阮恵

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光中帝 阮恵
西山朝
第2代皇帝
クアン・チュン像(タイソン県フーフォンのクアン・チュン博物館)
国号 大越
王朝 西山朝
在位期間 1788年12月22日 - 1792年9月16日
都城 富春
姓・諱 阮恵、阮文恵、阮光平
諡号 武皇帝
廟号 太祖
別号 北平王
生年 景興14年(1753年
没年 光中5年8月1日
1792年9月16日
胡丕福
阮氏
后妃 仁恭武皇正后、裴氏雁柔懿武皇后中国語版
陵墓 丹陽陵
元号 光中 : 1788年 - 1792年

阮 恵(げん けい[1]、グエン・フエ、ベトナム語Nguyễn Huệ / 阮惠)は、西山朝大越の第2代皇帝(在位:1788年12月22日 - 1792年9月16日)。阮 文恵(げん ぶんけい[2]、グエン・ヴァン・フエ、ベトナム語Nguyễn Văn Huệ / 阮文惠)とも。後に阮 光平(グエン・クアン・ビン、ベトナム語Nguyễn Quang Bình / 阮光平)と改名した[3]光中皇帝ベトナム語Quang Trung Hoàng đế / 光中皇帝)と号した。ベトナム史上最も成功した軍司令官の一人でもある。

生涯[編集]

景興14年(1753年)、歸仁府西山邑(現在のベトナム南中部ビンディン省タイソン県)に胡丕福中国語版の子として生まれる。本姓はだが母方の姓を称した。兄の阮岳中国語版阮侶中国語版と共に、西山三兄弟ベトナム語版として知られている。

景興32年(1771年)に兄たちと共に西山で蜂起した後に軍を指揮し、広南阮氏東京鄭氏を次々と滅ぼして西山朝の創建に貢献した。その後も泰徳7年(1785年)のラックガム=ソアイムットの戦い阮福暎率いる広南阮氏残党とシャムの連合軍を破り、兄の泰徳帝阮岳から自立して皇帝を称した。光中2年(1789年)のドンダーの戦いでは後黎朝の連合軍を破り、後黎朝を滅ぼした[4]。その後も再起を図る阮福暎の軍を破るために南進していたが、光中5年8月1日1792年9月16日)に乂安の鳳凰中都において脳卒中で崩御した[3]。崩御後、長男の阮光纘中国語版が後を継いだ[5]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ 桐山昇栗原浩英根本敬編 編『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』有斐閣〈世界に出会う各国=地域史〉、2003年9月1日、55頁。ISBN 978-4641121928 
  2. ^ 池内宏矢野仁一橋本増吉編 編『東洋歴史大辞典』 上巻(縮刷復刻版)、臨川書店、1986年10月1日(原著1937年)、1042頁。ISBN 978-4653014690 
  3. ^ a b 清史稿』巻五百二十七 列伝三百十四 属国二 越南
  4. ^ 『海国図志』巻五 越南疆域付考
  5. ^ ベトナム史略』第2巻 自治の時代 第11章
ベトナム共和国の200ドン紙幣
先代
泰徳帝
西山朝の第2代皇帝
1788年 - 1792年
次代
景盛帝