光明寺 (長岡京市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
光明寺
131130 Komyoji Nagaokakyo Kyoto pref Japan06s3.jpg
御影堂
所在地 京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1
位置 北緯34度56分18.48秒
東経135度40分30.68秒
座標: 北緯34度56分18.48秒 東経135度40分30.68秒
山号 報国山
宗派 西山浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 建久9年(1198年
開山 法然
開基 蓮生
正式名 報国山念仏三昧院光明寺
別称 粟生光明寺
札所等 法然上人二十五霊跡16番
京都洛西観音霊場7番
西山国師遺跡霊場13番
文化財 十一面千手観音(京都国立博物館)
地図
光明寺 (長岡京市)の位置(京都府内)
光明寺 (長岡京市)
法人番号 7130005006436
テンプレートを表示
もみじ参道

光明寺(こうみょうじ)は、京都府長岡京市粟生にある寺院。西山浄土宗総本山法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である。また紅葉の名所としても広く知られる。

由緒[編集]

奈良へ学匠となるべき師を求めて比叡山延暦寺を下ってきた24歳の法然が、粟生野の里の村役だった高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた際、茂右衛門夫妻は法然の真剣な求法の気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と法然にお願いした。

そして承安5年(1175年)3月、ついに浄土宗を開いた法然は20年前の約束を守ろうと、この地で初めて念仏の法門を説いた。こうして法然が初めて「お念仏」の教えを説いた地であることからこの地は「浄土門根元地」と言われている。

その後、法然を慕い帰依した弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年(1198年)に法然ゆかりの当地に念仏三昧堂を建立したのが光明寺の直接の始まりである。のちの嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという。

法然の弟子である西山上人証空西山義の教えを広めていき、浄土宗西山派が成立していくが、その弟子の浄音が、証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷(せいこく)流を唱えだし、光明寺の他に禅林寺(永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めた。

明治9年(1876年)には光明寺は浄土宗西山派の西本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至る。

法然上人史跡[編集]

  • 法然の石棺 光明を発したという伝説を持つ。
  • 荼毘所 安貞2年(1228年)正月25日、法然の17回忌に、ここで遺骸を荼毘に付した。
  • 法然廟 遺骨を7日間供養し分骨し、その一部を当地に葬り、廟堂を作った。
  • 蓮生墓所 建永2年9月4日(1207年9月27日)熊谷で予告往生を遂げた蓮生の遺骨は遺言により、念仏三昧院に安置された。

伽藍[編集]

敷地6.6ヘクタール、建造物は32棟で、そのうち17棟が市指定文化財である。

  • 御影堂 - 1753年再建
  • 阿弥陀堂 - 1799年再建
  • 御本廟
  • 観音堂
  • 勢至堂
  • 蓮生閣
  • 釈迦堂(方丈)
  • 大書院
  • 小書院
  • 宝物庫
  • 総門
  • 薬医門

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 絹本著色二河白道図
  • 絹本著色四十九化仏阿弥陀来迎図
  • 木造千手観音立像 - 平安時代後期 京都国立博物館寄託

附属施設[編集]

所在地[編集]

京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1

交通アクセス[編集]

周辺[編集]

引用資料[編集]

  • 光明寺絵縁起より
  • 「京都の寺社505を歩く 下」PHP新書より

関連項目[編集]

外部リンク[編集]