内田喜久

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内田 喜久
うちだ よしひさ
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生年月日 (1925-01-05) 1925年1月5日(93歳)
出生地 愛知県岩津村井ノ口
出身校 明治大学政治経済学部[1]
所属政党自由民主党→)
無所属

Flag of Okazaki Aichi.JPG 第16-18代 岡崎市長
当選回数 3回
在任期間 1971年5月2日 - 1980年6月30日

選挙区 岡崎市選挙区
当選回数 2回
在任期間 1963年4月30日 - 1971年
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内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年1月5日 - )は、日本政治家新聞記者愛知県岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(2期)を歴任した。「喜久」を音読みして「きく」と読まれることも多い[2]

経歴[編集]

内田が27歳のときに創刊した『愛知新聞』。

愛知県岩津村井ノ口(現・岡崎市井ノ口町字楼)に生まれる[3]。父親の内田松太郎は農業を営んでいた。岩津町立大樹寺尋常小学校卒業後[4]岡崎市三島尋常高等小学校高等科に進む[5]1939年、新三河新聞社に記者見習いとして採用される。新聞社で働きながら定時制の岡崎市立第二商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)に通った[2]。日刊新聞『新三河』は1940年11月1日竹内京治の『岡崎朝報』に統合され『三河新聞』と改称する[6]。一県一紙の国策により1942年7月30日に廃刊となる日まで『三河新聞』の記者を務めた。

1944年10月、召集により満州に送られた。牡丹江省東寧の満州第929部隊に入隊。輓馬の野戦重砲隊に配属される。1945年3月、連合軍本土上陸に備えるため、九十九里浜へ移動。8月、群馬県の駐屯地で終戦を迎えた[7]

1946年明治大学に入学(1952年に同大学政治経済学部卒業)[5][8]1947年4月25日第23回衆議院議員総選挙において岡崎市出身の千賀康治が初当選。「内田には中央のことを勉強させておいた方がいい」という竹内京治のはからいにより千賀の秘書となった。そのかたわら、西三河青年同盟をおこし政治運動ならびに青年運動に情熱を傾ける[9]。西三河青年同盟のメンバーの一人と結婚[10]

愛知新聞を創刊[編集]

1947年8月、仲間とともに岡崎市板屋町で週刊新聞『三河タイムス』を創刊した。1951年初頭、日刊紙への移行を計画し、一般から新紙名を募集。1952年5月10日、株式会社愛知新聞社を市内旧康生町に設立[注 1][注 2]。同年11月1日、『愛知新聞』第1号を発行した[11]。さらには東海放送株式会社を設立し[9]1961年には中部日本都市広告協会を設立した[3]

政治家に転身する前、内田は岡崎市長選挙に二度、選対の参謀として関わっている。1955年の市長選ではかつて秘書として仕えた千賀康治を支援した[15]。千賀は現職の竹内京治に敗れ、翌1956年都電にはねられ死亡した[16]。それを境に旧幡豆郡を地盤にした中垣國男が岡崎に勢力をのばし、中垣に連なる県議の太田光二1959年の市長選に出馬の構えを見せると、内田は竹内の推薦母体である愛市連盟を立ち上げた。竹内は「岡崎が中垣に乗っ取られていいのですか」と内田に詰め寄られ4選出馬を決断したと言われている[17][18]。どちらの選挙でも敗北を喫したが、細かな情報を駆使した内田の選挙手腕は注目を集めた。

1963年4月17日に行われた愛知県議会議員選挙に自由民主党公認で立候補。初出馬ながらトップ当選を果たした。この時、『三河新聞』時代の上司であり東海新聞社社長を務めていた榊原金之助も自民党公認で初当選している。内田は浦野幸男派(宏池会)に属し、榊原は中垣國男派(水曜会)に属した[19]1967年、再選。

市長選に出馬[編集]

1970年春頃には「翌年の市長選は現職の太田光二と内田喜久の一騎打ちの公算が大きい」と報ずる新聞記事がすでに出始めていた[20]。3期勇退を公約に掲げていた太田は、義弟の浅岡齋が県議選出馬の準備をすすめていたこともあり[21]、当初引退の決意が固かったが、後援会幹部らに口説き落とされた。一説には、内田によって配布されたおびただしい中傷ビラの内容に激怒し出馬に踏み切ったとも言われている[22]。前回の市長選で落選した元衆議院議員秘書の原嶋亮二[注 3]も出馬の意向を表明し、6月には太田・内田・原嶋の出馬は公然の事実となった[25][26]10月3日岡崎市議会議長と岡崎商工会議所会頭が発起人として名を連ねた太田の支援者の集会が岡崎市民会館で開かれる。国会議員や大臣代理、近隣市長らが多数招かれた同集会において、次期市長選挙候補に太田を推薦することが採択される[27][28]。太田は12月10日、定例市議会の冒頭で正式に出馬を表明[29][30]12月18日、岡崎市地区総代会長連絡協議会は太田の推薦を決定[31]

当時、岡崎市の北部地域で、岡崎 - 多治見間の国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道)の新設の工法をめぐって、高架か矢作川土手か、国鉄と地元住民が対立していた。建設促進委員長だった市長の太田は国鉄の意を受けて安価な土手方式の採用に傾いていた。衆議院議員の中野四郎1969年衆院選で太田一派の支持を秘密裡にとりつけ得票数2位で勝利を収めていたが、その後大門地区の住民から岡多線に関する陳情を受けていた。岡崎の票を落としたくない中野は内田に「君は高架をやるか」と尋ね、内田が「やります」と答えたことから、1971年1月20日、内田支持を表明した[32]

1971年4月25日に投票が行われ、4期目を狙う太田、原嶋亮二との保守三つどもえの戦いを制し初当選した。同年5月2日、市長就任[33]7月1日、愛知県住宅供給公社専務理事の鈴木弥一郎を助役に選任[34]。太田派職員を部長から引きずり下ろすため、同日、部制を廃止して課長に降格[33][35]。市役所内部の実権を確立すると、1973年4月に部制を復活させた[36]

1975年4月、日本共産党推薦の新人らを破り再選。

同年4月中旬より助役の鈴木弥一郎が病気のため欠勤。鈴木は6月30日の任期満了とともに退任する意志を固めた[37]。後任選びで、鈴村正弘教育長を推す内田と大郷恒夫総務部長を推す議会各派のあいだで意見が対立したが、内田の後援会幹部の根回しにより7月1日、大郷が助役に就任した。内田は対抗策として7月22日に臨時議会を開き、機構改革を断行。理財部を新設してここに財政部門を集中させ、次いで規制を改正して助役から予算の査定権を奪い去った[38][39]

岡崎は1955年を最後に、地元選出の保守系の代議士を持たなかった。保守の代議士が中央の権力と地方とを結ぶ利益誘導のパイプ役であると考える内田にとって、残された夢は国政に打って出ることだった[40]1976年12月、衆議院は解散が行われないまま任期満了により総選挙を迎えた。前回(1972年)の落選から再起をはかる中野四郎は、禅譲をにおわせ内田に接近した。系列としては依然として浦野幸男派(宏池会)に属していたが、内田はこれを期に中野派(福田派)に移った[41][42]。中野は岡崎で1万3千票を増やし、トップで返り咲いた。

1979年4月、無投票で3選[43]。同年6月、愛知県市長会長、東海市長会副会長に就任。

1979年9月7日、衆議院が解散すると、社会党太田一夫議員は引退を表明。これにより岡崎市は地元選出の国会議員を保革ともに失う。内田を選対委員長に引き入れた中野は第35回衆院選で11回目の当選を果たした。明くる1980年1月、内田と中野は決裂[注 4]。内田は次の総選挙を1982年頃と読んで、同年3月25日、「岡崎から代議士を」の掛け声のもと政治団体「明日の岡崎をきずく会」を設立[45][46]。ところが同年5月16日第2次大平内閣に対する内閣不信任決議が可決し、5月19日大平正芳は衆議院を解散した。同日、「明日の岡崎をきずく会」は内田の長男の内田康宏衆院選への出馬を要請[47][注 5]6月22日に行われた総選挙で、長男の康宏は旧愛知4区から無所属で立候補するも次点で落選。翌日、同選挙に関し公職選挙法違反の容疑で岡崎市議6名が逮捕されたのち、6月27日に内田も同容疑で逮捕され、6月30日、市長を辞職した[48]

市政[編集]

「緑と太陽の福祉文化都市」[注 6]をスローガンに掲げた内田市政は、社会福祉部門の充実を施策の中心に据え、都市の緑化と保育園の新設・公営化を推し進めたことで知られる[50][51]。また宅地造成にも尽力し、在職中に開始した土地区画整理事業は市施行と組合施行を合わせ計15に及んだ[注 7]。主な業績は次のとおりである。

1971年 11月9日広島県福山市と親善都市提携を結ぶ。
1972年 4月1日、寝たきり老人の65歳以上の医療費を無料化[1]7月16日南公園に市民プールが完成。7月19日、第1回岡崎市戦没者及び戦災死者追悼式を開催[55]7月20日、「市政だより子ども版 おかざきっ子」を創刊。
1973年 4月1日、0歳児の医療費を無料化[56]7月1日、市制施行記念日にあわせ「緑化推進都市宣言」を発表。緑化センターが上里町字河原畑(現・上里1丁目)にオープン[57]。7月1日、心身障害者の医療費助成を開始。8月1日、ごみの市内全域収集を開始。8月17日、第1回中学生子ども議会(現・生徒市議会)を開催[36]
1974年 5月、第1回岡崎こどもまつりを開催[58]5月10日、岡崎市総合福祉センター(現・岡崎市福祉の村)を開設。6月2日中央緑道が完工[59]8月18日、岡崎教育文化大学(現・岡崎市民大学)開講[60][注 8]11月17日、第1回岡崎市農業祭を開催[61]
1975年 3月22日、公募により市の鳥「ハクセキレイ」を選定。また市民の花にツツジなど16種を選定。4月3日岡崎市立緑丘小学校が開校。4月22日明大寺町愛知教育大学跡地に分子科学研究所が設立される。8月5日、移動図書館みどり号がスタート[62]
1976年 4月3日岡崎市立大門小学校岡崎市立竜美丘小学校が開校[63]4月4日、「ミスさくらコンテスト」発表会を開催[64]5月24日、施設老朽化のため火葬場を稲熊町字宮下より才栗町に移転。岡崎市斎場が竣工[65][66]7月1日岡崎市体育館がオープン。市民憲章を制定[注 9]9月30日太陽緑道が完工。10月31日、第1回岡崎市身体障害者体育大会を開催。
1977年 4月1日、新編岡崎市史編さん事業が開始される[68]4月4日岡崎市立城南小学校が開校。4月、岡崎市新総合計画を策定[注 10]5月2日、分子科学研究所に続いて基礎生物学研究所生理学研究所が設立される[66]5月10日岡崎市少年自然の家が完工[70]11月8日市立岡崎病院の新館が完工[71]
1978年 4月1日、岡崎市福祉会館・緑の家がオープン[注 11]。8月、岡崎観光夏まつりの催しの一つとして「岡崎五万石おどり」「五万石太鼓」を創設した[73]花火大会においては鉾船「菅生丸」を新造し、古くなった「天王丸」も船体を作り変えた[74]7月9日、美矢井橋公園運動場がオープン[75]9月30日岡崎市消防本部の新庁舎が完工[76][77]11月4日、第1回岡崎まつりを開催[78]
1979年 4月29日、児童福祉施設「太陽の城」が完工。6月、岡崎城家康館建設整備委員会が発足[注 12]11月15日、第1回岡崎市老人クラブゲートボール大会開催[81]
1980年 3月1日岡崎市竜美丘会館がオープン。3月7日、花火大会に浮かべる鉾船をさらに一隻新造することを市議会で発表した[82][注 13]3月21日、市内羽根町森永製菓岡崎工場の跡地につき森永と売買契約を結ぶ[84][注 14][注 15]4月1日、西三河で初の女性校長誕生[89][90]4月28日、「市議会だより」創刊号を発行[91]5月2日南公園に遊園地を設置[92]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 内田は愛知新聞社設立にあたり、千賀康治のおいの千賀次良から経済的支援を受けた[11]。千賀次良は1965年10月2日に病死するまで愛知新聞社の取締役会長を務めた[12]
  2. ^ 1957年11月15日戦後復興事業完成に伴う町名変更が実施された。旧康生町はこのとき康生町康生通東1・2丁目、康生通西1~4丁目、康生通南1~3丁目に分かれた[13][14]
  3. ^ 原嶋亮二は1930年、岡崎市籠田町に生まれた。父親は市議の原嶋久太郎[23]。大学卒業後、小林錡旧愛知4区)の秘書となる。小林が1960年に亡くなると藤原あきの後援会事務局長に就任し、藤原の参院選全国区トップ当選を導いた。その後、藤原あきの従兄弟の藤山愛一郎旧神奈川1区)の秘書などを務めた[24][8]
  4. ^ 1980年1月7日、内田が中野四郎に4期目の市長選に出馬したい意向を伝えると、中野は「君は太田光二4選に反対して立った身ではないか。4選反対の趣旨に賛成したからこそ君に手を貸した私としては、君の4選を認めるわけにはいかない」と反駁した[44]。ほどなくして中野は、中根鎭夫と柴田尚道の両県議を額田町(現・岡崎市中金町)の料理屋に呼び出す。このときに中根鎭夫の次期市長当選の布石は打たれた。中野は中根に向かって告げた。「君が市長をやれ」。
  5. ^ 仲谷義明愛知県知事は3度にわたり内田に長男康宏の擁立を思いとどまるよう助言。当時康宏の雇い主だった安倍晋太郎も本人に「福田派の中で波風を立てるようなことはやめてほしい。見送れないか」と伝えたが、陣営は無理を押して買収工作の道を突き進んだ[41]
  6. ^ スローガン「緑と太陽の福祉文化都市」を最初に公の場で発表したのは1972年の3月議会(3月7日~3月28日)において[49]
  7. ^ 内田が在職中に開始した土地区画整理事業の内訳は以下のとおり。市施行は岡崎駅西地区、岡崎駅前・駅東の2つ。組合施行は若松、柱、八帖、上地第一特定、上地第二特定、羽根、東阿知和、中島、広田、城南、緑丘、宇頭南、美合の13[52][53][54]
  8. ^ 岡崎教育文化大学は翌年の第2回から「岡崎市民大学」に改称された。1951年に学校教育課が開設した講座「中央公民館活動」を前身とする。
  9. ^ 市民憲章制定委員会の委員長は愛知学芸大学初代学長の内藤卯三郎[67]
  10. ^ 「岡崎市新総合計画」は3年半の歳月をかけて策定された。岡崎市総合計画審議会が中心となり、計7回に及ぶ市民への説明会を経てまとめられた。同審議会の会長は元愛知教育大学長の伊藤郷平[69]
  11. ^ 住所は岡崎市朝日町3丁目17。3階建て、延べ849.88平方メートルの建物に、岡崎市社会福祉協議会事務局と母子福祉センターが置かれた[72]。「岡崎市福祉会館・緑の家」と名付けられたこの建物には、現在、一般社団法人岡崎パブリックサービスが入っている。
  12. ^ 内田はかねてより岡崎公園内に博物館を建設する構想を抱いていたが、1977年8月に創立40周年を迎えたトヨタ自動車が記念事業の一環として岡崎市に5,000万円を寄附。これを基金とすることが決まり、1979年度より家康館建設事業が具体化した[79][80]
  13. ^ 3隻目となった鉾船「竹千代丸」は全額市費で860万円かけて製作された。1980年7月29日に進水式が行われ[83]、同年8月2日の花火大会でデビューを飾った。
  14. ^ 森永製菓岡崎工場は、1918年7月に岡崎市旧康生町に設立された東海製菓株式会社を前身とする。東海製菓は一時は市内3工場のほか名古屋工場、小山工場(栃木県)、下関工場、大府練乳工場を持ち日本有数の洋菓子製造会社であったが、1942年10月1日に森永製菓株式会社に合併された[85]。市は岡崎市土地開発公社を通じて、2万3,501平方メートルの工場跡地を、建物解体費を差し引いた18億円で購入した[86]。岡崎工場は売買契約が結ばれてから半年後の1980年9月30日に閉鎖された。
  15. ^ 岡崎市が取得した森永製菓岡崎工場の跡地は1981年7月から市の総合現業事務所、倉庫および資料収納庫として使用された[87][88]。現在は岡崎市シビックセンターが建っている。

出典[編集]

  1. ^ a b 日本の歴代市長 第二巻』 464頁。
  2. ^ a b 東海愛知新聞』2015年6月2日【特集号】、2面、「内田喜久氏に聞く 振り返る70年」。
  3. ^ a b 全岡崎知名人士録』 50頁。
  4. ^ 『愛知新聞』1963年4月11日。
  5. ^ a b 『愛知新聞』1962年10月14日、2面、「連尺学区うちだ後援会発足 浦野代議士、太田市長も出席」。
  6. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 499頁。
  7. ^ 『市政だより おかざき』1980年3月1日号、「市長随想」。
  8. ^ a b 中日新聞』1971年4月17日付朝刊、三河版、9面、「岡崎市長選 横顔と公約」。
  9. ^ a b 内田喜久 『欧米見たまゝ』 愛知新聞社、1970年4月1日、著者略歴。
  10. ^ 福岡寿一編 『めおと善哉』 東海タイムズ社1958年8月5日、86頁。
  11. ^ a b 『愛知新聞』1957年10月13日、2面。
  12. ^ 『愛知新聞』1965年10月3日、「本社会長 千賀次良氏」。
  13. ^ 『愛知新聞』1957年10月17日、1面、「町名改正、来月15日から施行 名実共に戦災復興総仕上げ」。
  14. ^ 新編 岡崎市史 史料 現代 11』 98頁。
  15. ^ 榊原金之助ほか著、福岡寿一編 『続・三河現代史』 東海タイムズ社、1961年4月1日、137頁。
  16. ^ 『東海新聞』1956年2月25日、1面、「千賀元代議士東京で急逝 都電に刎られきのう朝死去さる」。
  17. ^ 『東海タイムズ』1966年3月1日。
  18. ^ 『愛知新聞』1958年10月22日、1面、「竹内岡崎市長に推薦申入れ 愛市連盟準備委で会長に小柳氏」。
  19. ^ 福岡寿一編 『三河現代読本』 東海タイムズ社、1962年10月1日、39頁。
  20. ^ 『東海タイムズ』1970年4月1日、1面、「憂鬱な季節 もうはじまっている〝市長選〟」。
  21. ^ 『東海愛知新聞』1987年9月5日。
  22. ^ 『東海愛知新聞』1987年9月6日、9月8日。
  23. ^ 『東海タイムズ』1959年4月6日。
  24. ^ 原嶋亮二 『岡崎の未来を拓く 改訂版』 明宏印刷、1970年7月1日、著者略歴。
  25. ^ 『東海タイムズ』1970年6月11日。
  26. ^ 『三河時報』1970年9月25日。
  27. ^ 『三河時報』1970年10月25日、2面、「四選出馬要請きめる 太田市長を励ます会」。
  28. ^ 『三河時報』1970年11月25日、2面、「岡崎市長選は三つ巴戦か? 太田光二後援会結成へ 内田派『青年の集い』で結集」。
  29. ^ 『東海新聞』1970年12月11日、1面、「太田市長、四選出馬を表明 定例市議会冒頭〝西三河の広域行政推進〟」。
  30. ^ 『愛知新聞』1971年1月1日、1面、「市政刷新へ 内田氏が出馬 太田、原島氏加え激戦」。
  31. ^ 『東海新聞』1970年12月20日、1面、「市長選に太田市長推薦 地区総代会長連協で全員一致」。
  32. ^ 『愛知新聞』1971年1月22日、1面、「市長に内田支持を表明 注目の中野代議士 さかべ後援会発会式で」。
  33. ^ a b 『市政だより おかざき』1972年1月1日号。
  34. ^ 『愛知新聞』1971年7月3日、1面、「公務員は私心すてて 鈴木岡崎市新助役 きのう初登庁あいさつ」。
  35. ^ 『中日新聞』1980年6月27日付夕刊、14面。
  36. ^ a b 『市政だより おかざき』1974年1月1日号。
  37. ^ 『東海新聞』1975年6月27日、「新助役に大郷氏 きょう市議会にはかる」。
  38. ^ 『愛知新聞』1975年7月23日、「『理財部』の新設を可決 岡崎市臨時議会 八月から三課一室六部制採用」。
  39. ^ 朝日新聞』1980年7月1日付朝刊。
  40. ^ 『朝日新聞』1980年6月27日付夕刊、10面。
  41. ^ a b 『朝日新聞』1980年6月27日付夕刊、11面。
  42. ^ 『朝日新聞』1980年6月29日付朝刊。
  43. ^ 『東海愛知新聞』1979年4月12日、1面、「内田氏、無投票三選へ 岡崎市長選 共産党断念、神谷氏は市議選に」。
  44. ^ 福岡寿一 『続・続風塵』 東海タイムズ社、1982年7月1日、100頁。
  45. ^ 中日新聞』1980年6月29日。
  46. ^ 『東海愛知新聞』1980年5月18日、1面、「岡崎から候補者擁立 『きずく会』自民ク確認 波乱含みの衆院選」。
  47. ^ 『東海愛知新聞』1980年5月20日、1面、「四区は七人の争いか 衆院解散 参院と初の同日選挙」。
  48. ^ 『市政だより おかざき』1980年12月15日号。
  49. ^ 『市政だより おかざき』1972年4月1日号。
  50. ^ 新編 岡崎市史 現代 5』 536-547頁。
  51. ^ 『市政だより おかざき』1975年4月1日号、「市長随想」。
  52. ^ 『岡崎市新総合計画』 岡崎市役所、1977年4月、117-120頁。
  53. ^ 『市政だより おかざき』1972年4月15日号。
  54. ^ 『市政だより おかざき』1979年6月15日号。
  55. ^ 『礎』 岡崎市遺族連合会、1986年7月1日、841頁。
  56. ^ 『市政だより おかざき』1973年2月15日号。
  57. ^ 『愛知新聞』1973年7月3日。
  58. ^ 『市政だより おかざき』1977年4月1日号、「市長随想」。
  59. ^ 『市政だより おかざき』1975年1月1日号。
  60. ^ 『月報 岡崎の教育』1974年8月号
  61. ^ 『愛知新聞』1974年11月6日、1面、「岡崎市初の農業祭 17日 農作物の即売会も」。
  62. ^ 『市政だより おかざき』1976年1月1日号。
  63. ^ 『市政だより おかざき』1977年1月1日号。
  64. ^ 『市政だより おかざき』1976年2月15日号。
  65. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 75頁。
  66. ^ a b 新編 岡崎市史 総集編 20』 513頁。
  67. ^ 『市政だより おかざき』1976年7月1日号、「市長随想」。
  68. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 729頁。
  69. ^ 『岡崎市新総合計画』 岡崎市役所、1977年4月、179-180頁。
  70. ^ 『市政だより おかざき』1977年5月1日号。
  71. ^ 『市政だより おかざき』1978年1月1日号。
  72. ^ 『市政だより おかざき』1978年3月1日号。
  73. ^ 『東海愛知新聞』1978年8月2日、1面、「初の『五万石おどり』 5日夜は第30回花火大会」。
  74. ^ 『東海愛知新聞』1978年8月5日、1面、「九年ぶりほこ舟二隻 菅生河畔 最大のスケール」。
  75. ^ 『市政だより おかざき』1978年12月15日号。
  76. ^ 『東海愛知新聞』1978年9月30日、1面、「岡崎市防災活動の拠点 消防新庁舎きょう完工式」。
  77. ^ 『東海愛知新聞』1978年10月1日、1面、「きょう正午から業務 岡崎市消防新庁舎完工式 「防災の像」など除幕」。
  78. ^ 『市政だより おかざき』1978年10月15日号。
  79. ^ 『市政だより おかざき』1977年11月1日号、「市長随想」。
  80. ^ 『市政だより おかざき』1980年3月15日号。
  81. ^ 『市政だより おかざき』1979年12月15日号。
  82. ^ 岡崎市議会議事録 昭和55年3月定例会 - 03月07日 - 01号。
  83. ^ 『東海愛知新聞』1980年7月30日、2面、「ほこ船『竹千代丸』進水 岡崎の花火大会 殿橋上流に新造船登場」。
  84. ^ 『東海愛知新聞』1980年3月22日、1面、「18億円で岡崎市へ 森永跡地 売買契約を結ぶ」。
  85. ^ 『森永製菓一〇〇年史』 森永製菓、2000年8月15日、年表9頁。
  86. ^ 岡崎市議会議事録 平成10年12月総務常任委員会 - 12月15日 - 01号。
  87. ^ 岡崎市議会議事録 平成3年6月定例会 - 06月13日 - 15号。
  88. ^ 岡崎市議会議事録 平成10年12月総務常任委員会 - 12月15日 - 01号。
  89. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 515頁。
  90. ^ 『東海愛知新聞』1980年3月30日、2面、「『子供の幸せ考えたい』 秦梨小の女性校長、浅井さん」。
  91. ^ 『東海愛知新聞』1980年4月29日、1面、「活動ぶり詳しく 『岡崎市議会だより』を創刊」。
  92. ^ 『市政だより おかざき』1980年4月15日号。

参考文献[編集]

  • 『新編 岡崎市史 現代 5』 新編岡崎市史編さん委員会、1985年12月28日
  • 『新編 岡崎市史 史料 現代 11』 新編岡崎市史編さん委員会、1983年6月30日
  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』 新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日
  • 『日本の歴代市長 第二巻』 歴代知事編纂会、1984年11月10日
  • 宮川倫山編 『全岡崎知名人士録』 東海新聞社、1962年6月1日