共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派

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共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派(きょうさんしゅぎしゃどうめいマルクス・レーニンしゅぎは、略称:ML派)は、共産同系の日本の新左翼党派。

共産同系(共産同または社学同)で、機関紙名または党派名より「ML派」と呼べる党派には以下があるが、当記事では1および2について記載する。

  1. 第1次共産同分裂後、1963年に社学同が分裂して結成された「マルクス・レーニン主義者同盟(共産同再建大会実行委員会)」(社学同ML派、機関誌『マルクス・レーニン主義』)[1]
  2. 上記の社学同ML派で、1965年に多数派が第2次共産同に合流後、非合流組が1968年に結成した「日本マルクス・レーニン主義者同盟」(ML同盟または社学同ML派、機関誌『赤光』)[2]
  3. 第2次共産同分裂後、1974年に共産同全国委が分裂して結成され、翌年8月に共産主義者同盟 (革命の旗)に合流した。「共産同全国委マルクス・レーニン主義派」(機関誌『マルクス・レーニン主義通信』)[3]
  4. 共産同赤軍派プロ革派が分裂して1975年頃に結成された「共産同赤軍派マルクス・レーニン主義派」(機関誌『マルクス・レーニン主義』『革命通信』)』)[4]

社学同ML派とML同盟[編集]

第1次共産同は、60年安保闘争敗北後、総括をめぐり四分五裂した。再建の動きはいくつかのグループによってなされたが、最初は傘下の学生組織である社学同から再建が行われた。社学同の再建もマル戦派、ML派、独立派、関西派の各グループが個別に行い、1963年9月に「マルクス・レーニン主義者同盟(共産同再建大会実行委員会)」(社学同ML派)が結成された。この社学同ML派は、「非マル戦派の共産同」の意味で「共産同ML派」と呼ばれる事もあるが、この時期の共産同でML派を正式名称にしていたのは社学同ML派だけであった。

社学同ML派の多数派は1965年-1966年の共産同再統合(第2次共産同)に加わるが、社学同ML派の少数派は第2次共産同に加わらず、1968年に「日本マルクス・レーニン主義者同盟」(ML同盟)と学生解放戦線(SFL)を結成し、武装闘争路線を堅持し、毛沢東思想を日本革命の指導理念として主張した。このML同盟(ML派)は1968年-1970年ころの大学闘争・大学紛争の時期において、全共闘を構成する党派の1つとして活動、東大闘争東大安田講堂事件では列品館での攻防で名を挙げた。安田講堂の防衛隊長の今井澄(のち参議院議員)を輩出した。1970年末に、この党派は解散し、多くは熊本県など九州の諸県に亡命。一部はマルクス主義青年同盟(マル青同)に連なっていった。

ML同盟「70年代への声明」[編集]

全国のプロレタリア兄弟諸君、革命的大学生高校生農民諸君! 

解放戦線運動は、プロレタリア階級形成の闘争であり、プロレタリア戦士として自己を否定・創造してゆく闘争であり、プロレタリア世界革命・不断革命=世界人民戦争を日本的・プロレタリア的に現実化する闘争である。 そしてそれは、政治的には帝国主義を打倒し、資本家階級を殲滅する戦闘と、その人民戦闘組織の創造であり、二重権力闘争であり、自己権力闘争である。 解放区を日本社会にだけでなく、我々の魂の中に創造する闘いである。 同時に、日本階級闘争の組織問題においては、プロレタリアートと被抑圧人民の組織(とされている)を革命し、真に戦闘の武器に改造する闘争であり、「自治会」「労働組合」にまつわる一切の既成理念概念を革命する組織戦闘である。

人民に依拠し、人民を信頼し、人民と共に進む、真の革命的統一戦線である。即ち、解放戦線運動こそ、そしてそれのみが現代世界における現在的な共産主義運動の現実体である。

あらゆる単位、地域に解放戦線を建設せよ! 一握りの「理論指導者」や「政治指導部」ではなく、正に身体を張って闘う人民大衆自身が革命とその戦闘の理論、理想、組織を創造する真の革命時代を創造する真の革命時代を押し開く。

自分自身をプロレタリア階級形成してゆく、解放戦線を建設せよ!

(決起せよ!ML同盟の下、解放戦線運動へ!/1969)

所属していたことのある著名人[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]