冲中重雄
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おきなか しげお 冲中 重雄 | |
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1955年 | |
生誕 | 太田重雄 1902年10月8日 石川県金沢市 |
死没 | 1992年4月20日(89歳没) 東京都港区 |
墓地 | 大善寺 (八王子市) |
国籍 | ![]() |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 大日本帝国海軍軍医少尉 東京帝国大学第三内科教授 虎の門病院院長 宮内庁内廷医事参与 日本学士院会員 |
代表作 | 自律神経系の研究 |
影響を受けたもの | 呉建 |
前任者 | 坂口康蔵 |
受賞 | 日本学士院恩賜賞 文化勲章 勲一等瑞宝章 従三位 |
冲中 重雄(おきなか しげお、1902年10月8日 - 1992年4月20日)は、日本の内科学者。東京大学名誉教授、元日本学士院会員。日本学士院恩賜賞受賞、文化勲章及び勲一等瑞宝章受章。石川県金沢市生まれ。
略歴・人物[編集]
金沢市で大日本帝国陸軍の軍人の太田米丸(田中義一の同期でのちに陸軍大佐)の家に生まれる。兄に大日本帝国陸軍中将を務めた太田米雄がいる。伊予松山藩藩士で国学者の太田満穂は曽祖父。
1909年岡山県立師範学校附属小学校(現岡山大学教育学部附属小学校)入学。その後、東京府北豊島郡王子尋常高等小学校(現北区立王子小学校)に転校。
1921年に父が亡くなったため、父のいとこで医師の冲中磐根と養子縁組をする[1]。
第二横浜中学、一高理科乙類を経て、東京帝国大学医学部卒業。卒業後内科学第二講座医局に入り副手に就任。呉建教授に師事。講師を経て、1943年から第二内科助教授。1945年8月15日志願し、大日本帝国海軍軍医少尉に任官。海軍衛生学校で雑巾がけをしていたところで終戦を迎えた。
1946年坂口康蔵の後任として44歳で東京帝国大学医学部(後東京大学医学部)医学科内科学第三講座教授。第二内科出身者が、第三内科の教授に就任することは異例であった。自律神経系の研究を行い、内科学の専門分科を主張して神経内科を確立した。1961年日本学士院恩賜賞受賞。1962年には日本で初めて老年病学講座を開設し、同講座教授を兼務。
1963年東京大学退官時の最終講義での自身の教授在任中の誤診率(14.2%)の発表は有名。後任の老年病学講座教授は吉川政己。東京大学名誉教授の称号を受ける。
虎の門病院設立に参画し、1958年の設立時から顧問を務めていたが、退官後は、虎の門病院院長を10年間務めたその後、冲中記念成人病研究所理事長に就任した。また1963年から68年まで宮内庁内廷医事参与を務めた。1965年日本学士院会員、1970年文化勲章受章、文化功労者。1975年勲一等瑞宝章受章。1992年従三位叙位[2]。。
高血圧のため苦しんだ谷崎潤一郎の主治医となったこともある。[要出典]日本内科学会総会出席のため福岡行きの便に乗った際、よど号ハイジャック事件に巻き込まれて人質になったこともある(冲中は福岡の福岡空港で解放された)[3]。
著書[編集]
- 自律神経系 呉建共著 訂4版 日本医書出版 1944
- 自律神経機能の検査法 学術書院 1947
- 内科学 造血器系循環器系疾患 学術書院 1948
- 自律神経系と臨牀 吐鳳堂 1948
- 自律神経系研究と其の臨床的応用の一面 医学書院 1950
- 内科診断学 高橋忠雄・大島研三共著 3版 医学書院 1954
- 冲中教授臨床講義集 第1-5巻 診断と治療社 1955-63
- 内科臨床と剖検 冲中内科17年のあゆみ 南江堂 1963
- 臨床酵素学 赤堀四郎共著 朝倉書店 1964
- 医師と患者 東京大学出版会 1965
- 視床下部 小林隆・時実利彦共著 文光堂 1966
- 医師の心 東京大学出版会 1978 (UP選書)
- 冲中重雄-医の道 冲中重雄先生を偲ぶ会 1992
博士論文[編集]
「脳脊髓性 -錐體路外導路性-筋緊張の末梢径路に関する研究」昭和7年3月29日学位授与[4]
脚注[編集]
- ^ 私の履歴書
- ^ 日本電気泳動学会総会 歴代総会長
- ^ 沖永重雄「私の履歴書」
- ^ 国立国会図書館NDL-OPAC