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凌煙閣二十四功臣

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凌煙閣二十四功臣(りょうえんかくにじゅうよんこうしん)は、唐の中国統一に貢献してきた功臣24名を指す。貞観17年(643年)2月28日に太宗が西京宮城東北の凌煙閣に、画家である閻立本に功臣の絵を描かせたのが由来となっている。この当時存命であったのは、長孫無忌・房玄齢・高士廉・尉遅恭・李靖・蕭瑀・劉弘基・張亮・侯君集・程知節・唐倹・李勣の面々である(『旧唐書』巻65・長孫無忌伝、『唐会要』巻45・功臣より)。

概要

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凌煙閣の構造

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凌煙閣は、唐の長安の西内(太極宮)三清殿の北やや東寄りに位置し、西側には功臣閣が隣接していた。その外観は高大で壮麗であり、劉公興の「凌煙閣を望む」詩には「画閣は凌虚に構へ、遥かに瞻れば九天に在り。丹楹は壮麗を崇くし、素壁には勲賢を絵く」と詠まれている[1]。

閣内は「隔」(隔壁状の画壁)によって空間が仕切られており、文献には「中隔」と「三隔」の二説が記録されている。主流の見解は『南部新書』および『雍録』に基づき、閣内には三道の隔壁が設けられていたとするもので、内側から外側へ向かって順に、最内層には功績の高い宰輔(宰相・補弼の重臣)を、その外側の層には功績の高い諸侯王を、最も外側の層にはその他の功臣を序列に従って描いた[2]。功臣の画像はすべて一律に北面(北向き)であり、「北面するは臣礼なり」として、臣下の君主に対する臣従の礼を表している[3]。

閣内の空間設計は身分秩序と観覧の必要を兼ね備えており、参観者は隔壁の間の通路に沿って、順に画像と題賛を見て回ることができた[4]。このような配置によって、凌煙閣は前代の功臣閣をはるかに上回る数の画像を収容することを可能にし、「その内部は三道の隔壁を媒介として、前代の数倍に及ぶ功臣像を秩序正しく配列するという奇跡を実現した」と評される[5]。また、凌煙閣の内壁の周囲には、太宗が愛した御馬の壁画も描かれていた[4]。

芸術の価値

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凌煙閣功臣図は初唐人物画の最高傑作であり、「篆書・隷書を能くし、絵画・建築のいずれにも長じていた」閻立本が主宰して描かせたものである。閻立本は張僧繇・鄭法士に師法し、「人物・車馬・台閣のいずれも高い水準に達し」、その筆になる功臣像は「その形貌を法(のっと)り、その官爵・姓名を署す」るものであり、写実性と伝神性(精神を伝える表現力)を兼ね備えている。また、太宗みずから像に賛をしたため、褚遂良が閣に題したことにより、「画―賛―書」の三者一体となった芸術形式が成立した[6]。

現存するものとして、宋の游師雄が元祐五年(1090年)に刻石した凌煙閣功臣図の拓本の断片が四点伝わっているが、「その造形風格を、出土した唐墓壁画や閻立本の『歩輦図』と比較すると、これらは唐代の風を最もよく伝える模本と見なされる」[7]。凌煙閣功臣画像は唐代における国家的な美術事業として、「唐代人物画の発展に規範を示し、大きな推進力を与えた。その結果、画像を描く気風は唐代社会において流行となり主流となった」のであり[8]、絵画の「教化を成し、人倫を助く」という政治教化機能を説いた張彦遠の説を裏付けるものである[9]。

後世への影響

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凌煙閣は中国古代における功臣顕彰制度の最盛期を代表する存在となった。「唐代には五人もの皇帝が凌煙閣に功臣を図像したが、中でも唐太宗の貞観十七年(643年)における功臣図像が最も影響力を持つ」とされる[10]。その「功を念うの懐いは、前載に謝すること無く;賢を旌(あらわ)すの義は、永く後昆(こうこん)に貽(のこ)す」という政治的意図は、後世の文臣武将を鼓舞して功業を立てさせ、千年にわたって続く「凌煙閣コンプレックス(情結)」を形成した[11]。唐の詩人李賀は「男児何ぞ帯びざる呉鉤(ごこう)、関山五十州を収取せん。請ふ君、暫く凌煙閣に上れ、若箇(いず)れの書生か万戸侯たらん」という名句を詠み、凌煙閣を功名と栄誉の象徴へと昇華させた[12]。

凌煙閣の影響は芸術と制度の領域にも及んだ。芸術面では、宋代に游師雄が唐摸本を刻石して流伝させたほか、「清代の画家も凌煙閣の功臣を図絵することにより忠勲を顕揚し、姦醜(かんしゅう)を排斥した」[13]。功臣を図像するその制度は後世に倣(なら)われ、宋代の顕謨閣や清代の紫光閣はいずれもこの伝統を継承した[14]。さらに、凌煙閣は後世の文学や戯曲において古典的題材となり、例えば京劇『岳母刺字』の「凌煙閣上 万載に名を揚ぐ」という唱詞は、その文化的内実を人々の心に深く根づかせている[10]。

功臣の追加

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太宗の後、代宗・徳宗・宣宗・昭宗の四人の皇帝が順次、凌煙閣に功臣の追絵を行った。代宗期には、宝応元年(762年)、李适(後の徳宗)・郭子儀・李光弼・侯希逸らが安史の乱平定の功により凌煙閣に図像され[15]、広徳元年(763年)には僕固懐恩・李宝臣・薛嵩・田承嗣ら三十二人が加えられた。この時には魚朝恩・程元振らの宦官も含まれている[16]。

徳宗の貞元五年(789年)には、時代をまたぐ大規模な図像事業が行われ、「詔して褚遂良・蘇定方・郝処俊ら二十七人を以てこれに充つ」とあり、中宗から徳宗期に至るまでの功臣が網羅された[17]。宣宗の大中二年(848年)には、李峴・王珪・戴冑・馬周・張九齢・張巡・許遠ら三十七人(李絳を含め三十八人)が新たに図像され、この時初めて壁画に代えて繍像(刺繍による肖像)形式が採用され、空間不足の問題が解消された。昭宗期には、光化元年(898年)、銭鏐が援軍を出して敵を防いだ功により凌煙閣に図像され、天復元年(901年)には、孫徳昭・董従実・孫承誨が宦官劉季述を誅殺して救駕(皇帝を救出)した功により、「即日功を議せられ」て凌煙閣に図像され、これが最後の入閣功臣となった[15]。唐代の凌煙閣には累計して延べ一百三十二人の功臣が図像され、褚遂良・馬燧など一部の功臣は重複して図像されている[5]。

なお、天祐元年(904年)には、中書門下より奏書がなされ、東都洛陽に地を選んで別に凌煙閣を建て、梁王朱全忠を図写することが提議され、後に「天祐旌功之閣」の名を賜っている[18]。

序列

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  1. 司徒・趙国公 長孫無忌
  2. 故司空・揚州都督・河間元王 李孝恭
  3. 故司空・萊成公 杜如晦
  4. 故司空・相州都督・太子太師・鄭文貞公 魏徴
  5. 司空・梁国公 房玄齢
  6. 開府儀同三司・尚書右僕射・申文献公 高士廉
  7. 開府儀同三司・鄂忠武公 尉遅恭
  8. 特進・衛景武公 李靖
  9. 特進・宋貞褊公 蕭瑀
  10. 故輔国大将軍・揚州都督・褒忠壮公 段志玄
  11. 輔国大将軍・夔襄公 劉弘基
  12. 故尚書右僕射・蔣忠公 屈突通
  13. 故陝東道行台右僕射・鄖節公 殷開山
  14. 故荊州都督・譙襄公 柴紹
  15. 故荊州都督・邳襄公 長孫順徳
  16. 洛州都督・鄖国公 張亮
  17. 光禄大夫・吏部尚書・陳国公 侯君集
  18. 故左驍衛大将軍・郯襄公 張公謹
  19. 左領軍大将軍・盧襄公 程知節
  20. 故礼部尚書・永興文懿公 虞世南
  21. 故戸部尚書・渝襄公 劉政会
  22. 光禄大夫・戸部尚書・莒襄公 唐倹
  23. 兵部尚書・英国公 李勣
  24. 故徐州都督・胡壮公 秦叔宝

一部の追絵功臣

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  1. 唐徳宗皇帝 李適[19]
  2. 司空・魏国公 裴寂[19]
  3. 納言・上柱国・魯国公 劉文静[19]
  4. 左武衛大将軍・邢国公 蘇定方[19]
  5. 尚書右僕射・同中書門下三品・河南郡公 褚遂良[19]
  6. 侍中・永寧郡公 王珪[19]
  7. 吏部尚書・参豫朝政・道国公 戴冑[19]
  8. 中書令・兼太子左庶子・検校吏部尚書・高唐県公 馬周[19]
  9. 中書令・始興県伯 張九齢[19]
  10. 太尉・中書令・太師・汾陽郡王 郭子儀[19]
  11. 河南副元帥・太尉侍中・臨淮郡王 李光弼[19]
  12. 鎮西北庭行営節度使・開府儀同三司・衛尉卿・兼懐州刺史・虢国公 李嗣業[19]
  13. 太尉・兼中書令・上柱国・太師・西平郡王 李晟[19]
  14. 司徒・侍中・太尉・北平郡王 馬燧[19]
  15. 河南節度副使・左金吾衛将軍・検校主客郎中・兼御史中丞 張巡[19]

参考文献

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脚注

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  1. ↑ 杜正乾「凌煙閣與唐代政治試探」、『南京師範大学学報(社会科学版)』第4期、2006年、71-72頁。
  2. ↑ 張暁雄「凌煙閣功臣畫像敕繪盛衰史論」、『文学教育』第13期、2009年、102頁。
  3. ↑ 杜正乾「凌煙閣與唐代政治試探」、『南京師範大学学報(社会科学版)』第4期、2006年、72頁。
  4. 1 2 張暁雄「凌煙閣功臣畫像敕繪盛衰史論」、『文学教育』第13期、2009年、103頁。
  5. 1 2 古暁鳳「唐代凌煙閣功臣研究」、陝西師範大学修士学位論文、2008年、11頁。
  6. ↑ 蔡昌林「凌煙閣《功臣圖》考證與宋刻探研」、『西北美術(西安美術学院学報)』第3期、2015年、76-77頁。
  7. ↑ 蔡昌林「凌煙閣《功臣圖》考證與宋刻探研」、『西北美術(西安美術学院学報)』第3期、2015年、77頁。
  8. ↑ 張曉雄「論凌煙閣功臣畫像與功臣個人的命運」『湖北師範學院學報(哲學社會科學版)』第3期、2008年、70頁。
  9. ↑ 杜正乾「凌煙閣與唐代政治試探」、『南京師範大学学報(社会科学版)』第4期、2006年、74頁。
  10. 1 2 杜正乾「凌煙閣與唐代政治試探」、『南京師範大学学報(社会科学版)』第4期、2006年、71頁。
  11. ↑ 蔡昌林「凌煙閣《功臣圖》考證與宋刻探研」、『西北美術(西安美術学院学報)』第3期、2015年、76頁。
  12. ↑ 梁暁霞「唐代詩人的“凌煙閣”情結」、『興義民族師範学院学報』第4期、2013年、68頁
  13. ↑ 杜正乾「凌煙閣與唐代政治試探」、『南京師範大学学報(社会科学版)』第4期、2006年、75頁。
  14. ↑ 梁之典「唐太宗凌煙閣二十四功臣相關問題研究」、『中華辞賦』第5期、2019年、255-256頁
  15. 1 2 張曉雄「唐德宗與凌煙閣功臣畫像」『湖北師範學院學報(哲學社會科學版)』第4期、2009年、94頁。
  16. ↑ 古暁鳳「唐代凌煙閣功臣研究」、陝西師範大学修士学位論文、2008年、10頁。
  17. ↑ 張曉雄「唐德宗與凌煙閣功臣畫像」『湖北師範學院學報(哲學社會科學版)』第4期、2009年、93頁。
  18. ↑ 古暁鳳「唐代凌煙閣功臣研究」、陝西師範大学修士学位論文、2008年、12-13頁。
  19. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 古暁鳳「唐代凌煙閣功臣研究」、陝西師範大学修士学位論文、2008年、45-57頁。