兵庫県立夢野台高等学校

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兵庫県立夢野台高等学校
現校舎玄関部分
現校舎玄関部分
過去の名称 兵庫縣立第二神戸高等女學校
兵庫県立第二神戸女子高等学校
兵庫県立夢野台高等学校(第一次)
兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校
兵庫県立神戸夢野台高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 兵庫県の旗 兵庫県
学区 第1学区
併合学校 神戸市立神戸高等学校
設立年月日 1925年3月12日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 28104C
所在地 653-0801
兵庫県神戸市長田区房王寺町二丁目1番1号
外部リンク 公式サイト
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兵庫県立夢野台高等学校(ひょうごけんりつ ゆめのだいこうとうがっこう、英称:Hyogo Prefectural Yumenodai High School)は、兵庫県神戸市長田区房王寺町二丁目にある県立高等学校

概要[編集]

一般的に「夢高」(ゆめこう)、または「夢野」(ゆめの)と略される。前身は兵庫県立第二神戸高等女学校(ひょうごけんりつ だいにこうべ こうとうじょがっこう)。

沿革[編集]

高等女学校時代
  • 1925年(大正14年)
    • 3月12日 - 「兵庫縣立第二神戸高等女學校」が設立される(入学資格を尋常小学校卒業程度の12歳以上、修業年限を5年とする)。
    • 4月1日 - 兵庫縣立第一神戸高等女學校(現・神戸高校、略称:県一)の校舎にて開校。
    • 4月4日 - 授業を開始[1]
  • 1927年(昭和2年)8月28日 - 現在地[2] に移転[3]
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令により、この年の入学生から修業年限が4年となる。
  • 1944年(昭和19年)4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年の施行が1946年(昭和16年)以降に入学した生徒に前倒しして適用される。
  • 1945年(昭和20年)
    • 3月 - 修業年限4年施行の前倒しにより、1940年(昭和15年)に入学した5年生と1946年(昭和16年)に入学した4年生の合同卒業式を挙行。
    • 4月1日 - 授業を停止。ただし学徒勤労動員は継続。
    • 8月15日 - 終戦。
    • 9月 - 授業を再開。
    • 10月15日 - 兵庫縣立第一神戸高等女學校が本校内に同居。
  • 1946年(昭和21年)
    • 4月1日 - 修業年限が5年に戻る。
    • 12月23日 - 兵庫縣立第一神戸高等女學校の移転により、併設を解消。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制実施)が行われる。
    • 高等女学校の生徒募集を停止(1年生不在)。
    • 新制中学校を併設し(名称:兵庫県立第二高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
    • 併設中学校は、経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
    • 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、4・5年生となった(4年で卒業することもできた)。
新制高等学校
  • 1948年(昭和23年)
    • 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校兵庫県立第二神戸女子高等学校」(女子校)が発足。
      • 高等女学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
      • 併設中学校は新制高校に継承され(名称:兵庫県立第二神戸女子高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
    • 5月25日 - 神戸市立神戸高等学校(男子校、旧・神戸市立第一中学校)が併設される。
    • 9月1日 - 高校三原則による兵庫県内公立高校の再編が行われる。
      • 神戸市立神戸高等学校が併設された状態で、兵庫県立第二神戸女子高等学校が「兵庫県立夢野台高等学校」に改称され、男女共学を開始。
      • 併設中学校は兵庫県立夢野台高等学校併設中学校と改称。
  • 1949年(昭和24年)
    • 3月31日 - 併設中学校を廃止。旧制中等教育学校4・5年から新制高等学校(全日制)3年への修業年限の移行が完了する。
    • 4月 - 小学区制強行により、県立・市立の振り分けが混乱する。
    • 9月 - 神戸市立神戸高等学校の廃校が決定し、1年生全員を夢野台高等学校に移籍。翌年以降の生徒募集も停止される。
  • 1950年(昭和25年)7月1日 - 兵庫県立夢野台高等学校と神戸市立神戸高等学校が統合され、「兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校」が発足。
  • 1951年(昭和26年)
    • 3月 - 神戸市立側に在籍する最後の学年が卒業。
    • 4月1日 - 県立単独校に戻り「兵庫県立神戸夢野台高等学校」と改称。
  • 1952年(昭和27年)
    • 1月 - 学区の改編(中学区制)により、神戸第二学区となる。
    • 2月7日 - 「兵庫県立夢野台高等学校」()と改称。
    • 10月 - 校歌を制定。
  • 1974年(昭和49年)5月1日 - 兵庫県立御影高等学校との定期戦を開始。
  • 1993年(平成5年)11月5日 - 第1期校舎改築工事を着工。
  • 1995年(平成7年)10月30日 - 南館本館棟が完成。
  • 1998年(平成10年)
    • 2月19日 - 体育館と文化部室棟が完成。
    • 3月17日 - 北館特別教室棟が完成。
  • 1999年(平成11年)
  • 2000年(平成12年)3月25日 - 運動場整備工事完成。
  • 2010年(平成22年)4月1日 - 「教職」類型設置。

特色[編集]

  • 主な進路は、私立ではいわゆる関関同立への進学者数が多い(特に関西学院大学・関西大学への進学者が同志社大学・立命館大学に比べると多い)。その他、産近甲龍(特に甲南大学、近畿大学)、武庫川女子、大阪経済大なども少なくない。国公立は大阪市立大学、大阪府立大学、兵庫教育大学、岡山大学、徳島大学、兵庫県立大学、神戸市立外大など。神戸大学・大阪大学への進学者は少なく、毎年数名程度。
  • 芸術・芸能系で活躍している有名人が多い。
  • 校章は蔦の葉を型取っただけのシンプルなデザイン。一般的な「高」の文字などは一切入っていない。県二の蔦と市立第一中校章の逆三角形を組み合わせて作られた。
  • 学年章(Y10から使用)はカタカナの「ユ」をかたどっただけのデザイン。背色が白・赤・青の3種類。
  • 兵庫県立御影高等学校と毎年、定期戦での交流を行っている。御影高校の前身が「県三」のため、当校とは旧高等女学校同士の関係にある。兵庫県立高等女学校の歴史だけを純粋に引き継いでいるのは、神戸市内ではこの2校のみである。
  • 空手道部が全国的に知られている。
  • 同窓会組織は社団法人親蔦会(しんちょうかい)。
  • 卒業生は県二時代、併設中学校時代、現高校時代とに分かれて第1回生卒業から何年目かを示す数字で示される。県二時代では「女~」または「K~」、併設中学校時代は「併~」、現高校時代は「高~」または「Y~」と略記されるのが一般的(例:「女14」「高25」「Y36」)。
  • 「夢野台体操」という独自の体操があり、主に体育の授業で行われる。動きは全部で28000個あり、校歌を体操風にアレンジした曲に合わせて体操を行う。

学年構成[編集]

2019年4月現在の学年構成は以下の通り。

  • 3年生:72回生(学年章=青)
  • 2年生:73回生(学年章=白)
  • 1年生:74回生(学年章=赤)

校舎[編集]

仮校舎[編集]

  • 県二発足当時は県一の校舎内であり、その県一校舎は現在の兵庫県庁1号館の場所であった。当時の県一校舎は戦災にも耐え、当時の兵庫県庁(建物は現在の兵庫県公館)が被災したことから隣接位置の県一校舎が県庁として使われることになり、今度は県一が県二に間借りすることになった。
  • なお、その後、県一は北長狭校舎=のちに神戸市立神戸中学校がこの校舎で発足=に移ったのち、1948年5月に兵庫県立第一神戸高等学校=旧:神戸一中に移転、県一校舎に結局戻ることのないまま、同年9月に同校と男女共学化し兵庫県立神戸高等学校となった。県一校舎は兵庫県庁として使われ続け、県庁北面の都市計画道路整備にあわせ実施された建て替え工事で完成した現庁舎1号館の外壁には「兵庫県立第一神戸高等女学校跡」の石碑が埋め込まれている。

旧校舎[編集]

  • 近世ゴシック様式、「昭和初期モダニズム」学校建築の最高傑作として知られた。また、当時としては「超モダンな学校建築」として各方面から注目を浴び、教育界以外の各種の会合にも利用され、各界の名士・高官がしばしばこの校舎を訪れていた。
  • 施設としては、講堂の隣にあった4階の西洋作法室(応接室)が特に名高く、シャンデリア、瓦斯暖炉、大理石、欧州風家具と非常に豪華に飾られており、東久邇宮稔彦王も陸軍大演習視察の際にご休憩所として利用していた。この西洋作法室は戦後、主に音楽室として用いられた。
  • 上空から見るとL字型となっており、その両端部分は増築された部分であった。第1回目の増築は西側の端に1938年完成、2回目は1回目増築部分を延長する形で1963年に完成。3回目の増築は南側端にあった体育館を取り壊し、その跡地に1972年に完成した。
  • 3回目の増築部分は特別教室棟と呼ばれ、校舎とつながっていたものの、元々別建物として設計されたと考えられている(旧校舎=4階建て、特別教室棟=5階建て)。そのため、接合部分が短い階段となっていた。
  • 実際にシンボルの蔦が生い茂っていた。
  • 校舎内は当然ながら現代の採光設計がされていないため、昼間でもうす暗かった。特にL字型に曲がっていた部分の廊下は非常に暗く、必ず新入生はその暗さに驚くものであった。しかし慣れとは恐ろしいもので、誰もがすぐその暗さに慣れ、全く不自然に感じなくなっていたものだった。
  • 講堂にはコウモリが住んでいたらしく、部活動中に大きなコウモリが天井にぶら下がっている姿が目撃されている。
  • 解体の際、県二時代に埋め込まれた銅版が69年ぶりに取り出され話題となった。また、増築部分は中の鉄骨が錆びていたが、校舎本体部分は鉄筋が全く錆びておらず、関係者を驚かせた。
  • 伝統的に旧校舎への思い入れが強く、現校舎竣工に伴い旧校舎の模型が玄関に飾られる事になった。

現校舎[編集]

体育館(左)と現校舎(右)。旧校舎は今の体育館付近に存在した。
  • 旧校舎から現校舎への校舎改築計画は阪神・淡路大震災前から計画されており、第一期工事中に震災に遭うことになってしまった。また、この震災で改築計画は大幅に見直される事になった。
  • 現校舎設計に際し、「旧校舎の伝統を受け継ぐ」という観点が取り入れられた。そのため、玄関のデザインが旧校舎を模していたり、体育館内部の柱の天井部分のカーブも旧講堂のデザインが採用されている。
  • 当校の所在地は「房王寺町2丁目1番1号」であるが、これは正確には旧校舎での所在地であり、現校舎のある場所は正しくは「重池町2丁目1番」である。本来ならば後者が当校の所在地(=校舎の正門のある位置)になるべきであるが、便宜上、旧校舎時代のをそのまま現在も使用しているようである。

第二神戸高等女学校時代[編集]

  • 略称は県二(けんに)、または県二高女(けんにこうじょ)、第二高女(だいにこうじょ)。
  • 修業期間は5年(現在の中学3年間+高校2年まで)。但し1943年(昭和18年)4月1日からは4年(現在の中学3年間+高校1年まで)に変更される。
  • 第1回生(K1)は1925年(大正14年)4月入学~1930年(昭和5年)3月卒業。最後の県二生となる第20回生(K20)は1945年(昭和20年)4月入学~1949年(昭和24年)3月卒業。
  • 卒業生の「第○回生」の数え方は、修業期間変更後の一時期のみ、現在とは異なる数え方であった。
  • 一般的な通学ルートは国鉄(現・JR兵庫駅から、兵庫電気軌道(現・山陽電気鉄道長田駅から、神戸有馬電気鉄道(現・神戸電鉄長田駅から、神戸市電湊川公園停留所(廃線)からの徒歩であった。
  • 女学校にしては珍しくランドセルが採用されていた。
  • 運動会の最後は最上級生が踊る「ファウスト」と決まっていた。
  • 校歌は昭和2年~5年、昭和5年~10年、昭和10年~の3種類あった。
  • 1938年(昭和13年)7月3日に集中豪雨のために阪神大水害が起こったが、当校は奇跡的に助かった。
  • 1941年(昭和16年)頃、教頭の提唱で正門前通りの両側に並木としてクスノキ40本あまりを植樹。そのため旧校舎時代は見事な景観であった。現校舎建設工事に伴いほとんど伐採されたが、1本だけがかろうじて現存している。
  • 兵庫県全県から入学が可能だったが、1942年(昭和17年)から学区制が導入され、新生田川を境界線として当校は神戸西部学区に分けられた。同じ学区内には二中、三中(現・長田高校)、四中(現・星陵高校)、県四(現・兵庫高校)などが属していた(一方の神戸東部学区は一中、県一(現・神戸高校)、県三(現・御影高校)、芦屋中(現・芦屋高校)など)。
  • 新学区制により下町の商業地域からの入学者が多くなり、「がらが悪い」などと言われたりしていた(これは当校だけでなく、全県区から神戸西部に分けられた学校全般に共通して言えることであった)。
  • 1943年(昭和18年)に「兵庫県女子挺身隊結成式」が行われ、当校からも代表生徒が参加させられた。
  • 1945年(昭和20年)の入試では答案用紙が神戸大空襲で焼失したため、合格発表は雨天体操場の黒板にただ1行「全員合格」と書かれただけであった。
  • 明石大空襲で壊滅した川崎航空明石工場が1945年4月の始業式直後に当校舎内に移設(~1945年9月)。この工場は「報国第一〇一工場」と称された。
  • 1945年の大空襲で県一校舎が一部焼失。免れた部分も兵庫県庁が全面的に使用する事になり、県一が当校へ移転。移転の作業は瓦礫の中、徒歩で行われた。翌年、県一の新校舎が決まり、送別会が行われたが、県一側の間借り生活は苦しかったらしく、素直に感謝の辞が述べられなかったと言われている。
  • 県一とは校舎を共有したり、ライバルであったりと、それなりに交流は盛んであったと思われる。しかし県一が度重なる校地移転の後に一中と合併し、新制高校になってからは当校とはあまり交流が無くなってしまっている(その代わり現在は御影高校(旧・県三)との交流がある)。
  • 1946年(昭和21年)4月に入学した生徒は第21回生(K21)として入学したが、高等女学校の廃止により第21回生として卒業することはなかった。
  • 1947年(昭和22年)4月に併設中学校が併設。これは高等女学校が廃止される事になったため、当時高等女学校在学中だった生徒を新制の中学校と同じように卒業させるために設けたものであった。そのため、「併設中学校1年生」は存在しなかった。
戦前から戦後にかけての修業期間一覧表
S13.4 S14.4 S15.4 S16.4 S17.4 S18.4
5→4年に
S19.4 S20.4 S21.4 S22.4 S23.4
K14 1年 2年 3年 4年 5年
K15 1年 2年 3年 4年 5年
K16(期間5年) 1年 2年 3年 4年 5年
K16(期間4年) ↑と同じ ↑と同じ ↑と同じ 4年
K17(旧K16) 1年 2年 3年 4年
K18(旧K17) 1年 2年 3年 4年
K18(旧K18) 1年 2年 3年 4年
K19 1年 2年 3年 4年
K20 1年 2年 3年 4年
併1 ↑と同じ ↑と同じ 3年
併2 K21の1年 2年 3年

静寛院和宮像[編集]

1934年(昭和9年)4月21日、県二内に静寛院和宮像(皇女和宮像)が建立され、教職員と生徒は登下校時にその前で必ず最敬礼を行っていた。当像は青銅製で三代目慶寺丹長の作であり、その前年の1933年(昭和8年)11月20日増上寺和宮奉賛会理事・桑原瑞龍による講演も開催された。同じ和宮像が当校のほかに、県一と神戸市立第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)にも寄贈されており、当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。

太平洋戦争末期の物資窮迫が強まった時代、金属の提出で小学校の二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、当校と市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられた数少ない像であった。しかし終戦後、GHQによる占領政策でこの像が没収されるのを恐れた有志が当校の静寛院和宮像を隠し、占領政策が終了するサンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)4月までその状態は続いた。

占領時代が終わり、源平合戦・湊川の戦いに関わりのある須磨区「一ノ谷」の土地所有者が楠公精神に共感し、1954年(昭和29年)4月11日、「一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道に建立。この時に静寛院和宮像は占領時代に隠匿していた有志の手によって、その寄手墳・味方墳の間に設置された(そこに置かれた経緯については不明)。その後、2000年12月に一ノ谷2丁目自治会によって須磨区一ノ谷町2丁目の一の谷公園内に場所を移して公開安置されている。

なお、この像については戦中混乱期から現在まで不明な点も多く、一の谷公園内に安置されている像が本当に当校県二時代に置かれていた和宮像であるのか、確証が無いのが実情である(市二での像、または県一での像という可能性も否定できない)。事実、一の谷公園内の皇女和宮像の説明文では

  • 「なぜこの像が山中にあったのか不明である」
  • 「県一、県二、市二の三女学校に和宮像を寄贈した。(中略)戦争中の金属提供から免れたその内の一体だと思われる」

と書かれてある。

戦後の統合問題[編集]

二中との統合[編集]

戦後、新制高等学校の設立準備にあたり、「高校三原則」を実現するようGHQから迫られる。これにより、隣接する男子校の兵庫県立第二神戸中学校(略称:二中、現・兵庫県立兵庫高等学校)と統合する話が1948年(昭和23年)3月に持ち上がった。お互いに県立の男女セカンド校同士で至近距離に立地するために出た話ではあるが、県二側が猛反対したため頓挫。理由はこの校舎が新設中学校(今の神戸市立丸山中学校)に明け渡されると聞かされたためであった。他にも県二側に秘密で二中側主導という理由もあったが、GHQ主導の占領政策がこのように撤回されるのは、まずあり得ない事であった。

市一中との統合[編集]

県二と二中の統合が校舎にこだわる当校の反対で解消されたため、男女共学への話が難航。そのため、次に当校へ示された条件として、校舎を残すのならば

  1. 男女共学を拒否したまま新制中学校への移行(要するに格下げ)
  2. 男子校の神戸市立第一中学校(略称:市一中)との合併で新制高校を継続

の二者選択を迫られた。その結果、後者を選択し、県立高校と市立高校という変則的な合併が行われることになり、神戸市立第一中学校から校名変更したばかりの神戸市立神戸高等学校1948年(昭和23年)5月25日に当校舎内に併設された。併設校の神戸市立神戸高等学校は市神戸(しこうべ)あるいは戸高(べーこう)と略されていた。

1949年(昭和24年)4月、小学区制実施により当県立市立校に編入された生徒は、くじ引きで県立側と市立側に振り分けられた。しかし生徒の猛反発を呼んだため、早急に両校が統合することを条件に、暫定措置として男子は市立神戸高校側、女子は県立夢野台高校側へと振り分けられた。その数ヵ月後の1949年(昭和24年)9月、混乱収拾のために市立校が譲歩する形で県立夢野台高校側へ男子を含む1年生全員を帰属させることとなった。市立側は翌年以降生徒募集を行わず、1950年度をもって自然消滅することとなった。

兵庫県立夢野台高校と神戸市立神戸高校との併設状態はその後も続き、1950年7月1日に「兵庫県立神戸市立神戸夢野台高等学校」が正式に誕生。しかしこの名前は市立側の生徒が全員卒業する翌年3月末までの短命で終わり、この校名での卒業証書を有するのはY3生のみとなった。

併設時代は校歌は無く(正確には、生徒への配慮からお互いの校歌を使用しなかった)、その代用として「運動会の歌」が使用された。

当時の学年構成と卒業生呼称の一覧は以下の通り。

併設時代の修業期間一覧表
S23.4
4月新制開始
5月併設開始
S24.4
振分混乱
S25.4
7月校名変更
3月併設終了
S26.4 S27.4
男子
市神戸第1回生
3年 現在のY1
女子
県夢野台第1回生
3年
男子
市神戸第2回生
2年 3年 現在のY2
女子
県夢野台第2回生
2年 3年
男子
市神戸第3回生
1年 2年 3年 現在のY3
女子
県夢野台第3回生
県第二神戸女子高の1年 2年 3年
男子
市神戸第4回生
暫定的に市神戸高の1年
→県夢野台の1年
↓と同じ ↓と同じ 現在のY4
女子
県夢野台第4回生
県夢野台高の1年 2年 3年
県夢野台第5回生 1年 2年 3年 現在のY5

エピソード[編集]

  • 当校発祥の地は県一校舎のあった現在の兵庫県庁1号館の場所である。しかし、卒業生の間でもこの認識はあまり浸透していない。
  • 浪漫的な響きのする校名のため、よくドラマや漫画での架空の高校と勘違いされるが、実在する高校である。
  • 校名の由来はこの地に伝わる名前「夢野」から。近くに神戸市立夢野中学校があるため、当校もよく「夢野高校」と間違われやすいが、正しくは「夢野【台】高校」である。
  • 新制高校での校名を決定する際、「夢野高校」ではなく「夢野台高校」になった経緯については不明。
  • 市立神港高校も同じく500mも離れない至近距離に存在し、同一学区公立高校3校が狭い場所に集中している珍しい地域である(但し神港高校だけは長田区ではなく兵庫区)。
  • 男子生徒の制服はともかく、女子生徒の制服は隣接する兵庫高校とほとんど同じである。したがって当校生徒と兵庫高校の生徒がよく利用する神戸電鉄長田駅では、胸のバッジで確認しない限り、どちらの学校の生徒か識別する事はほとんど不可能である(ただし、兵庫高校では、学生運動のなかで制服を廃止し標準服とされたため行事開催日でない限り私服で通学する生徒が少なくない)。
  • 1950年に行われた第1回ファイアストーム(神戸で行われてきた伝統行事)が乱痴気騒ぎとなり、消防車が駆けつける状態となる。仕舞いには「炭坑節を唄う蛮行」とののしられ、これがきっかけとなり、生徒全員で歌える逍遥歌が作られた。
  • ファイアストームはファイアラリーの名前を変え、学校行事の締めくくりとして実施されてきたが、校庭で火を燃やして盛り上がることへの近隣住民の苦情もあり、1981年を最後に実施されなくなった。
  • 体育祭、文化祭、ファイアラリーが2学期に集中して開催されたため、これらを総して「三大祭」と呼んでいた。しかし、ファイアラリーが廃止されてからは三大祭という言葉は忘れられるようになった。
  • 歌手の神戸一郎は当校卒業後「十代の恋よさようなら」でデビューし、低音が魅力の元祖アイドル歌手として全国的に非常に人気が高かった。当校在校時から、のど自慢大会に出場して有名だったらしく、正門前並木にファンが殺到していたと言われている。
  • 1970年3月によど号ハイジャック事件が起こる。犯人グループのうち若者2人が神戸出身で、その1人が当校卒業生(赤木志郎 Y18 当時、大阪市立大学在学中)だったため衝撃が走った(もう1人は柴田泰弘、当時、須磨高校在学中)。
  • 御影高校との定期戦は1972年に御影側の生徒会から話を持ちかけられ、1974年5月1日に第1回の定期戦が実現した。
  • 短距離陸上の朝原宣治は当校在校時から陸上を始めている。当時はまだ短距離ではなく、走り幅跳びの選手だったが、異常な足の速さは当時から有名で、運動会では常に注目の的であった。また、当校在学3年生の時に初の海外遠征を実施し、その遠征先が奇しくも自身初のオリンピックメダル獲得となる北京だった。
  • かつみ♥さゆりのさゆりは当校在校時、サッカー部のマネージャーを担当していた。
  • 北神朋美は当校在学中に事務所の人にスカウトされた。
  • 2005年にエアライフルの特設射撃場が完成。兵庫県内に公式射撃場が無いため、兵庫県競技力向上対策本部が石川令奈(Y59)のために特別に学校側へ話を持ち掛けたためであった。

その他[編集]

著名な出身者[編集]

主な進学先[編集]

私立大学[編集]

関西学院大学関西大学立命館大学同志社大学甲南大学近畿大学武庫川女子大学

国公立大学[編集]

神戸大学兵庫県立大学兵庫教育大学大阪府立大学神戸市外国語大学岡山大学徳島大学

脚注[編集]

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  1. ^ 4月8日という説もある
  2. ^ 正確には現体育館辺り
  3. ^ 当時の住所は林田區房王子町二丁目三番地

関連項目[編集]

外部リンク[編集]