも現代に生かせる仏教研究の重要性を学界や社会に提唱し続けてきたほか、東海印度学仏教学会会長、パーリ学仏教文化学会を創設するなど、学問界全体の活性化を企図し、名誉教授となってからも精力的な研究活動を続けていた。
  • スリランカなどから、経済的に学業を続けることが困難な学僧たちを日本に招き、自身の私財を投じ日本の大学の大学院へ進学させ、より高度な学問だけではなく、日本の古き良き文化をも教えて、本国に帰国させ、日本との架け橋にならしめるなど、精力的に活躍を行い、世界的にも名高い仏教学者の一人だった。

家族・親族[編集]

著作[編集]

  • 『原始佛教聖典の成立史研究』(山喜房佛書林 1964年、新版1999年、「前田惠学集別巻1」2006年)
  • 『釈尊』(山喜房佛書林 1969年
  • 『仏教要説 インドと中国』(山喜房佛書林 1975年) 
  • 『釈尊をいかに観るか』(山喜房佛書林「第1巻」2003年ISBN 4-7963-0138-0
  • 『仏教とは何か、仏教学いかにあるべきか』(山喜房佛書林「第2巻」 2003年
  • 『現代上座仏教の世界 1・2』(山喜房佛書林「第3・4巻」 2004年
  • 『文学として表現された仏教』(山喜房佛書林「第5巻」 2004年ISBN 4-7963-0142-9
  • の時代における平和と共存ほか』(山喜房佛書林「第6巻」 2005年ISBN 4-7963-0143-7
  • 『命終る時 ほか』(山喜房佛書林 「第7巻」2007年ISBN 4-7963-0175-5

共編著[編集]

翻訳[編集]

  • 『インド集 世界文学大系4』(筑摩書房、1959年)、古典インド文学、各・訳者の一人
  • 『真理のことば(ダンマパダ) 本生物語集(ジャータカ)』(筑摩書房「筑摩世界文学大系 インド・アラビア・ペルシア集」、1974年)

論文[編集]

記念論集[編集]

  • 『仏教文化学論集 前田恵学博士頌寿記念』(山喜房佛書林 1991年4月)
  • 『パーリ学仏教文化学第26号 前田惠學先生追悼論集』(パーリ学仏教文化学会 2012年12月)

脚註[編集]

  1. ^ 学位令、1920年勅令200号。
  2. ^ 人文系研究者では、未だに最年少での受賞者。
  3. ^ 前田恵学氏死去=仏教学・文化功労者 時事通信 2010年11月1日閲覧
  4. ^ 『官報』第5449号、平成22年12月2日

参考資料[編集]