兵藤一也
| ||||
---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||
本名 |
兵藤 一也 ひょうどう かずや | |||
愛称 | カズヤ | |||
生年月日 | 1978年4月27日(46歳) | |||
国籍 | 日本 | |||
身長 | 172cm | |||
体重 | 78kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | 日本競輪選手会群馬支部 | |||
期別 | 82期 | |||
脚質 | 追込 | |||
登録地変遷 | ||||
1999-2023 | 群馬 | |||
業績 | ||||
S級S班 | 2008, 2011 | |||
特別競輪勝利 | 共同通信社杯競輪 2005 | |||
■最終更新日:2023年12月16日 ■テンプレートを表示 |
兵藤 一也(ひょうどう かずや、1978年4月27日 - )は群馬県出身の元競輪選手。現役時代は日本競輪選手会群馬支部所属。日本競輪学校第82期卒業。師匠は父親で元競輪選手(32期)の兵藤信雄。
経歴
[編集]佐野日本大学高等学校を経て日本競輪学校に第82期生として入学。同期には荒井崇博らがいる。在校成績7位で卒業すると1999年4月17日に宇都宮競輪場でデビューし同日初勝利を含む完全優勝を果たす。
デビューしてから2年後の2001年8月に開催されたふるさとダービー(富山競輪場)で決勝へと駒を進める(8着)。その後、2004年の共同通信社杯競輪(3着)、翌2005年の東日本王座決定戦(3着)でも決勝に駒を進めた。同年10月、松山競輪場で開催された共同通信社杯競輪決勝では、山崎芳仁-佐藤慎太郎の福島勢の3番手につけ、直線で同大会連覇目前の佐藤をゴール前、8分の1輪差交わして優勝した。
2006年以降はGIでも決勝へと進出するケースが増え、2006年は高松宮記念杯競輪(3着)、全日本選抜競輪(7着)、翌2007年は日本選手権競輪(2着)、全日本選抜競輪(4着)という実績を残しKEIRINグランプリへの出場を決定させ、同年12月27日より新たに実施されることになったS級S班18名にも選出された。
上記の実績からGIタイトルを掴むところまでこぎつけていたものの、その後は実績が伸び悩んでいたが、2010年は高松宮記念杯競輪の決勝で3着に入ったことから年間獲得賞金額上位となり、S級S班の選出基準となる上位18人枠を争っていたが、選考期限にあたる競輪祭最終日の特別優秀競走で1着に入ったことにより最後の18人目として滑り込み、2011年のS級S班として返り咲いた。
2020年10月10日の防府競輪場でのレース(FIスポニチ金杯争奪戦、2日目S級選抜)で落車し[1]、そこから3年余りの間欠場が続いたが、結局復帰を果たせぬまま2023年12月14日付で選手登録消除。通算1696戦307勝、優勝35回[2]。
競走スタイル
[編集]デビューしてから一貫して追い込みを身上としてきた選手であるが、デビューしてから4-5年目あたりまでは時折、鋭い捲りも放っていたこともあった。しかしその後は自力で競走するケースはほとんど見られず、時折見せる厳しい位置取りなど、マーク選手としての板がすっかり身についてきた。
エピソード
[編集]2006年の寬仁親王牌での2日目、最終コーナーで相互接触による車体故障を生じさせた後、ゴール直前で外側から内側へゆっくり蛇行した後にゴールせず落車したが、審判から敢闘義務違反と見咎められ失格となり、後の裁定で短期の斡旋停止に処せられたことがある。
脚注
[編集]- ^ “【選手登録消除】元S級S班の兵藤一也 JKA公示”. 競輪ニュース - netkeirin (2023年12月16日). 2023年12月16日閲覧。
- ^ “兵藤一也が引退 05年に共同通信社杯制す”. Sponichi Annex (2023年12月15日). 2023年12月16日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手通算成績 - KEIRIN.JP