全日本学生応援団連盟

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全日本学生応援団連盟(ぜんにほんがくせいおうえんだんれんめい)とは、日本国内における大学の応援団・応援部・応援指導部を対象にした応援指導団体の連合組織である。

概略[編集]

東都大学野球連盟に所属する大学の学生応援団で組織された東都大学応援団連盟が母体。その後全国組織として発展的に解消し、全国の大学を対象とした全日本学生応援団連盟として生まれ変わった。

当初は、初期の構想に沿って東海地区、関西地区の主要な大学応援団も加盟していたが、東京六大学所属の各校応援団の招聘に失敗したことや[1]、全国的な学園紛争の影響に因る各校応援団組織の維持・継続の困難さの影響もあって、その後の経緯の中で、東日本地域を除いた殆んどの地域は次々と脱退していき、現在は関東を中心とした東日本でも一部の地域の大学応援団しか所属していない。

撤退していった他地域については、脱退後、地域毎の連盟を結成したわけでなく、連合体を組織しないまま現在に至っているか、近隣同士や交流の深い同士の少数校による構成の連盟に止まっている。2000年度の加盟校は36大学あったが現在は減少傾向に有る。首都圏の伝統校、総合大学以外では団員の減少で活動休止や実質休止状態となる応援団が増える一方で競技を主体としたチアリーディング部のみ創設されてもリーダー部を含む常設応援団組織の新設は皆無のため新たな加盟校はない状態となっている。

平成20年度の連盟委員長校は中央大学、副委員長校は青山学院大学日本体育大学城西大学であるが、この年を境に委員長校選出は学生による立候補ではなくなり、委員長校、執行部選出については形骸化しつつある。それに伴い、学生による学生の為の応援団連盟であるという伝統は年々薄まっている。

特徴[編集]

毎年、連盟本部校(委員長校)を持ち回りで設定し、全日本学生応援団連盟本部記念祭(略称連盟祭-合同のリーダー公開、全国の連盟加盟校による各大学の応援の演武並びに発表会等)を11月中旬以降に実施している。

以前は渋谷公会堂や、チャリティショーとして屋外広場(新宿アルタ前)などで開催するなど、当時の連盟の隆盛ぶりが見て取れる。しかしここ数年は、連盟の規模縮小、衰退にともない主に加盟各大学の記念講堂で実施しているケースが多い。(近年、東京タワー前での開催もある)

この記念祭は2010年度で第60回を数え、青山通りでのパレードと日本青年館にて60周年記念祭が行われた。しかしこの連盟祭以外に連盟として何か主だった活動があるわけではなく、主に現役間の交遊を深めるための組織として機能している面が強い。近年は、加盟校歌集CDの他に特製カレンダーや手ぬぐいなど記念グッズの作成を行っており、他の応援団連盟とは一線を画す個性的な活動も行っている。

2018年度の連盟祭では特別出演の形で長年の活動休止から2012年に復活を果たした九州応援推進ネットワーク所属の福岡大学応援指導部應援團が出演した。

連盟祭の開催履歴[編集]

  • 平成20年11月23日:東洋大学円了ホール

連盟沿革[編集]

※旧字体による正式名称は採らず

加盟団体[編集]

あくまで連盟への加盟団体名であり、現状として大学内にその組織が認知されていない団体もある。これは単に都合により休部中である団体以外にも、連盟加盟以後に学内事情により未公認・廃部になった団体(※印)や、構成人員が確保できずに現役学生としての組織自体が実在していない団体(※印)も含まれる。これは、当該連盟の方針が脱退届けを正式に受理しない限りは加盟校と認識し続ける方針である事と、学内において休部、廃部、その他の理由による活動休止状態になっても、多くの団体は脱退届けを出さない習慣がある為に因る。加盟校の状況は2023年現在の情況[2]。地区内で五十音順の記載。

加盟団体の小史[編集]

※旧字体による正式名称は採らず。記順は五十音順。内容不明の団体・内容については記載なし。

青山学院大学応援団[編集]

  • 昭和28年 応援有志会(後の応援団)が発足
  • 昭和29年 吹奏楽部創立
  • 昭和38年 初代団旗完成
  • 昭和39年 応援歌「白亜の城」完成。吹奏楽部内にバトントワリング研究会が創設
  • 昭和40年 吹奏楽部が独立
  • 昭和49年 新校歌が完成

足利大学全学応援団[編集]

  • 昭和48年 足利工業大学応援団として創団
  • 平成20年 足利工業大学全学応援団となる

学習院大学應援團[編集]

  • 昭和28年 応援団創設
  • 昭和40年 学習院・成蹊武蔵成城の四大学応援団による「クローバーの集い」の開催を開始
  • 昭和56年 チアリーダー部設置
  • 平成元年 吹奏楽部設置

工学院大学応援団[編集]

  • 昭和35年 応援団発足(現在活動停止中)

國學院大學全學應援團[編集]

  • 昭和16年 応援統制部(現応援団の母体)が結成
  • 昭和24年 初代團旗作製
  • 昭和37年 第二代團旗作製
  • 昭和44年 金沢市星稜高校エール振り付け指導
  • 昭和46年 応援団から國學院大學全學應援團と改称、大学自治組織の一翼へと昇格
  • 昭和47年 全日本学生応援団連盟本部校就任 山本寛斉ファッションショー出演
  • 昭和54年 全日本学生応援団連盟本部校就任
  • 昭和55年 第三代團旗作製
  • 昭和60年 全日本学生応援団連盟本部校就任
  • 平成10年 全日本学生応援団連盟本部校就任 長野パラリンピック冬季競技大会応援
  • 平成11年 高崎経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演
  • 平成12年 高崎経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演
  • 平成13年 第四代團旗作製 高崎経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演
  • 平成14年 高崎経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演
  • 平成15年 全日本学生応援団連盟本部校就任 第七十九回箱根駅伝応援
  • 平成16年 高崎経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演
  • 平成17年 全日本学生応援団連盟本部校就任 高経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演
  • 平成18年 第八十二回箱根駅伝応援 第三十八回全日本大学駅伝対校選手権大会応援

         高崎経済大学応援団主催定例リーダー公開祭出演

  • 平成19年 第八十三回箱根駅伝応援

国士舘大学応援団[編集]

  • 昭和38年 設立
  • 昭和53年 不祥事により大学当局より解散命令
  • 解散後も一部の有志学生達が未公認で応援活動をする
  • 平成8年 大学当局より『スポーツ応援会』が愛好会として公認される
  • 平成10年 愛好会から同好会に昇格
  • 平成14年 同好会から部に昇格し、同時に名称を国士舘大学応援団とする

駒澤大学応援団[編集]

  • 昭和25年 結成(東都大学応援団連盟発足式に参加の団体は正式結成前の前身母体)
  • 昭和43年 駒澤大学応援団、大学当局からの解散命令により現役組織の活動停止(継続中)

城西大学全学応援団[編集]

  • 昭和42年 創団

上智大学応援団[編集]

  • 昭和36年 前年結成の有志団体が正式に結団
  • 昭和38年 リーダ公開第1回「荒鷲の集い」を開催
  • 昭和39年 学生会所属から体育会所属になる

専修大学全学応援団[編集]

  • 大正某年に母体組織が結成
  • 昭和21年 初の団旗作成、校歌作成、応援歌「勝てよ専大・凱歌専修」作成
  • 昭和23年 応援歌「スター専修」作成
  • 昭和56年 応援団から全学応援団に改称

大東文化大学全學應援団[編集]

  • 昭和61年 応援団愛誠会として結成
  • 昭和61年 応援団と改名
  • 平成元年 大学学生自治会構成団体になる

公立大学法人高崎経済大学直属応援団本部[編集]

  • 昭和35年 大学認可団体として設立。秋に体育会の所属となる。
  • 昭和38年 第1回定例リーダー公開祭を実施。
  • 昭和39年 専修大学応援団と姉妹校締結を結ぶ。
  • 昭和43年 体育会から独立し大学直属団体になる。
  • 昭和50年 足利工大応援団と団としての姉妹校締結をする。
  • 平成23年 4月1日 高崎経済大学の法人化。
  • 同  年 11月11日 創団50周年を記念し、団の歴史を活かし、又、応援団の教科書として利用する為、高崎経済大学直属応援団から見た、応援団の本(専門書)「高崎経済大学 学生応援団教範」を発刊。
  • 同  年 11月12日 創団50周年を記念し、特別記念祭を行なう。
  • 平成24年 10月6日 『第1回高校応援コンクール』を、定例リーダー公開祭と共に実施。(第1回優勝高校は「東京農業大学第二高等学校応援団」)

千葉工業大学体育会応援団[編集]

  • 昭和34年 体育会の有志により母体組織が発足
  • 昭和41年 創団
  • 昭和46年 吹奏楽部を設置

千葉商科大学体育会本部応援団[編集]

  • 昭和37年 創団

中央大学応援団[編集]

  • 大正某年に母体組織が発足
  • 1984年 バトントワリング部を創設
  • 1999年 ブラスコアー部を創設

東海大学応援団[編集]

  • 昭和36年 創団
  • 昭和37年 連盟祭に初参加。校歌、応援歌、勝利の拍手、鶴の舞が完成
  • 昭和39年 初の大団旗を製作
  • 昭和40年 猿拍手、団歌が完成
  • 昭和41年 学生節、山水譜が完成
  • 昭和42年 乱打の拍手、初めての和太鼓を作成、第三応援歌が完成

東京農業大學全學應援團[編集]

  • 明治某年「青山ほとり」(歌詞のみ)誕生
  • 昭和5年頃 予科と専門部に別々の応援団が発足
  • 昭和6年 両者を統合して総合的な応援団が成立。団旗が学長から授与。東京都下五大学応援団連盟を発足。
  • 昭和21年 終戦とともに応援団活動を再開。専門部と予科、学部との3団体に分かれて活動。
  • 昭和23年 全学生の要望により3団体を統合し全学応援団が発足

東北学院大学応援団[編集]

  • 昭和21年 結成
  • 昭和26年 正式団体として承認
  • 昭和55年 チアリーダー部を併設

東北福祉大学応援団[編集]

  • 昭和41年 結成(現在活動停止中)

日本體育大學應援團[編集]

  • 明治某年 各、運動部の正選手(試合にでない下級生など)以外が応援していた。現在も箱根駅伝首都大学野球関東大学アメリカンフットボール連盟関東ブロックリーグ戦・全国学生相撲選手権大会・グリーンレガッタ(中大・法大・東経大・日体大のボート競技定期戦)等決められた応援しか応援団は動員されないので、むかしと同様、各部正選手以外が各クラブの応援をしている。関東大学バスケットボール連盟関東大学バスケットボールリーグ戦では、バスケットボール部員が毎年応援リーダー部を組織する。
  • 大正某年 応援団という部はなかったが寮生・各部員等で応援歌等を考えた。 その中から「エッサッサ」が誕生する。
  • 昭和34年 学友会応援団が創設(当時は、特に体育大学「体育会系」のスクールカラーで大体の学生(全学生-部活加入率88%)が体育会系クラブに加入していた為に兼部する部員が結構いた。例えば陸上競技部員等でありながら、応援団員である)
  • 昭和60年 チアリーダー部(チーム名VORTEX-インカレチアリーディング競技にも参加)を併設
  • 昭和61年 吹奏楽部を併設三部構成(応援リーダー・ブラスバンド・チア)となる

日本大學應援團本部[編集]

  • 大正4年結団[3]
  • 全日本学生応援団連盟発足時の盟主。永らく日本大学の「金看板」であり大学本部体育会に属し、学内では「本部応援団」「応援団本部」「オール日大応援団」[4]と称されていた。日大紛争が終息した昭和44年2月、「大学本部体育会」が解散、「保健体育局(程なくして保健体育審議会に改称)」へ改組改編した際、応援団本部は「保健体育局」に属すか否かで議論がなされたが、保健体育局に属さない大学本部公認の一団体として活動を継続した[5]
  • 昭和45年9月23日、東都大学野球一部秋のリーグ戦、野球応援終了後、日大応援団員が暴行傷害事件を起こした。昭和45年9月25日、東都大学野球連盟は緊急理事会を開き全21校(当時)の応援団に対し球場での応援を認めない処分を下した。事態を重く受けた日大本部は9月26日付けで応援団の公認取り消し処分・学内外問わず応援活動他一切の活動禁止、復活を認めない永久解散処分を決定[6][7]
    • 現存している大学本部公認応援活動団体の応援リーダー部(平成14年創部。競技チアリーディング主体の女子部員のみ)は旧応援団とは全く無関係で後継組織ではない。

日本大学工学部体育会応援団[編集]

北海学園大学全学応援団指導部[編集]

  • 昭和29年 有志により創設
  • 昭和46年 北海道学生応援団連合が結成され、構成校となる。
  • 昭和48年 第二応援歌、開拓応援歌、応援歌 遥かに煙りが完成
  • 再三の強引な勧誘活動のため解散消滅の歴史があるが、現在は活動を再開している。

富士大学応援団[編集]

  • 昭和41年 奥州大学応援団創団
  • 昭和51年 富士大学と改称したのに伴い、富士大学応援団となる
  • 現在、団員減少のため活動休止中

明治学院大学応援団[編集]

  • 1948年 自治会応援団が組織化
  • 1949年 結成
  • 1962年 吹奏楽部を設置
  • 1966年 バトントワラー部を設置
  • 1969年 吹奏楽部が独立
  • 2008年 ブラスバンド部を設置

山梨学院大学応援団[編集]

  • 昭和41年 創立(以後学園紛争を境に自然消滅状態に至る)
  • 昭和51年 活動が復活
    • その後は応援指導部として活動している(後継団体であるかは不明)。

酪農学園大学応援団[編集]

  • 昭和46年 設団。讃歌、第一応援歌が完成。北海道学生応援団連合に加盟

脚注[編集]

  1. ^ 明治と法政は合同賛成だったが、早稲田、慶應、東大は反対、立教はどっちつかずで、六大学の全会一致の原則を崩すことはできなかった(明治大学応援団100年史編纂委員会 『明治大学応援団100年史』 2021年、94頁)。
  2. ^ 加盟校の状況は右記を参考にしている。[1]
  3. ^ 団史に拠る。昭和6年に東京都下五大学応援団連盟発足時に合わせ昭和6年結団と言う説があるが、これは誤り。
  4. ^ 往時は学部毎に学部公認の応援団も存在していた為
  5. ^ 日大紛争終焉と同時に一般学生はじめ各運動部も士気が落ち、応援団本部も学内での求心力・影響力を失い、往時には300名いた団員は70名に減少。スポーツ競技の応援要請も激減し活動が極端に狭められていった。(この時期は、野球部の東都リーグ戦、アメフト部、箱根駅伝、ボクシング部に限られてしまった)
  6. ^ 日大が応援団を解散 暴力事件で決定 時代感覚とずれる『朝日新聞』昭和45年9月26日夕刊 3版 11面。同時に大学本部は学内外での「応援団」の称号使用を禁止した。正付属高校応援団も休部・解散させた。
  7. ^ 東都大学野球連盟では、昭和41年頃から45年にかけて猛威を振るった大学紛争の時期を中心に、リーグ戦野球応援に絡んだ球場内外での各校応援団同士の乱闘傷害事件が相次ぎ、リーグ運営にまで悪影響を及ぼした。 特に日本大学応援団が昭和41年春季リーグ戦と昭和45年の秋季リーグ戦、さらには亜細亜大学応援団も昭和41年春季リーグ戦と昭和45年春季リーグ戦に応援に詰めかけて乱闘傷害事件を起こしたことから、昭和45年9月25日、連盟側は緊急理事会を開き全21校(当時)の応援団に対し球場での応援を認めない処分を下した。更に付け加えておくと亜細亜大学応援団は昭和43年にも駒澤大学応援団と乱闘傷害事件をリーグ戦の試合中に起こしている。これらの事件の発端の全ては、応援団連盟規約を遵守しない(相手の応援団が校歌斉唱・エール中にヤジを飛ばす他)新興の亜大応援団にある。このような史実から、昭和41年東都大学野球春のリーグ戦で日大応援団が亜大応援団に執った行動は正義であり、やみくもに連盟の盟主である日本大学応援団を非難すべきでない。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]