内田喜久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
内田 喜久
うちだ よしひさ
Yoshihisa-Uchida-Mayor.jpg
生年月日 (1925-01-05) 1925年1月5日(95歳)
出生地 愛知県岩津村井ノ口
出身校 明治大学政治経済学部[1]
所属政党自由民主党→)
無所属
親族 子・内田康宏(岡崎市長)

Flag of Okazaki, Aichi.svg 第16-18代 岡崎市長
当選回数 3回
在任期間 1971年5月2日 - 1980年6月30日

選挙区 岡崎市選挙区
当選回数 2回
在任期間 1963年4月30日 - 1971年
テンプレートを表示

内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年1月5日 - )は、日本政治家新聞記者愛知県岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(2期)を歴任した。「喜久」を音読みして「きく」と読まれることも多い[2]

経歴[編集]

愛知県岩津村井ノ口(現・岡崎市井ノ口町字楼)に、農業を営む父:内田松太郎、母:かまの三男として生まれる。ただし長兄は夭逝したため、男5人、女3人のきょうだいの中で次男として育てられた[3][4]岩津町立大樹寺尋常小学校卒業[5]1939年岡崎市三島尋常高等小学校高等科を卒業後[6]、新三河新聞社に記者見習いとして採用される[7]。日刊新聞『新三河』は1940年11月1日竹内京治の『岡崎朝報』に統合され『三河新聞』と改称する[8]

1941年5月1日、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)に定時制の第二商業学校が併設されると、竹内社長のすすめで入学。働きつつ学ぶ勤労学徒の生活が続く[2]。一県一紙の国策により1942年7月30日に廃刊となる日まで『三河新聞』の記者を務めた。

1944年10月、召集により満州に送られた。牡丹江省東寧の満州第929部隊に入隊。輓馬の野戦重砲隊に配属される。1945年3月、連合軍本土上陸に備えるため、九十九里浜へ移動。8月、群馬県の駐屯地で終戦を迎えた[9]

1946年明治大学に入学(1952年に同大学政治経済学部卒業)[6][10]1947年4月25日第23回衆議院議員総選挙において岡崎市出身の千賀康治が初当選。「内田には中央のことを勉強させておいた方がいい」という竹内京治のはからいにより千賀の秘書となった。そのかたわら、西三河青年同盟をおこし政治運動ならびに青年運動に情熱を傾ける[11]。西三河青年同盟のメンバーの一人と結婚[12]

愛知新聞を創刊[編集]

内田が27歳のときに創刊した『愛知新聞
内田喜久と妻の美惠子(1958年)
県議会議員時代の内田(1967年頃)

終戦直後の1945年12月25日、黒柳章、榊原金之助らが中心となって『東海新聞』が創刊された。1947年、戦前の新聞記者たちはさらなる地元新聞の発刊を企て、元新三河新聞社の工場長の自宅に集まった。たまたま居合わせた内田は請われるままに代表者にさせられ[7]、同年8月、市内板屋町の仕舞屋で週刊新聞『三河タイムス』を創刊した。

1951年初頭、日刊紙への移行を計画し、一般から新紙名を募集。1952年5月10日、株式会社愛知新聞社を設立。新社屋を千賀康治のおいの千賀次良が持っていた旧康生町(現・康生通東1丁目)[注 1]の土地に建てた[15][16]。同年11月1日、『愛知新聞』第1号を発行した[16]。続いて東海放送株式会社を設立し[11]1961年には中部日本都市広告協会を設立した[3]。千賀次良は1965年10月2日に病死するまで愛知新聞社の取締役会長を務めた[17]

政治家に転身する前、内田は岡崎市長選挙に二度、選対の参謀として関わっている。1955年の市長選ではかつて秘書として仕えた千賀康治を支援した[18]。千賀は現職の竹内京治に敗れ、翌1956年都電にはねられ死亡した[19]。それを境に旧幡豆郡を地盤にした中垣國男が岡崎に勢力をのばし、中垣に連なる県議の太田光二1959年の市長選に出馬の構えを見せると、竹内の推薦母体である愛市連盟が結成された。愛市連盟の事務局は愛知新聞社本社に置かれた。竹内は「岡崎が中垣に乗っ取られていいのですか」と内田に詰め寄られ、4選出馬を決断した[20][21]。どちらの選挙でも敗北を喫したが、細かな情報を駆使した内田の選挙手腕は注目を集めた。

1961年2月頃、東海新聞社社長の榊原金之助が次期県議選への出馬を表明[22]。それに伴い内田を県議会に送らんとする空気が強まり、若い商店主らによって後援会「八日会」が設立された。名前は永田安太郎の後援会「十五日会」にちなんで付けられた[23]

1962年10月に岡崎市は六ツ美町を編入[24]。これに伴い、1963年愛知県議会議員選挙・岡崎市選挙区は定数が3から4に増える。同年4月17日に行われた県議選に浦野幸男派(宏池会)からは内田のほか、現職の柴田彦四郎[25][26]、浦野の書生で繊維会社社長の鈴木正雄[注 2]の3人が立候補。また、中垣國男派(水曜会)からは現職の近藤春次のほか、前述の榊原金之助が立候補[30][31]。7人の候補者が争う中、初出馬ながら1万8千票余りを得てトップ当選を果たした。1967年、再選。

市長選に出馬[編集]

1970年春頃には「翌年の市長選は現職の太田光二と内田喜久の一騎打ちの公算が大きい」と報ずる新聞記事がすでに出始めていた[32]。3期勇退を公約に掲げていた太田は、義弟の浅岡齋が県議選出馬の準備をすすめていたこともあり[33]、当初引退の決意が固かったが、後援会幹部らに口説き落とされた[34]。一説には、内田によって配布されたおびただしい数の中傷ビラに激怒し出馬に踏み切ったとも言われている[35][36]。4月、前回の市長選で落選した元衆議院議員秘書の原嶋亮二が出馬の意向を表明し[37][注 3]、6月には太田・内田・原嶋の出馬は公然の事実となった[43][44]10月3日岡崎市議会議長と岡崎商工会議所会頭が発起人として名を連ねた太田の支援者の集会が岡崎市民会館で開かれる。国会議員や大臣代理、近隣市長らが多数招かれた同集会において、次期市長選挙候補に太田を推薦することが採択される[45][46]。太田は12月10日、定例市議会の冒頭で正式に出馬を表明[47][48]12月18日、岡崎市地区総代会長連絡協議会は太田の推薦を決定[49]

当時、岡崎市の北部地域で、岡崎 - 多治見間の国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道)の新設の工法をめぐって、高架か矢作川土手か、国鉄と地元住民が対立していた。建設促進委員長だった市長の太田は国鉄の意を受けて安価な土手方式の採用に傾いていた。衆議院議員の中野四郎1969年衆院選で太田一派の支持を秘密裡にとりつけ得票数2位で勝利を収めていたが、その後大門地区の住民から岡多線に関する陳情を受けていた。岡崎の票を落としたくない中野は内田に「君は高架をやるか」と尋ね、内田が「やります」と答えたことから、1971年1月20日、内田支持を表明した[50][51]

1971年4月25日に投票が行われ、4期目を狙う太田、原嶋亮二との保守三つどもえの戦いを制し初当選した。5月2日、市長就任[52]

※当日有権者数:136,567人 最終投票率:87.50%(前回比:+1.73pts)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
内田喜久46無所属73,275票61.87%
太田光二71無所属34,705票29.30%
原嶋亮二40無所属10,457票8.83%

同年7月1日、愛知県住宅供給公社専務理事の鈴木弥一郎を助役に選任[53]。太田派職員を部長から引きずり下ろすため、同日、部制を廃止して課長に降格[52][54]市役所内部の実権を確立すると、1973年4月に部制を復活させるなど[55]、徹底した報復人事を行った[56][57]

1975年4月中旬より助役の鈴木弥一郎が病気のため欠勤。鈴木は6月30日の任期満了とともに退任する意志を固めた[58]。後任選びで、鈴村正弘教育長[注 4]を推す内田と大郷恒夫総務部長を推す議会各派のあいだで意見が対立したが、内田の後援会幹部の根回しにより7月1日、大郷が助役に就任した。内田は対抗策として7月22日に臨時議会を開き、機構改革を断行。理財部を新設してここに財政部門を集中させ、次いで規制を改正して助役から予算の査定権を奪い去った[67][68]。また、大郷ははっきりものを言う性格から次第に内田に疎まれ、1期4年で助役を退任した[69]。市役所4階の市長室は〝開かずの間〟と呼ばれ、落城の日まで内田は特定のブレーンを作らなかった。滅多に人を近づけなかったと言われている[70][注 5]

この間、1975年4月の市長選で日本共産党推薦の新人らを破り再選した。

岡崎は1955年を最後に、地元選出の保守系の代議士を持たなかった。保守の代議士が中央の権力と地方とを結ぶ利益誘導のパイプ役であると考える内田にとって、残された夢は国政に打って出ることだった[72]1976年12月、衆議院は解散が行われないまま任期満了により総選挙を迎えた。前回(1972年)の落選から再起をはかる中野四郎は、禅譲をにおわせ内田に接近した。系列としては依然として浦野幸男派(宏池会)に属していたが、内田はこれを期に中野派(福田派)に移る[72][73]。中野は岡崎で1万3千票を増やし、トップで返り咲いた。

1977年1月16日朝、浦野幸男が心不全のため急死[74]。先の総選挙で中野支援を強めた内田にとって、浦野の死は誤算だった。同日夜、内田は側近の市議と浅井正三市議の自宅に集まり、浦野の後継者問題について密議を行った。1月20日、浦野後援会による臨時葬儀が豊田勤労福祉会館、岡崎市の六所神社、安城市民会館の三会場で開かれる。浦野後援会員でもあった浅井正三は六所神社で「後継者選びのときは、岡崎にも声をかけてほしい」と申し入れるが、娘婿の浦野烋興擁立を図っていた陣営は「喪が明けるまではその話はしないでほしい」と首尾良くかわした[75]。3月2日、浦野派の服部貞弘市議と、猿投青年団で浦野幸男と活動した間柄の太田進市議の二人は豊田に出向き、豊田市議会の正副議長らと面会。服部と太田は「岡崎は全員一致で内田に決定した」と告げた[76]。しかし時すでに遅く、同日夜、酒井鈴夫県議、西山孝豊田市長、三好町長、足助町長、小原村長、藤岡村長、旭町長、下山村長、豊田商工会議所会頭ら豊田市・東西加茂郡の政財界要人で構成する「浦野幸男後継者問題懇談会世話人会」は浦野烋興の自宅を訪れ、正式に後継受託を要請した[77]。3月14日、浦野幸男後援会の総会で烋興推挙の決議が可決され、内田擁立の計画は頓挫する[78]

同年、愛知新聞社と東海新聞社は合併し、東海愛知新聞社が設立された。1月19日に設立株主総会および取締役会が開かれ、同社の代表取締役社長に就任した[79]

1978年11月4日、5日の2日間、第1回岡崎まつりが盛大に開催される[80]。この岡崎まつりに関し、前述の太田進が委員会で内田を問いただすと、内田は太田を市長室に呼び出し「共産党のいる委員会で何たる発言か」と叱責した。太田市議(井田町在住)[81]の後援会長は、同時に井田学区の内田の後援会長を兼ねていた。内田は後援会長に、太田の選挙活動は手を抜けと指示。また、太田への市の施設の使用許可が滞るよう工作した[68]。その結果、1979年4月22日に行われた市議選で太田進は候補者49人中47位で落選[82]。内田が手を回していたことを太田はこのとき初めて悟るが、後の祭りだった。議長も務めた自民クラブの重鎮のまさかの落選は、他の市議たちを震え上がらせた[68][83]

1979年、市議選と同日執行の市長選で無投票により3選[84]。「物言えば唇寒し」の空気はますます岡崎の市政を覆うようになった。自民クラブの市議は内田を「上司」と呼び始めた[85]。同年6月、愛知県市長会長、東海市長会副会長に就任[86]

同年8月10日、日本社会党太田一夫が高血圧悪化を理由に次期衆院選への立候補辞退を党愛知県本部に伝える[87]。9月7日、衆議院解散。岡崎市は地元選出の国会議員を保革ともに失った。中野四郎は、中野後援会岡崎地区連合会長の元市議の柴田信市を遣わし、内田の衆議院転身を断念させ、さらには内田を自身の選対委員長に引き入れた[88]。しかし選挙事務所の雰囲気は低調で、駆けつけた岡崎市議17人の動きも鈍かった。これを「内田の細工」と直感した中野は幹部に非常招集をかけ「岡崎は数に入れずに、15万票取れ」と命じ、「もう内田など来てもらわなくていい」と言い放った[89][注 6]衆院選は10月7日に行われ、中野は11回目の当選を果たす。

明日の岡崎をきずく会[編集]

1980年1月6日、岡崎商工会議所で中野の新年会が開かれた。中野は来賓の内田を前に、「私は死ぬまで代議士をやめません」と挨拶をした。禅譲を受ける望みを完全に絶たれた内田は1月7日、中野と面会し、「次の衆院選は岡崎から候補者を出したいと思います」と告げる。加えて、4期目の市長選に出馬したい意向を伝えると、中野は「おかしいじゃないか。君は長期政権はいかんと、太田君の4選阻止に立ったんじゃなかったのか」と反駁。両者は決裂した[94][注 7]

内田はすぐに次の手を打つ。同年1月11日、「全市総代会役員と議員の懇談会」と銘打った会合で、衆院選候補者擁立のための団体を結成すると発表。「われわれにご理解を」と自民党市議に説明させた。「理解」とは運営資金である[99]。2月、「岡崎から代議士を」の掛け声のもと「明日の岡崎をきずく会」が結成される[100][101]。事務所は八帖北町の岡崎建設業会館の2階に置かれた[102]。3月25日、「明日の岡崎をきずく会」は政治団体として正式に設立され[103]、代表の浅井正三市議と岩瀬信一市議会議長は3月末、土木、建築、電気工事の各業界代表を岡崎建設業会館の2階に呼び集めた。管工事の代表(岡崎市管工事業協同組合理事長)は岩瀬自身であった。岩瀬は「秋に候補者を決めるまでの準備資金を各業界にお願いしたい。150万円までなら会の領収書を出す」と述べた[104]。岡崎土木協力会では、加盟28社に対し、受注実績に応じて献金額を3ランクに割り当てた[105]。関係者から批判があり、事務所は伝馬通4丁目に移された[102]

内田は次期総選挙を1982年頃と読んでいた。1980年11月の総会で役員を選出し、200人程度の選考委員会を設置して候補者を擁立するというのが内田の筋書きだった。若手議員らは当初、会の進め方にそろって冷ややかだった[99]。前年の県議選で内田の全面支援を受けて初当選した中根薫は同年3月頃、同僚の柴田尚道に「内田はもうやめる。次はナカシズ(中根鎭夫)を市長に推す」と言って接触。中根薫、柴田、中根鎭夫の三県議が酒を酌み交わしたという情報はただちに内田の耳に入り、中根の造反はあっけなく封じ込められた[104]

第36回衆議院議員総選挙[編集]

1980年5月16日第2次大平内閣に対する内閣不信任決議案を日本社会党が提出。当時の自民党は前年の四十日抗争を経て分裂状態にあり、党内の反主流派の動向が予測できない状況にあった。それでも内田は不信任決議の否決を露ほども疑わず、同日午後の会合で「衆院の解散は82年秋ぐらいじゃないですか」と発言していた[106][107]。不信任決議可決後の午後7時6分、大平内閣は臨時閣議を開き解散を決定[108]

同年5月17日午前10時、市役所の市議会「自民クラブ」の控室に議員約30人が急ぎ足に集まった。この緊急集会では、午後から代表が自民党県議3人に意向を打診しに行くことが決まり、正午前にひとまず散会した[109]。衆院選出馬の意思を訊かれた柴田尚道と中根鎭夫は「アリバイづくりに来たということか。見えすいたことを」と思いながらもそつなく対応した。中根薫は「長男の康宏では無理だ」と気乗り薄だったが、協力を約束した[110]。午後4時から市役所内で協議は再開。「明日の岡崎をきずく会」自民クラブ支部会が開かれ、内田か長男の内田康宏かどちらかを立てることで話がまとまる[111]。内田の息のかかった岡崎市総代会連絡協議会はこの日臨時会を開き、康宏擁立を早々と決議した[83][112]。それらの知らせを受けて、康宏は同日の夜遅く、当時の雇い主だった安倍晋太郎に相談。安倍は「福田派の中で波風を立てるようなことはやめてほしい。見送れないか」と答えた[113]

5月18日、康宏は朝9時台の新幹線に乗り帰郷[113]。午後4時頃、内田の自宅に内田喜久、康宏、後援会幹部ら5人ほどが顔をそろえた。康宏が安倍から見送るよう諭されたことを伝えると、幹部の一人は「ここでやめると、おやじ(内田)の面目はまるつぶれだ。信用問題にも関わる」と声を荒らげた[114]。午後6時、後援会の総会が開かれ、康宏擁立が満場一致で決まる。会場の三河別院には、発足が内定していた「内田康宏を育てる会」の入会申込書の束があらかじめ運び込まれていた[114]

5月19日に衆議院は解散し、史上初の衆参同日選挙が行われることとなった。同日、「明日の岡崎をきずく会」は康宏に衆院選への出馬を正式に要請した[115][注 8]。5月20日夕方、康宏は無所属での立候補を表明した[124]

出馬に難色を示したのは安倍晋太郎だけではなかった。仲谷義明愛知県知事は3度にわたり内田に長男康宏の擁立を思いとどまるよう助言した[70]。前知事の桑原幹根も「喜久さんの息子などあぶくにも満たない」と言って遺憾の意を表した[125]。美合学区を地盤とする中野派の柴田尚道県議さえ、仲谷の力を借りて出馬断念を働きかけようとした[126]。出馬の噂を聞いた清和会事務局長の胡伸哉は「あの子(康宏)はいい子だったのに、親父もとうとう墓穴を掘った」ともらした[127]

康宏が立候補を表明した5月20日、「明日の岡崎をきずく会」代表の浅井正三市議は市議会議長応接室で、会派「自民クラブ」の31人の市議のうち姿を見せなかった加藤清市と自身を除く29人に、それぞれ10万円の入った茶封筒を渡した。同日午後、金を受け取った市議の一人は人を介して岡崎警察署の巡査部長を喫茶店に呼び出し、買収の事実を明かした[128]。5月24日には「自民クラブ」の河澄亨市議が柴田県議に茶封筒ごと預け、柴田も警察に通報した[129][71]

旧愛知4区(定数4)は全トヨタ労連を支持母体とする民社党渡辺武三が盤石の構えを見せ、自民党の中野四郎、稲垣実男浦野烋興がそれぞれしのぎを削り、社会党も6~7万の基礎票を有するという全国でも指折りの激戦区であった。自民党の3議員は衆議院解散から間もない5月23日、「三派連合」を岡崎市で組んだ[注 9]

にもかかわらず陣営は「安城や幸田に協力を頼んでいた以上引っ込みがつかない」「候補者を出さないことにはおさまらない」と述べ[132]、無謀とも言える選挙に突き進んだ。内田本人も再三の説得に対し「全部動き出しております。もう止めることも、戻ることもできません」の一点張りであった[129]。5月28日、事務所に顔を出すと、陣営の内部事情にまで通じていないはずの支援者から「仲谷知事から、出馬を断念するよう言われとるそうですな」と話しかけられる。愕然とするが、聞きたくない話はすべて頭から払いのけた[133]

内田は業界組織から金を集めるとき、表には出ず、腹心の市議らが仲介役をつとめた。個人が相手のときは一対一が原則で、国会議員を通じて仕事を依頼した業者に対しては「こういうことは第三者を通してはダメだ」と叱りつけた。三友ニット協組事件[134]で県警が肉薄しながらも手を打てなかったのは、彼の用心深い性格と無関係ではなかった。ところがしょせん内田も人の子、衆院選でそのような周到さは見る影もなくなった[135]。公示日の6月2日、鴨田町広元の選挙事務所に自民クラブ幹部級の市議が現れ、康宏の日程表を手帳に写して立ち去った。不審に思った素封家の地元支援者が日程の担当者に問いただすと、担当者は「市長が見せてもいいと言ったので」と答えた。「人を信用できんようなら何もできない。一人でも多い方がいい」と内田は地元支援者を諭し、選挙事務所は内田派以外の人々が出入りすることを許した[136]

自民系市議31人のうち、河澄亨、神取武史、加藤清市を除く28人が党規に背き内田陣営に走った[137]。ところが情報が外へ漏れることをきっかけとして、内田後援会の選対と市議関係者の間で激しい対立が生まれる。後援会の応援者が運動から手を引くと言い出したときは、内田父子が頭を下げてようやく収まった[138]。投票日前日には他陣営の「市議が28人もあっちへ行ってるというが、市長の顔をたてて、という人も何人かいてね。おかげであっちのスケジュールは手に取るようにわかる」という証言が新聞に堂々と掲載された[139]

買収工作についても、金額から方法に至るまで警察や反対陣営に筒抜けであった[72][140]。理容室、美容室、喫茶店などから成る業界団体「全国環衛組合連合会中央会」は中野の傘下にあったが、愛知県環衛協議会岡崎支部では内田派の店主たちが反発し、衆院選をめぐって足並みが乱れた。この動きに対抗すべく中野派の理容店主によって書かれた怪文書が大量にばらまかれた。そこには「岡崎市議会筋に金が流れていることは公然の秘密」と書かれてあった[141][注 10]

6月12日、大平正芳首相が急死。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙の様相を呈し、挙党態勢に向かった[144]。危機感を募らせた内田は公明党票を当て込み、6月14日、参院選に無所属・同党推薦で立候補した高木健太郎の選挙はがき2000枚の宛名書きを市役所秘書課長に命じた[145]。公明党西三河総支部は自主投票を決定しており、高木は生物科学総合研究機構(現在の基礎生物学研究所生理学研究所)の誘致に一役買ったという背景があった[146]。作業は秘書課、広報広聴課、企画課などから集められた職員約20人によって行われた[147]。解散後、市職員を使った宛名書きはこれが3度目だった[148]。このほかにも広報広聴課の男性職員がイラスト描きを手伝ったり、秘書課の係長が個人演説会の演題を書いたりした[147]

その当時、日本では各候補者が一堂に会して政見を発表し合う「立会演説会」の開催が義務化されていた(1983年の法改正で同制度は廃止)[149]。最終会場となった6月18日夜の岡崎市民会館。康宏が渡辺武三に続き二番手で登壇した頃には、聴衆は2,900人にふくれ上がり、ロビーまであふれた。「岡崎から代議士を」の熱気の中、康宏は拍手と歓声で迎えられた。とはいえ、立会演説会でもテレビの政見放送でも原稿を棒読みする康宏の演説に「学芸会じゃないぞ」などのやじは付きものであり[150][151]、金権政治の腐敗を一掃したいと言えば「お前のおやじはどうだ」、西三河に乏しい文化施設の充実を訴えれば「おやじが悪い」とやじが飛び、演説の声はかき消された[注 11]

6月22日、衆参同日選挙執行。愛知県警は昼過ぎから最終の打ち合わせに入り、供述を得やすい市議から身柄を取る方針を決定した[154]

開票日の6月23日、朝日新聞朝刊は四段見出しで、県警による内田派摘発開始を報じた[155]。午前11時頃には康宏の落選が確定。地盤の岡崎市で総得票数の約41%しか獲得できず惨敗した[151]。同夜、任意出頭した自民クラブの市議11人のうち、浅井正三が買収容疑で、石川新平、沢豊、柴田孝一、本田光木、新海彦二ら5人が被買収容疑で逮捕された[156]。6月27日に内田も逮捕され、6月30日、市長を辞職した[157]

内田の後援会組織に乗って1979年の県議選でトップ当選を果たした中根薫。協力の約束を取り付けたものの、内田は中根が党規に違反してまで無所属の康宏を応援するかどうかを懸念し、5月下旬に現金500万円を供与していた[158]。7月10日、選対委員長として選挙戦を取りしきった中根薫が公選法違反容疑で逮捕[159]。8月6日、岡崎市総代会連絡協議会長と各学区後援会長10数人の取り調べが始まる。総代会連絡協議会長は広幡学区の後援会長と自民党岡崎支部副支部長も兼ねていた。容疑によれば会長らは5月下旬、内田の義弟で私設秘書のKと選対の経理担当者の二人から現金10万円をそれぞれ受け取ったとされた[112]。8月20日、岡崎市八帖北町のK建設の社長と同市上和田町のD建設の社長が贈賄容疑で逮捕され、内田は収賄容疑で再逮捕された[122][160]。新聞は太平洋戦争における軍部ならびに政府の精神構造を解き明かした丸山眞男の論文を引き、内田選対との共通点を記事にした[注 12]

市政[編集]

「緑と太陽の福祉文化都市」[注 13]をスローガンに掲げた内田市政は、社会福祉部門の充実を施策の中心に据え、都市の緑化と保育園の新設・公営化を推し進めたことで知られる[165][166]。また宅地造成にも尽力し、在職中に開始した土地区画整理事業は市施行と組合施行を合わせ計15に及んだ[注 14]。主な業績は次のとおりである。

1971年 11月9日広島県福山市と親善都市提携を結ぶ。12月2日、市政対話集会を開始[52]
1972年 4月1日、寝たきり老人の65歳以上の医療費を無料化[1][注 15]7月16日南公園に市民プールが完成。7月19日、第1回岡崎市戦没者及び戦災死者追悼式を開催[171]7月20日、「市政だより子ども版 おかざきっ子」を創刊。
1973年 4月1日、0歳児の医療費を無料化[172]7月1日、市制施行記念日にあわせ「緑化推進都市宣言」を発表。緑化センターが上里町字河原畑(現・上里1丁目)にオープン[173]。7月1日、心身障害者の医療費助成を開始。8月1日、ごみの市内全域収集を開始。8月17日、第1回中学生子ども議会(現・生徒市議会)を開催[174]
1974年 5月、第1回岡崎こどもまつりを開催[175]5月10日、岡崎市総合福祉センター(現・岡崎市福祉の村)を開設。6月2日中央緑道が完工[176]8月18日、岡崎教育文化大学(現・岡崎市民大学)開講[177][注 16]11月17日、第1回岡崎市農業祭を開催[178]
1975年 3月22日、公募により市の鳥「ハクセキレイ」を選定。また市民の花にツツジなど16種を選定。4月3日岡崎市立緑丘小学校が開校。4月22日明大寺町愛知教育大学跡地に分子科学研究所が設立される。8月5日、移動図書館みどり号がスタート[179]
1976年 4月3日岡崎市立大門小学校岡崎市立竜美丘小学校が開校[180]5月24日、施設老朽化のため火葬場を稲熊町字宮下より才栗町に移転。岡崎市斎場が竣工[181][182]7月1日岡崎市体育館がオープン。市民憲章を制定[注 17]9月30日太陽緑道が完工。10月31日、第1回岡崎市身体障害者体育大会を開催。
1977年 4月1日、新編岡崎市史編さん事業が開始される[184]4月4日岡崎市立城南小学校が開校。4月、岡崎市新総合計画を策定[注 18]5月2日、分子科学研究所に続いて基礎生物学研究所生理学研究所が設立される[182]5月10日岡崎市少年自然の家が完工[186]11月8日市立岡崎病院の新館が完工[187]
1978年 4月1日、岡崎市福祉会館・緑の家がオープン[注 19]。8月、岡崎観光夏まつりの催しの一つとして「岡崎五万石おどり」「五万石太鼓」を創設した[189]花火大会においては鉾船「菅生丸」を新造し、古くなった「天王丸」も船体を作り変えた[190]7月9日、美矢井橋公園運動場がオープン[191]9月30日岡崎市消防本部の新庁舎が完工[192][193]11月4日、第1回岡崎まつりを開催[80]
1979年 5月1日、青少年センターと児童センターの複合施設「太陽の城」がオープン。6月、岡崎城家康館建設整備委員会が発足[注 20]11月15日、第1回岡崎市老人クラブゲートボール大会開催[196]
1980年 3月1日岡崎市竜美丘会館がオープン。3月7日、3隻目の花火大会の鉾船を新造することを市議会で発表した[197][注 21]3月21日、市内羽根町森永製菓岡崎工場の跡地につき森永と売買契約を結ぶ[199][注 22][注 23]4月1日、西三河で初の女性校長誕生[203][204]4月28日、「市議会だより」創刊号を発行[205]5月2日南公園に遊園地を設置[206]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1957年11月15日戦後復興事業完成に伴う町名変更が実施された。旧康生町はこのとき康生町康生通東1・2丁目、康生通西1~4丁目、康生通南1~3丁目に分かれた[13][14]
  2. ^ 鈴木正雄は1923年8月22日に生まれた。1961年6月に日本手袋株式会社を設立し社長に就任[27]。1963年の県議選で自民党の公認を得るも次点で落選し、選挙違反で逮捕された。やがて「鈴木雅雄」と名前を変え、1970年、協和染色会社を市内柱町世戸荒子に設立した(のち美合町小豆坂に移転)[28]。1979年、三友ニット協業組合が48億円の負債を抱え倒産[29]。1980年4月28日、同組合の倒産にからみ詐欺容疑で逮捕された。
  3. ^ 原嶋亮二は1930年、岡崎市籠田町に生まれた。大学卒業後、小林錡旧愛知4区)の秘書となる。1960年、小林は任期中に死去。1962年、参院選全国区にタレントの藤原あきが擁立されると、藤山愛一郎の政治塾で塾生の指導に当たっていた飯島清とともに、藤原の選挙参謀に登用される[38][39]。藤原はトップ当選を果たし、タレント議員のさきがけとなる。藤原の秘書から藤山の秘書に転じたのち[40]、1965年に郷里に戻り牧場経営を始めた[10]。1985年に中野四郎が倒れた際、旧制岡崎中学校の同級生で前特許庁長官の志賀学の擁立に動くが失敗に終わった[41]。1997年9月25日、心筋梗塞のため死去。67歳没[42]
  4. ^ 鈴村正弘は1917年2月10日、挙母町(現・豊田市下林町)に生まれた[59]愛知県岡崎師範学校を卒業後、訓導となる。1948年7月、31歳の若さで岡崎市立葵中学校長に就任。1955年6月から県教育委員会に入り、1961年4月、岡崎市立城北中学校の初代校長となった[60]。市議会議員に付け届けはする、酒食は共にする、料亭で芸妓をはべらすなど運動を盛んに行い、1972年10月1日、岡崎市教育委員会教育長のポストを得た[61][62]。以後、管理教育を推し進めた[63]。1981年3月、城北中学校の生徒が教員による集団指導の結果、自殺[64]。死から1年が経ち、原因解明を促す運動が高まる中、鈴村は2年8か月の任期を残して1982年3月31日付で教育長を辞職した[65]。2000年4月4日、心不全のため死去[66]。83歳没。
  5. ^ 何事も人任せにできない内田の性格は「公園に木を植えるとすると、樹種や、その高さ、植える間隔まで自分で決めないと気がすまない」(元市幹部の証言)ところにも現れ、のちの買収事件で自ら手を汚す遠因ともなった。式典にしても、式次第から出席者、席順まで全部自分で決めたと言われている[56]。藤田芳郎市議は自身が逮捕される2日前、「あの人は、どうにも最後までなじめないんだよ。人に手の内を見せないから、味方はいつでも敵に変わる。命をかけて守る人がいないんだ。城の中へ踏み入れられて刀を突きつけられりゃ、城主はあっさりおしめえサ」と取材陣に語った[71]
  6. ^ 激しやすく、党内でも「ケンカ四郎」の異名をとる中野四郎であったが[90]、その性格が徒になることもあった。1979年2月の安城市長選挙に向けて、自民党代議士、保守・中道の市議、商工会、町内会などで構成された「住みよい安城をつくる市民の会」は岩月収二助役を擁立。中野直系の都築義幸市議を対抗馬に推す話が流れ、岩月は無投票で初当選した。同年3月、中野は自派の安城市議6人を碧南市に呼びつけ、「お前たちは一体何をしてたんだ。なぜ(中野派から)候補者を出さなかったのだ。バカもの」と叱責した。さらに代表格の石川修市議を別室に呼び入れ「お前は県議選に出たいと言っているそうだな」とただした。石川がうなずくと「お前などまだ青い。やめておけ」と吐き捨てるように言った。6人の忠誠心はゆらぎ始める。中野が公の場で岩月に冷淡に接することを快く思わない者もいた。内田は安城の不協和音を的確にキャッチし、同年10月末、中野派の市議の長男を岡崎市役所職員に採用決定した。1980年6月の総選挙で6人はついに内田康宏陣営に寝返り[91][92]、その代償に買収工作に加担し、7月30日までに6人中5人が逮捕された[93]
  7. ^ ほどなくして中野四郎は、中根鎭夫、柴田尚道の両県議と額田町(現・岡崎市中金町)の料理屋で密会。このときに中根鎭夫の次期市長当選の布石は打たれた。「君が市長をやれ」 中野は中根に向かって告げた[95]。同年5月に衆議院解散。なお内田はこの年の春先から中野派の柴田を陣営に抱き込もうと画策しており、柴田も一度はそれに応じるそぶりを見せたが、結局動かなかった[96]。中野、稲垣実男、浦野烋興の3議員が岡崎市において「三派連合」を組むと、自民党岡崎支部長だった中根は反内田の急先鋒に立った[97][98]。8月17日、内田喜久の辞職に伴う市長選が行われ、自民党公認で出馬した中根が原嶋亮二らを破り初当選した。
  8. ^ 衆議院解散の1980年5月下旬から6月初旬にかけて岡崎市は、岡崎市立羽根小学校六ツ美北部小学校愛宕小学校大門小学校の増改築工事と、三河武士のやかた家康館矢作北中学校第1工区、同第2工区の新築工事の計7件の建設工事の発注を決めた。内田は入札の予定価格を特定の業者に漏らしながら、受注会社を決めていった[116]。そして指名業者たちは八帖北町の岡崎建設業会館会議室や康生周辺の料亭で麻雀などをしながら予定価格まで3回以内にどうやってうまく寄りつくかを談合した[102]。八帖北町のK建設は初め、家康館の受注を希望し、内田との間で請負の約束を交わしていた。ところが直前になって内田が「家康館は規模が大きいため、大手の支店業者でないとまずい」と難色を示し、家康館の工事は清水建設名古屋支店が6月17日に4億2,400万円で落札した[117][118]。予定価格2億6,188万4千円であった矢作北中学校第1工区は6月17日に岡崎市東大友町のY組が2億6,100万円で落札し、予定価格1億4,158万円であった同校第2工区は6月14日に前述のK建設が1億4,150万円で落札した[119]。この時期に符合する形で、受注会社から「明日の岡崎をきずく会」へ多額の献金が行われた[116][120]
    公職選挙法199条は、地方公共団体と請負契約を結ぶ業者がその地方公共団体の長や議員の選挙に関して行う寄付を禁止しているが、「明日の岡崎をきずく会」は内田ではなく、息子のための団体であった。同年6月の衆院選に際して、内田は、指名はずしを怖れる業者から無制限に資金集めをできる立場にあった[121]。なお、入札の約2週間前には朝日新聞社岡崎支局に「矢作北中はY組とK建設で分け合う」という情報がもたらされていた[120]。衆院選落選後の8月20日、K建設の社長は贈賄容疑で逮捕され、内田は収賄容疑で再逮捕された[122]。8月28日、K建設は矢作北中第2工区の工事を工期半ばで辞退した。工事は工事完成保証人の同業3社が引き継いだ[123]
  9. ^ 6月1日には、参院選に初出馬する元外交官の大木浩の選挙事務所に三派の運動員150名が集められ、中野派の柴田尚道、稲垣派の中根鎭夫と神取武史市議、浦野派に走った河澄亨市議の4人が手を組む写真が新聞を飾った[130][131]
  10. ^ 内田父子に直接関係のない事柄であっても、金権政治がらみの情報は他の陣営の耳に届いていた。1980年5月15日に開かれた臨時議会で石川新平が岡崎市議会議長に選ばれたが[142]、1週間後には愛知県庁に出向いた県議同士の間で「岡崎の笑い話がある。15日の市議会議長選で、500万円のゼニが動いた」と噂は流れていた[143]
  11. ^ 「おやじが悪い」のやじで康宏の演説は尻すぼみとなるが、席の間を背をかがめて進み、顔を出しては罵声を浴びせる男の動きが目に止まった。重なる他陣営の妨害に「たまにはやり返したれ」と勇み立つ運動員をなだめ続けた康宏も今度ばかりはがまんがならず、「先ほどからあの辺でゴキブリがやかましいようですが」と切り出した[152][139]。会場は騒然。「何だと」と息巻く聴衆に、康宏は「ああいうゴキブリを退治しなければ政治の刷新はあり得ない」と追い打ちをかけた[153]。怒号は止まず、市選管は「静かにして下さい」と書いた紙を掲げた。次に登壇した中野四郎は「いやしくも国政を論ずる真剣な演説会の場で、市民をゴキブリ呼ばわりするとは何事か」とこぶしを振り上げた。参院選自民党候補の大木浩の女性運動員は演説会の様子をテープレコーダーに収め、岡崎事務所の責任者に聞かせた。責任者は聴衆への中傷のくだりにうなずき、康宏の票は大きく減ると請け合った[152]
  12. ^ 丸山眞男は1949年に発表した論文「軍国支配者の精神形態」で次のように述べた(『現代政治の思想と行動』に収録[161])。
    殆どすべての(注・東京裁判の)被告の答弁に共通していることは、既にきまった政策には従わざるをえなかった、或は既に開始された戦争は支持せざるをえなかった云々という論拠である。(中略)満州事変以来引続いて起った政治的事件や国際協定に殆ど反対であった旨を述べている被告らの口供書を読むとまるでこの一連の歴史的過程は人間の能力を超えた天災地変のような感を与える[162]
    陸軍大臣が閣議御前会議などである処理に反対し、あるいはある処置の採用を迫る根拠はいつもきまって『それでは部内がおさまらないから』とか『それでは軍の統制を保証しえないから』ということであった。(中略)軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層に排外主義や狂熱的天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった『世論』によって逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで押し進めて行かざるをえなかった[163]
  13. ^ スローガン「緑と太陽の福祉文化都市」を最初に公の場で発表したのは1972年の3月議会(3月7日~3月28日)において[164]
  14. ^ 内田が在職中に開始した土地区画整理事業の内訳は以下のとおり。市施行は岡崎駅西地区、岡崎駅前・駅東の2つ。組合施行は若松、柱、八帖、上地第一特定、上地第二特定、羽根、東阿知和、中島、広田、城南、緑丘、宇頭南、美合の13[167][168][169]
  15. ^ 70歳以上の老人医療費の無料化は、太田光二市政のときにすでに実施されていた(1971年4月から運用開始)[170]
  16. ^ 岡崎教育文化大学は翌年の第2回から「岡崎市民大学」に改称された。1951年に学校教育課が開設した講座「中央公民館活動」を前身とする。
  17. ^ 市民憲章制定委員会の委員長は愛知学芸大学初代学長の内藤卯三郎[183]
  18. ^ 「岡崎市新総合計画」は3年半の歳月をかけて策定された。岡崎市総合計画審議会が中心となり、計7回に及ぶ市民への説明会を経てまとめられた。同審議会の会長は元愛知教育大学長の伊藤郷平[185]
  19. ^ 住所は岡崎市朝日町3丁目17。3階建て、延べ849.88平方メートルの建物に、岡崎市社会福祉協議会事務局と母子福祉センターが置かれた[188]
  20. ^ 内田はかねてより岡崎公園内に博物館を建設する構想を抱いていたが、1977年8月に創立40周年を迎えたトヨタ自動車が記念事業の一環として岡崎市に5,000万円を寄附。これを基金とすることが決まり、1979年度より家康館建設事業が具体化した[194][195]
  21. ^ 3隻目となった鉾船「竹千代丸」は全額市費で860万円かけて製作された。1980年7月29日に進水式が行われ[198]、同年8月2日の花火大会でデビューを飾った。
  22. ^ 森永製菓岡崎工場は、1918年7月に岡崎市旧康生町に設立された東海製菓株式会社を前身とする。東海製菓は一時は市内3工場のほか名古屋工場、小山工場(栃木県)、下関工場、大府練乳工場を持ち日本有数の洋菓子製造会社であったが、1942年10月1日に森永製菓株式会社に合併された[200]。市は岡崎市土地開発公社を通じて、2万3,501平方メートルの工場跡地を、建物解体費を差し引いた18億円で購入した[201]。岡崎工場は売買契約が結ばれてから半年後の1980年9月30日に閉鎖された。
  23. ^ 岡崎市が取得した森永製菓岡崎工場の跡地は1981年7月から市の総合現業事務所、倉庫および資料収納庫として使用された[202][201]。現在は岡崎市シビックセンターが建っている。

出典[編集]

  1. ^ a b 日本の歴代市長 第二巻』 464頁。
  2. ^ a b 東海愛知新聞』2015年6月2日【特集号】、2面、「内田喜久氏に聞く 振り返る70年」。
  3. ^ a b 全岡崎知名人士録』 50頁。
  4. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (7) 仏の松さ ものいった父の評判」 『朝日新聞』1980年10月23日付朝刊、三河版西。
  5. ^ 『愛知新聞』1963年4月11日。
  6. ^ a b 『愛知新聞』1962年10月14日、2面、「連尺学区うちだ後援会発足 浦野代議士、太田市長も出席」。
  7. ^ a b 内田喜久「創刊25年を回顧」 『愛知新聞』1974年11月19日、1面。
  8. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 499頁。
  9. ^ 市政だより おかざき No.419 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 5 (1980年3月1日). 2020年3月5日閲覧。
  10. ^ a b 中日新聞』1971年4月17日付朝刊、三河版、9面、「岡崎市長選 横顔と公約」。
  11. ^ a b 内田喜久 『欧米見たまゝ』 愛知新聞社、1970年4月1日、著者略歴。
  12. ^ 福岡寿一編『めおと善哉』東海タイムズ社、1958年8月5日、86頁。
  13. ^ 『愛知新聞』1957年10月17日、1面、「町名改正、来月15日から施行 名実共に戦災復興総仕上げ」。
  14. ^ 新編 岡崎市史 史料 現代 11』 98頁。
  15. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (9) 新聞界 地元政界を彩るOB」 『朝日新聞』1980年10月25日付朝刊、三河版西。
  16. ^ a b 『愛知新聞』1957年10月13日、2面。
  17. ^ 『愛知新聞』1965年10月3日、「本社会長 千賀次良氏」。
  18. ^ 榊原金之助ほか著、福岡寿一編『続・三河現代史』東海タイムズ社、1961年4月1日、137頁。
  19. ^ 『東海新聞』1956年2月25日、1面、「千賀元代議士東京で急逝 都電に刎られきのう朝死去さる」。
  20. ^ 『東海タイムズ』1966年3月1日。
  21. ^ 『愛知新聞』1958年10月22日、1面、「竹内岡崎市長に推薦申入れ 愛市連盟準備委で会長に小柳氏」。
  22. ^ 『東海タイムズ』1961年2月13日、1面、「目白押しの次期県議選 十名超えるウワサの出馬群」。
  23. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (12) 38歳 県議選にトップ当選」 『朝日新聞』1980年10月31日付朝刊、三河版西。
  24. ^ 市政だより No.92 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 1 (1962年11月1日). 2020年3月8日閲覧。
  25. ^ 『愛知新聞』1963年4月4日、「必勝期す出馬群像 (2) 支援体制がっちり 自民・現 柴田彦四郎候補」。
  26. ^ 『愛知新聞』1962年10月14日、2面、「県議選愈よ明春に迫る 噂の顔ぶれ出揃う 岡崎は県下一の激戦地 増える議席狙って新人の擡頭めざまし」。
  27. ^ 全岡崎知名人士録』 131頁。
  28. ^ 朝日新聞』1980年7月25日付朝刊、「無謀の構図 内田派・利権屋列伝 (9) 書生仲間 工場移転でもうけ? 内田が一役、疑惑呼ぶ」。
  29. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 177頁。
  30. ^ 福岡寿一編 『三河現代読本』 東海タイムズ社、1962年10月1日、39頁。
  31. ^ 『東海タイムズ』1962年8月6日。
  32. ^ 『東海タイムズ』1970年4月1日、1面、「憂鬱な季節 もうはじまっている〝市長選〟」。
  33. ^ 稲垣弘一「やぶれ役人半世紀雑抄 (64)」 『東海愛知新聞』1987年9月5日。
  34. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (15) 夜明けを とことん怪文書戦術」 『朝日新聞』1980年11月6日付朝刊、三河版西。
  35. ^ 稲垣弘一「やぶれ役人半世紀雑抄 (65)」 『東海愛知新聞』1987年9月6日。
  36. ^ 稲垣弘一「やぶれ役人半世紀雑抄 (66)」 『東海愛知新聞』1987年9月8日。
  37. ^ 『政経時報』1970年4月20日、1面、「〝政治に論理の筋を通す〟 若い岡崎の会会長 原嶋亮二氏」。
  38. ^ 佐野美和 (2020年4月19日). “灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(97)”. フォーサイト. 新潮社. 2020年6月2日閲覧。
  39. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (23) 中央研修 息子をやっと秘書に 政治評論家に仲介頼む」 『朝日新聞』1980年11月19日付朝刊、三河版西。
  40. ^ 原嶋亮二 『岡崎の未来を拓く 改訂版』 明宏印刷、1970年7月1日、著者略歴。
  41. ^ 『朝日新聞』1987年4月4日、東海総合面。
  42. ^ 『中日新聞』1997年9月27日付朝刊、県内版、18面、「原嶋亮二氏死去」。
  43. ^ 『東海タイムズ』1970年6月11日。
  44. ^ 『三河時報』1970年9月25日。
  45. ^ 『三河時報』1970年10月25日、2面、「四選出馬要請きめる 太田市長を励ます会」。
  46. ^ 『三河時報』1970年11月25日、2面、「岡崎市長選は三つ巴戦か? 太田光二後援会結成へ 内田派『青年の集い』で結集」。
  47. ^ 『東海新聞』1970年12月11日、1面、「太田市長、四選出馬を表明 定例市議会冒頭〝西三河の広域行政推進〟」。
  48. ^ 『愛知新聞』1971年1月1日、1面、「市政刷新へ 内田氏が出馬 太田、原島氏加え激戦」。
  49. ^ 『東海新聞』1970年12月20日、1面、「市長選に太田市長推薦 地区総代会長連協で全員一致」。
  50. ^ 『愛知新聞』1971年1月22日、1面、「市長に内田支持を表明 注目の中野代議士 さかべ後援会発会式で」。
  51. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (14) 横綱 市長選へ着々と布石」 『朝日新聞』1980年11月5日付朝刊、三河版西。
  52. ^ a b c 市政だより おかざき No.223 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 5 (1972年1月1日). 2020年3月5日閲覧。
  53. ^ 『愛知新聞』1971年7月3日、1面、「公務員は私心すてて 鈴木岡崎市新助役 きのう初登庁あいさつ」。
  54. ^ 『中日新聞』1980年6月27日付夕刊、14面、「金権そのもの、内田市長 権力かさ、業者に圧力 工事入札で絶えぬ疑惑」。
  55. ^ 『岡崎市議会史 下巻』岡崎市議会史編纂委員会、1992年10月22日、409-416頁。
  56. ^ a b 『中日新聞』1980年7月2日付朝刊、11版、22面、「内田・前岡崎市長 おごりの市政 (4) 政争の土壌 保身にピリピリ 報復人事で人材の芽つむ」。
  57. ^ 岡崎市議会 昭和55年6月 定例会 06月30日-11号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  58. ^ 『東海新聞』1975年6月27日、「新助役に大郷氏 きょう市議会にはかる」。
  59. ^ 全岡崎知名人士録』 64頁。
  60. ^ 『三河時報』1972年10月25日、「教育長に鈴村正弘氏」。
  61. ^ 『中日新聞』1982年3月25日付朝刊、三河版、15面、「後任に横井氏選任 岡崎市の教育長 あす市議会で同意を求める」。
  62. ^ 岡崎市議会 昭和55年11月 臨時会 11月15日-20号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月26日閲覧。
  63. ^ 『東海愛知新聞』1982年3月25日、1面、「鈴村教育長が辞任 後任に横井城北中校長内定」。
  64. ^ 影山健・岡崎勝編 『草の根教育運動のために』国土社、1983年9月25日、275-277頁
  65. ^ 岡崎市議会 昭和57年3月 定例会 03月26日-05号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  66. ^ 『中日新聞』2000年4月6日付朝刊、西三河版、22面、「鈴村正弘氏死去」。
  67. ^ 『愛知新聞』1975年7月23日、「『理財部』の新設を可決 岡崎市臨時議会 八月から三課一室六部制採用」。
  68. ^ a b c 『朝日新聞』1980年7月1日付朝刊、13版、22面、「無謀の構図 ワンマン市長の失敗 (4) 牛ねんぼ 『甘え』に市民反発 市議選も操った内田」。
  69. ^ 『朝日新聞』1980年8月20日付朝刊、18面、「新市長ざっくばらん 出直し岡崎 (下)」。
  70. ^ a b 『朝日新聞』1980年6月27日付夕刊、11面、「内田市政〝落城の日〟」。
  71. ^ a b 『朝日新聞』1980年6月28日付朝刊、13版、23面、「無謀の構図 ワンマン市長の失敗 (1) 本丸炎上 筒抜けだった買収」。
  72. ^ a b c 『朝日新聞』1980年6月27日付夕刊、10面、「金権無残・・・国会への夢 強引に息子を擁立」。
  73. ^ 『朝日新聞』1980年6月29日付朝刊、22面、「無謀の構図 ワンマン市長の失敗 (2) 父子タカ 期待過剰、親バカに 破れた『政治一家』の夢」。
  74. ^ 東海新聞』1977年1月18日、1面、「浦野前労相が死去 稲垣氏繰り上げ当選」。
  75. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (20) 二人の使者 後継者問題が急浮上 内田派には冷たい反応」 『朝日新聞』1980年11月14日付朝刊、三河版西。
  76. ^ 『新三河タイムス』1977年3月10日、2-3面、「自民の公認が焦点 浦野後継座談会 中野・稲垣に内田市長(岡崎)も加わり乱戦へ 浦野烋興氏近く後継受託?」。
  77. ^ 『新三河タイムス』1977年3月10日、1面、「親族会議も〝後継〟了承 大平幹事長の秘書として地元とのパイプ役 浦野烋興氏 新体制スタート」。
  78. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (21) 考える会 岡崎から出せと熱気 豊田に対抗 代議士の夢」 『朝日新聞』1980年11月15日付朝刊、三河版西。
  79. ^ 『愛知新聞』1977年1月20日、1面、「東海愛知新聞社を設立 社長に内田、副社長に清水氏」。
  80. ^ a b 市政だより おかざき No.386 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 2-7 (1978年10月15日). 2020年3月8日閲覧。
  81. ^ 市政だより おかざき No.304 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 2 (1975年5月15日). 2020年3月5日閲覧。
  82. ^ 岡崎の選挙記録 - 岡崎市議会議員選挙 (PDF)”. 岡崎市役所. 2018年4月8日閲覧。
  83. ^ a b 岡崎市議会 昭和55年6月 定例会 07月02日-12号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  84. ^ 『東海愛知新聞』1979年4月12日、1面、「内田氏、無投票三選へ 岡崎市長選 共産党断念、神谷氏は市議選に」。
  85. ^ 『中日新聞』1980年8月21日付夕刊、D版、夕刊愛知、8面、「市議会は何をしていた! 岡崎前市長の業者とのゆ着 内田の思うまま 市民から厳しい批判」。
  86. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (33) その前夜 危機逃れ絶頂の日々 東海市長会総会に全力」 『朝日新聞』1980年12月4日付朝刊、三河版西。
  87. ^ 朝日新聞』1979年8月21日付朝刊、尾張版、12面、「選挙区夏の陣 (4) 『太田辞退』で波紋 くっきりと自社に明暗」。
  88. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (24) せめぎ合い 太田氏(社)引退で加熱 内田封じに中根派懸命」 『朝日新聞』1980年11月20日付朝刊、三河版西。
  89. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (25) 遠謀深慮 身が入らぬ中野支援 自民の抗争にらむ内田」 『朝日新聞』1980年11月21日付朝刊、三河版西。
  90. ^ 『東海タイムズ』1970年2月11日、「『ケンカ四郎』もこんどは低姿勢」。
  91. ^ 『朝日新聞』1980年7月16日付朝刊、18面、「無謀の構図 内田派・利権屋列伝 (2) 夫婦げんか 寝返り決めた実弾? 選挙後あわてて復縁話」。
  92. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (88) 見舞い 病床へ封筒で十万円」 『朝日新聞』1981年3月28日付朝刊、三河版西。
  93. ^ 『中日新聞』1980年7月31日付朝刊、11版、19面、「内田派違反 安城市議4人を逮捕 票まとめへ金もらう 3人は中野氏派 大見が切り崩し」。
  94. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (27) 新年会 ついに中野氏と決裂 協力の約束即座にほご」 『朝日新聞』1980年11月26日付朝刊、三河版西。
  95. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (28) 額田の密会 『反内田』の結合強める 山の料亭で三人が相談」 『朝日新聞』1980年11月27日付朝刊、三河版西。
  96. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (37) 写真館 帰郷、すぐ整髪し撮影 考える間もなく渦のの中」 『朝日新聞』1980年12月10日付朝刊、三河版西。
  97. ^ 『朝日新聞』1980年8月18日付朝刊、15面、「新市長ざっくばらん 出直し岡崎 (上)」。
  98. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (50) 三派連合 会合、中野氏が膳立て 思惑の違いくっきりと」 『朝日新聞』1981年1月21日付朝刊、三河版西。
  99. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (29) きずく会 〝首〟空白のまま結成 しゃにむに走る長老ら」 『朝日新聞』1980年11月28日付朝刊、三河版西。
  100. ^ 『中日新聞』1980年6月28日付夕刊、「奇妙な領収書すり替え 内田派違反」。
  101. ^ 『東海愛知新聞』1980年5月18日、1面、「岡崎から候補者擁立 『きずく会』自民ク確認 波乱含みの衆院選」。
  102. ^ a b c 『中日新聞』1980年6月30日付朝刊、13版、15面、「工事発注も献金次第 内田・岡崎市長 腐食の構造 土建業者を三ランク 談合助ける価格漏らし」。
  103. ^ 『中日新聞』1980年6月29日付朝刊、11版、22面、「内田・岡崎市長 おごりの市政 (2) 献金に応じ仕事 業界から総代会まで利用」
  104. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (31) 建設業会館 三月、資金調達頼む 『慎重に』と業界にクギ」 『朝日新聞』1980年11月30日付朝刊、三河版西。
  105. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (32) 走る業者 受注実績で割り当て 三ランクに分けて集金」 『朝日新聞』1980年12月3日付朝刊、三河版西。
  106. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (1) 第一議員会館 突然の解散に驚き 内田秘書が最後の務め」 『朝日新聞』1980年10月16日付朝刊、三河版西。
  107. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (2) 人びと 宴席を立ち事務所へ 内田側近の新旧市議長」 『朝日新聞』1980年10月17日付朝刊、三河版西。
  108. ^ 年譜 昭和55年5月”. 公益財団法人大平正芳記念財団. 2020年7月22日閲覧。
  109. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (34) 非常招集 自民クが候補者選び 議員同士のキ裂鮮明に」 『朝日新聞』1980年12月5日付朝刊、三河版西。
  110. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (35) 三県議 『サイ』は投げられた 康宏擁立へ根回し着々」 『朝日新聞』1980年12月6日付朝刊、三河版西。
  111. ^ 『中日新聞』1980年5月18日付朝刊、県内版、三河、11面、「岡崎で保守新人擁立?」。
  112. ^ a b 『中日新聞』1980年8月6日付夕刊、D版、9面、「総代会のトップ呼ぶ 内田派違反 後援会工作を追及」。
  113. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (36) 安倍邸 康宏の相談に『ノー』 政調会長辞意表明の夜」 『朝日新聞』1980年12月7日付朝刊、三河版西。
  114. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (38) 坂道 出馬ムードに加速度 一気に突っ走る後援会」 『朝日新聞』1980年12月11日付朝刊、三河版西。
  115. ^ 『東海愛知新聞』1980年5月20日、1面、「四区は七人の争いか 衆院解散 参院と初の同日選挙」。
  116. ^ a b 『朝日新聞』1980年6月27日付朝刊、1面、「建設工事発注で調達? 買収資金 解散直後手続き急ぐ」。
  117. ^ 『朝日新聞』1980年8月30日付朝刊、「受注ごと20~500万円 カトウ建設 ワイロ工作の全容」。
  118. ^ 岡崎市議会 昭和55年6月 定例会 07月04日-14号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  119. ^ 『朝日新聞』1980年7月16日付朝刊、13版、19面、「落札価格ドンピシャリ 内田派金脈、疑惑の契約 一億円工事で差八万円 県警追及 予定価格を洩らす?」。
  120. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (90) 入札 受注業者は内定済み」 『朝日新聞』1981年4月3日付朝刊、三河版西。
  121. ^ 『朝日新聞』1980年7月4日付朝刊、13版、22面、「内田の金集め 公選法さえ逆手 市長権限フル活用」。
  122. ^ a b 『朝日新聞』1980年8月21日付朝刊、19面、「〝親内田〟筆頭の加藤 矢作北中建設工事 疑惑の焦点だった」。
  123. ^ 『中日新聞』1980年8月28日付朝刊、11版、23面、「社長が贈賄のカトウ建設 工事途中で辞退 岡崎・新矢作中など3件」。
  124. ^ 『東海愛知新聞』1980年5月21日、「内田氏が出馬表明 衆院選挙 『きずく会』の要請で」。
  125. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (53) 水面下 世代間の亀裂深まる 福田派確執浮き彫りに」 『朝日新聞』1981年1月25日付朝刊、三河版西。
  126. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (49) 説得 互いに切り崩し工作 中野派との争い激烈に」 『朝日新聞』1981年1月18日付朝刊、三河版西。
  127. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (43) 父子タカ 安倍の反対耳貸さず その日の夕立候補声明」 『朝日新聞』1980年12月20日付朝刊、三河版西。
  128. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (44) 通報者 刑事に『買収』の証拠 喫茶店内で現金見せる」 『朝日新聞』1980年12月21日付朝刊、三河版西。
  129. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (52) 戻れぬ道 出馬断念の説得ける 『もう決定』一点張りで」 『朝日新聞』1981年1月24日付朝刊、三河版西。
  130. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (71) 戦い前夜 公示日着手は見送り 茶封筒回収 別に白封筒」 『朝日新聞』1981年2月27日付朝刊、三河版西。
  131. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (101) 未明の会見 『予想外』と疲れた顔」 『朝日新聞』1981年4月18日付朝刊、三河版西。
  132. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (40) 取材ノートから 『悲願』を殺し文句に 〝三度目の正直〟で破滅」 『朝日新聞』1980年12月13日付朝刊、三河版西。
  133. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (69) 並ずし ぎりぎりの工作続く 回収を図る内田よそに」 『朝日新聞』1981年2月25日付朝刊、三河版西。
  134. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (30) 事情聴取 内田疑惑に捜査肉薄 三友ニット事件の陰で」 『朝日新聞』1980年11月29日付朝刊、三河版西。
  135. ^ 『中日新聞』1980年8月20日付夕刊、D版、7面、「ワンマン9年 噴出したウミ 内田の汚職摘発」。
  136. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (74) 家族の肖像 街宣の最前線に立つ」 『朝日新聞』1981年3月8日付朝刊、三河版西。
  137. ^ 『新三河タイムス』1980年6月1日、1面、「愛知四区 定数4・有権者76万 岡崎情勢なお流動的 衆院選二日公示 有力七候補が激突」。
  138. ^ 『中日新聞』1980年6月25日付朝刊、11版、23面、「過信と焦りで墓穴 市長先頭に 金権選挙へ暴走」。
  139. ^ a b 『中日新聞』1980年6月21日付朝刊、11版、22面、「〝市長の七光り〟フル活用 愛知四区の岡崎城下 組織、名簿で圧倒」。
  140. ^ 『朝日新聞』1980年7月3日付朝刊、13版、14面、「札束選挙その背景 記者座談会」。
  141. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (57) 怪文書 推薦めぐり中傷合戦 き裂生じた『環衛』業界」 『朝日新聞』1981年1月31日付朝刊、三河版西。
  142. ^ 『市議会だより』1980年6月15日号。
  143. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (55) 青木川 結局500万円受けとる 不審を抱きつつ中根薫」 『朝日新聞』1981年1月29日付朝刊、三河版西。
  144. ^ 服部龍二『大平正芳 理念と外交』岩波書店、2014年4月18日、208頁。ISBN 9784000291293
  145. ^ 岡崎市議会 昭和55年6月 定例会 07月03日-13号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  146. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (86) はがき 公明票ねらい〝奉仕〟」 『朝日新聞』1981年3月26日付朝刊、三河版西。
  147. ^ a b 『中日新聞』1980年6月30日付朝刊、13版、15面、「内田選挙 市役所使い放題 あて名書きに職員20人」。
  148. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (87) 対公明党 町議らに〝札束工作〟」 『朝日新聞』1981年3月27日付朝刊、三河版西。
  149. ^ 小池秀明 (2000年12月). “選挙における公開討論会の今日的意義―市民による公開討論会運動の経験を通して― (PDF)”. 北海道大学. 2020年7月26日閲覧。
  150. ^ 『新三河タイムス』1980年6月18日、1面、「内田(岡崎出身)当選圏へ接近 父・内田喜久市長が政治生命かけて指揮 衆院愛知四区 郷土愛を扇動し邁進」。
  151. ^ a b 『新三河タイムス』1980年6月26日、1面、「内田権力市政崩壊へ イモヅル式に逮捕者増 次点・内田」。
  152. ^ a b 木村伊量「全容 無謀の構図 (91) 6月18日 殺気はらんだ演説会」 『朝日新聞』1981年4月4日付朝刊、三河版西。
  153. ^ 『新三河タイムス』1980年6月21日、1面、「内田体制維持か崩壊か 落選なら与党も分裂へ 内田陣営」。
  154. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (95) 80.85% 『いける』と勢い込む」 『朝日新聞』1981年4月10日付朝刊、三河版西。
  155. ^ 『朝日新聞』1980年6月23日付朝刊、13版、15面、「違反摘発 愛知四区に照準 保守系候補派 市議三十人へ現金?」。
  156. ^ 『中日新聞』1980年6月24日付朝刊、12版、1面、「岡崎市議長ら逮捕 愛知四区 内田派買収で6人」。
  157. ^ 市政だより おかざき No.438 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 8-9 (1980年12月15日). 2020年3月5日閲覧。
  158. ^ 『朝日新聞』1981年6月23日付朝刊、12版、18面、「岡崎落城一年(中) 外堀埋め 市の犯罪徐々に解明 相手方の有罪、次々確定」。
  159. ^ 『朝日新聞』1980年7月11日、1面、「500万円受領・買収謀議の容疑 中根県議を逮捕」。
  160. ^ 『朝日新聞』1980年8月21日付朝刊、19面、「うわさされていた大伸建設」。
  161. ^ 新装版 現代政治の思想と行動 - 丸山眞男 著”. 未來社. 2019年12月30日閲覧。
  162. ^ 丸山眞男 『超国家主義の論理と心理 他八編』 岩波文庫、2015年2月17日、169-172頁。
  163. ^ 丸山眞男 『超国家主義の論理と心理 他八編』 岩波文庫、2015年2月17日、178-179頁。
  164. ^ 『市政だより おかざき』1972年4月1日号。
  165. ^ 新編 岡崎市史 現代 5』 536-547頁。
  166. ^ 市政だより おかざき No.301 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 5 (1975年4月1日). 2020年3月8日閲覧。
  167. ^ 『岡崎市新総合計画』 岡崎市役所、1977年4月、117-120頁。
  168. ^ 市政だより おかざき No.230 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 3 (1972年4月15日). 2020年3月8日閲覧。
  169. ^ 市政だより おかざき No.402 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 8-9 (1979年6月15日). 2020年3月8日閲覧。
  170. ^ 市政だより おかざき No.199 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 2-3 (1971年1月1日). 2020年3月8日閲覧。
  171. ^ 『礎』 岡崎市遺族連合会、1986年7月1日、841頁。
  172. ^ 市政だより おかざき No.250 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 3 (1973年2月15日). 2020年3月8日閲覧。
  173. ^ 『愛知新聞』1973年7月3日。
  174. ^ 市政だより おかざき No.271 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 8-9 (1974年1月1日). 2020年3月8日閲覧。
  175. ^ 市政だより おかざき No.349 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 3 (1977年4月1日). 2020年3月8日閲覧。
  176. ^ 市政だより おかざき No.295 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 6-7 (1975年1月1日). 2020年3月8日閲覧。
  177. ^ 『月報 岡崎の教育』1974年8月号 (PDF)”. 岡崎教育ネットワーク. 2020年2月24日閲覧。
  178. ^ 『愛知新聞』1974年11月6日、1面、「岡崎市初の農業祭 17日 農作物の即売会も」。
  179. ^ 市政だより おかざき No.319 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 8-9 (1976年1月1日). 2020年3月8日閲覧。
  180. ^ 市政だより おかざき No.343 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 8-9 (1977年1月1日). 2020年3月8日閲覧。
  181. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 75頁。
  182. ^ a b 新編 岡崎市史 総集編 20』 513頁。
  183. ^ 市政だより おかざき No.331 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 3 (1976年7月1日). 2020年3月8日閲覧。
  184. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 729頁。
  185. ^ 『岡崎市新総合計画』 岡崎市役所、1977年4月、179-180頁。
  186. ^ 市政だより おかざき No.351 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 18 (1977年5月1日). 2020年3月8日閲覧。
  187. ^ 市政だより おかざき No.364 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 1 (1977年11月15日). 2020年3月8日閲覧。
  188. ^ 市政だより おかざき No.371 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 3 (1978年3月1日). 2020年3月8日閲覧。
  189. ^ 『東海愛知新聞』1978年8月2日、1面、「初の『五万石おどり』 5日夜は第30回花火大会」。
  190. ^ 『東海愛知新聞』1978年8月5日、1面、「九年ぶりほこ舟二隻 菅生河畔 最大のスケール」。
  191. ^ 市政だより おかざき No.390 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 6-7 (1978年12月15日). 2020年3月5日閲覧。
  192. ^ 『東海愛知新聞』1978年9月30日、1面、「岡崎市防災活動の拠点 消防新庁舎きょう完工式」。
  193. ^ 『東海愛知新聞』1978年10月1日、1面、「きょう正午から業務 岡崎市消防新庁舎完工式 「防災の像」など除幕」。
  194. ^ 市政だより おかざき No.363 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 3 (1977年11月1日). 2020年3月8日閲覧。
  195. ^ 市政だより おかざき No.420 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 7 (1980年3月15日). 2020年3月8日閲覧。
  196. ^ 市政だより おかざき No.414 (PDF)”. 岡崎市役所. pp. 6-7 (1979年12月15日). 2020年3月5日閲覧。
  197. ^ 岡崎市議会 昭和55年3月 定例会 03月07日-01号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  198. ^ 『東海愛知新聞』1980年7月30日、2面、「ほこ船『竹千代丸』進水 岡崎の花火大会 殿橋上流に新造船登場」。
  199. ^ 『東海愛知新聞』1980年3月22日、1面、「18億円で岡崎市へ 森永跡地 売買契約を結ぶ」。
  200. ^ 『森永製菓一〇〇年史』 森永製菓、2000年8月15日、年表9頁。
  201. ^ a b 岡崎市議会 平成10年12月 総務常任委員会 12月15日-01号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  202. ^ 岡崎市議会 平成3年6月 定例会 06月13日-15号”. 岡崎市会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
  203. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 515頁。
  204. ^ 『東海愛知新聞』1980年3月30日、2面、「『子供の幸せ考えたい』 秦梨小の女性校長、浅井さん」。
  205. ^ 『東海愛知新聞』1980年4月29日、1面、「活動ぶり詳しく 『岡崎市議会だより』を創刊」。
  206. ^ 市政だより おかざき No.422 (PDF)”. 岡崎市役所. p. 5 (1980年4月15日). 2020年3月8日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『新編 岡崎市史 現代 5』新編岡崎市史編さん委員会、1985年12月28日。
  • 『新編 岡崎市史 史料 現代 11』新編岡崎市史編さん委員会、1983年6月30日。
  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。
  • 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日。
  • 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日。