内田一臣

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内田 一臣
生誕 1915年6月8日
日本の旗 日本 岡山県
死没 (2001-07-05) 2001年7月5日(86歳没)
日本の旗 日本 埼玉県 所沢市
所属組織 Naval Ensign of Japan.svg 大日本帝国海軍
No image available.svg海上警備隊
Flag of Coastal Safety Force of Japan 2012-03-04.jpg 警備隊
Naval Ensign of Japan.svg 海上自衛隊
軍歴 1936 - 1945(日本海軍)
1952 - 1954(警備隊)
1954 - 1972(海自)
最終階級 OF-3 - Kaigun Shosa (collar).gif 海軍少佐(日本海軍)
JMSDF Admiral insignia (a).svg 海上幕僚長たる海将(海自)
除隊後 防衛研修所戦史部調査員
財団法人水交会会長
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内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年大正4年)6月8日 - 2001年平成13年)7月5日)は、日本海軍軍人及び海上自衛官海軍兵学校卒業(第63期)。第8代海上幕僚長

略歴[編集]

岡山県出身。旧制津山中学を経て海軍兵学校に入校。1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生として遠洋航海に参加し、アメリカ合衆国各地を巡った。1937年昭和12年)8月、軽巡洋艦川内」乗組みだった海軍少尉時代に第二次上海事変を迎える。同艦の乗員で急遽編成された臨時の陸戦隊小隊長として参加し、1ヶ月間に及ぶ戦闘に従事した。その際、中華民国陸軍師団本部を殲滅し師団長を戦死させた。この功績により金鵄勲章を授与される。太平洋戦争では戦艦大和」乗組みとなり、ミッドウェー海戦に参加。砲術関係に進むも海戦で1発の砲弾を撃つこともなく横須賀海軍砲術学校で終戦を迎えた。戦後は復員業務に従事したのち、岡山の実家に戻り農業を営むが、自分には向かないと考え、新制中学校英語教師に応募した。しかし、採用が決まった1週間目に新しく発足した海上自衛隊の前身である海上警備隊の採用試験を受けないかと海軍時代の先輩の誘われた。考えた末、再び海の上で生活したいと思い、せっかく採用された教師の職を捨て入隊した。しかし、再び海に出たくて入隊した海上警備隊での配置は砲術の教官であった。その後は戦後初の国産潜水艦建造計画に関わり、また、戦後初の国産護衛艦の建造にも参画した。1962年(昭和37年)4月からアメリカ合衆国海軍大学校に留学した。帰国後は第3護衛隊群司令、海上幕僚監部防衛部長、護衛艦隊司令官等の要職を歴任し、第8代海上幕僚長に就任。海幕長在任中は、第4次防衛力整備計画の策定において海上自衛隊が要望する水上装備の整備が認められず、当時の防衛庁長官中曽根康弘を相手に最後まで必要性を説得し、次期防衛力整備計画から正式に取り上げられた。

海上自衛隊を退官後は、防衛研修所戦史部調査員として勤務し、戦史の編纂・研究に従事。公刊戦史「大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯」を執筆した。

内田ドクトリン[編集]

1981年(昭和56年)2月、就任したばかりのロナルド・レーガン大統領の高官としてリチャード・アーミテージ国防次官補代理が来日した。当時防衛庁出向していた岡崎久彦国際問題担当参事官、外務省の丹波実安安全保障課長、自民党椎名素夫政調副会長ジェームズ・アワーの友人である木村英雄らと会同した。この席上において木村は海上自衛隊とアメリカ海軍の役割分担、すなわち日本が掃海対潜水艦戦を担い、アメリカは空母戦闘群(現・空母打撃群)を主体として攻撃能力を提供しあう体制を整えることにより、ソビエト連邦軍の脅威に対抗しようという案を伝えた。

これは内田以来の歴代海上幕僚長達が論理的に導き出した構想であった。ただし、以前から京都大学高坂正堯教授は、領海を警備するだけならば海上保安庁に任せ海上自衛隊は不要ではないか、海上自衛隊は何を目指しているのか解らないと述べており、海上自衛隊の日米安保への積極的役割を期待する考えも民間にはあった。

戦後日本における海上自衛隊の役割を突き詰めた結果がこのような日米役割分担論である。木村はこれを内田ドクトリンと呼んだ。

年譜[編集]

栄典[編集]

  • 金鵄勲章 - 1937年(昭和12年)
  • JPN Zuiho-sho (WW2) 2Class BAR.svg 勲二等瑞宝章 - 1985年(昭和60年)11月3日

脚注[編集]

  1. ^ 昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 第99号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072800 
  2. ^ 昭和13年3月29日 海軍辞令公報(部内限)号外第157号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073600 
  3. ^ 昭和13年11月5日 海軍辞令公報(部内限)号外第257号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  4. ^ 昭和13年11月15日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  5. ^ 昭和14年5月15日 海軍辞令公報(部内限)第335号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075700 
  6. ^ 昭和14年12月18日 海軍辞令公報(部内限)第418号(防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072077200 
  7. ^ 昭和15年11月15日 海軍辞令公報(部内限)第554号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400 
  8. ^ 昭和16年9月1日 海軍辞令公報(部内限)第701号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
  9. ^ 昭和17年1月19日 海軍辞令公報(部内限)第796号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083900 
  10. ^ 昭和18年6月15日 海軍辞令公報(部内限)第1147号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091600 
  11. ^ 昭和19年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第1447号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072097800 
  12. ^ 昭和19年6月20日 海軍辞令公報(部内限)第1516号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072099500 
  13. ^ 昭和19年8月28日 海軍辞令公報 甲 第1577号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100700 
  14. ^ 昭和20年7月19日 海軍辞令公報 甲 第1861号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072106200 
  15. ^ 昭和20年9月19日 海軍辞令公報 甲 第1920号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072134600 
  16. ^ 昭和20年11月17日 海軍辞令公報 甲 第1985号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072143500 
  17. ^ 昭和21年5月10日 第二復員省辞令公報 甲 第128号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072159100 
  18. ^ 昭和21年4月12日 第二復員省辞令公報 甲 第105号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072158900 
  19. ^ 『官報』号外第132号(昭和60年11月5日)
  20. ^ 『官報』本紙第3177号(平成13年8月13日)

参考文献[編集]