天璋院付き大奥女中

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天璋院付き大奥女中(てんしょういんつき おおおくじょちゅう)では、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院に仕えた奥女中を詳述する。なお紹介は史料上の最終役職順で羅列する。

上臈御年寄[編集]

常盤井(ときわい、生没年不詳)、初名は高辻。出自は不明。宿元は表高家旗本中条信汎。当初は家祥継室一条秀子付き上臈御年寄・西の丸老女、御簾中没後はとなった。家祥の将軍就任で本丸に進み、安政3年(1856年篤姫輿入れで御台所付き上臈御年寄、文久頃に致仕。

御年寄[編集]

初瀬(はつせ、生没年不詳)、初名は粂山。父は旗本榊原氏。宿元は甥の榊原七郎右衛門。当初は西の丸で一条秀子付き中年寄、御簾中没後は詰となった。家祥の将軍就任で本丸に進み、篤姫輿入れで幾島とともに御台所付き御年寄となり、文久頃に致仕。


瀧井(たきい、生没年不詳)、初名は岩野。父は旗本熊倉茂高。篤姫輿入れで付き中年寄、後に御年寄となり瀧井と改名。


つぼね(局)

中年寄[編集]

川井(かわい、生没年不詳)、祖父は関正秀か。弟は小姓組関十蔵。篤姫輿入れで付き中年寄。文久3年(1863年文久の大火で多くの女中たちとともに暇を出されたが3年間は諸手当を保証されたという。


歌川(うたがわ、生没年不詳)、初名ふく。父は旗本岡野氏。宿元は又甥の岡野福次郎。篤姫輿入れで付き御中﨟、後に御中﨟筆頭となり歌川と改名、さらに中年寄まで出世した。

御中﨟[編集]

袖村(そでむら、生没年不詳)、初名みや。祖父は青木兼鑑か。弟は小普請青木熊之助。天璋院付き御中﨟、元治元年(1864年)に御中﨟筆頭。


くわ(生没年不詳)、父は旗本土屋忠兵衛。宿元は甥の小姓組土屋国之丞。篤姫輿入れで付き御中﨟。安政末には致仕したと見られる。


かよ(生没年不詳)、父は小十人組・沢仁兵衛、祖父は沢実久。篤姫輿入れで付き御中﨟。文久2年分限帳に名前が見られる。翌年の大火後多くの女中が暇を出されたが、解雇リストに名がないので天璋院に仕え続けたと思われる。


つよ(生没年不詳)、父は旗本太田氏。宿元は兄の小普請太田勝太郎。当初は将軍家定付き御中﨟、安政4年(1857年)御台所付き御中﨟となるが、文久2年(1862年)御中﨟増人に降格され改名、あるいは致仕したと思われる。家茂御台所和宮付きつよが翌年解雇されている。


ませ


さか天保6年(1835年)- 大正2年(1913年)6月30日)、維新後の雅号はよしこ。父は薩摩藩士仙波氏。兄は薩摩藩奥に仕えた仙波市左衛門永贇(享和3年(1803年)3月10日生於江戸 - 明治7年(1874年)7月8日没享年72)。弘化から嘉永頃十代半ばで薩摩藩に仕え篤姫の輿入れで付き御中﨟として大奥入り。江戸開城後も徳川宗家邸で天璋院に仕え、天璋院没後その命日に欠かさず寛永寺に参ったという。その後も女中頭として家達の代まで徳川家に仕えたが大正頃には亡くなったか致仕したと思われる[注釈 1]

表使[編集]

福田(ふくだ、生没年不詳)、父は原田氏。宿元は甥の原田八十一郎。篤姫の輿入れで付き表使、落飾して天璋院になっても仕え続ける。

御次[編集]

佐々鎮子

参考文献[編集]

  • 渋沢栄一大久保利謙 校訂『昔夢会筆記~徳川慶喜公回想談』(→p316 第二十五 はじめての御登城に奥女中を叱責し給いしという事)〈平凡社東洋文庫 0076〉底本:1915年4月 改訂:1966年10月 ISBN 4-582-80076-9
  • 旧事諮問会 編 進士慶幹 校注『旧事諮問録』(→上巻 第4回 大奥の事 箕浦はな子(旧幕中藹)佐々鎮子(旧幕御次)明治24年4月23日)〈岩波文庫〉(上)1986年1月 ISBN 9784003343814(下)1986年2月 ISBN 9784003343821
  • 三田村鳶魚朝倉治彦 編 『御殿女中~鳶魚江戸文庫17』(→御殿女中の研究 目録 p3 ㈡...天璋院殿の御中臈...)〈中公文庫ISBN 4122030498
  • 畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波書店岩波新書 新赤版 1109〉、2007年12月。ISBN 978-4-00-431109-6 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 墓所は青山霊園1-イ-9-9。なお仙波家の墓所は1908年10月21日、伊皿子(現在の港区三田4丁目NTTデータ三田ビル)にあった大円寺から改葬されている。同寺は同年杉並区和泉に移転しているため、改葬したものと思われる。なお、墓所は令和2年現在無縁状態で、撤去対象となっている。