光のモスク

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光のモスク、1932年撮影

光のモスク又は大ヌーリー・モスクアラビア語: جامع النوري‎, ラテン文字転写: Jāmiʿ an-Nūrī al-kabīr)は、イラク北部のモスル(マウスィル)にあるジャーミィ(大モスク)[1][2][3][4]。モスル旧市街に位置し、傾いたミナレットを持つことで有名であった[5]。ミナレットには「反り返り」を意味するハドバーゥというあだ名がある[2][3][5]。モスクの建設は、十字軍と戦ったザンギー朝ヌールッディーン・マフムードにより1172年になされたと考えられており、モスクの呼称もこの武将の名前にちなむ[3][4][5][6]。モスクは一度、ミナレットを除いて解体されたことがあり、1942年に立て直された[4][5]。2014年6月以降はサラフィー・ジハード主義組織・イスラーム国(以下ISと表記する)の支配下にあったが、2017年6月21日に、モスク及びミナレットが破壊された[2][3][4]。モスクの破壊ついて、イラク政府軍はISが自ら爆破したと主張しているが、対してIS系の通信社・アマーク通信は米軍の空爆によるものであると報道している[2][3][4]

建設[編集]

モスル旧市街のランドマークであった光のモスクのミナレット、1932年撮影。

伝統的に、光のモスクは、トゥルク系のアタベグの一人、ザンギー朝シリア地方スルターンであったヌールッディーン・マフムードが建造を命じ、彼の亡くなる少し前の1172年に完成したと考えられている[3][4][5][6]イマードゥッディーン・ザンギーが突然暗殺された1146年以後、ザンギー朝は、長男サイフッディーン・ガーズィーが支配するモスル、次男ヌールッディーン・マフムードが支配するダマスカス、四男クトブッディーン・マウドゥードが支配するホムスなどに分裂した。1149年にサイフッディーンが病没すると、クトブッディーンはいち早くモスルに駆けつけて、モスルのアタベグの地位に就いた[7]:266,557。これに対してヌールッディーンはモスル西方の街シンジャールを手中に収め、弟を攻めようとしたが、兄弟間のいくさはフランクに対峙するムスリムの力を弱めることになると古参兵に諌められ、思いとどまって和睦した[7]:266,557[注釈 1]

モスルを直接的に統治したことのないヌールッディーンがモスルに光のモスクを建設した経緯については、イブヌル・アシールの年代記『完史』や、イブン・ハッリカーン英語版列伝スタイルの歴史書アラビア語版傑出した人物たちへの悼辞アラビア語版[注釈 2]などに、以下のような逸話が伝わっている[8][9]

『傑出した人物たちへの悼辞』「クトブッディーン・マウドゥード伝」によると、1170年の夏ごろにクトブッディーンが危篤になったことを知ったヌールッディーンは手勢を率いてモスルに近いところまで来たが、街には入らずクトゥブッディーンが亡くなるのを待った[8]。そして、弟が亡くなったことを知ると、クトゥブッディーンの長男、サイフッディーン・ガーズィーカタロニア語版のモスル領有を認め、甥に当地の一切を任せることを確約した[8]。『完史』には、次のような記載がある[1][9]

ハドバーゥ、1932年撮影
ヌールッディーンは単騎でモスルの視察に来た。アブー・ハーディル・モスクの尖塔に昇り、モスクを検分するや、周辺の家や店に対して、いま自分が見ている場所(モスク)に、無償で土地を差し出すように命じた。土地の所有者らのうち、進んでそうしようとするものは誰もいなかった。ヌールッディーンは、この計画をシェイフ・ウマル・アル=マッラーゥアラビア語版という善良な篤信家に任せた。ヌールッディーンが指定した土地の持ち主たちには、それぞれの土地に見合った金額が支払われることにより土地の買い入れが行われ、モスクの建設が始まった。そのため、建設にかかった費用は総額でかなり大きなものになった。建築はヒジュラ暦568年(西暦で1172年-1173年)に終わった。[9]

イブヌル・アシールはこの逸話をザンギー朝の高官であった父親から聞いており、確度は高いとされる[1]。なお、当モスクの「ジャーミァ=ン=ヌーリー」(「光のモスク」を意味する)という名前は、このときの出資者ヌールッディーンの名前(「信仰の光」を意味する)に由来する[1]

一方で、サラーフッディーンカーティブであったイマードゥッディーンによると、ヌールッディーンに土地の購入とモスク建設を勧めたのはシェイフ・ウマルであるという[8]。カーティブ・イマードゥッディーンの著書『シリアの稲妻アラビア語版』は散逸してしまったが、ヌールッディーンが光のモスク建設に出資した経緯について述べた以下の文章がイブン・ハッリカーンの『傑出した人物たちへの悼辞』「クトブッディーン・マウドゥード伝」に引用されている。

モスルの中心部には大きな廃墟があって、それに関しては再建しようとすると命を落とす、必ず失敗するなどという恐ろしい噂が広まっており、あえて再建してみようとする者はいなくなっていた。ムイーヌッディーン・ウマル・アル=マッラーゥという高潔な振る舞いと質素な暮らしぶりでよく知られたシェイフ(長老)が、ヌールッディーンに、その廃墟を購入し、その建材を使ってモスクを建てることを勧めた。王子はこの聖堂のために多大な資金を費やした。また、モスル近辺に位置する不動産の一つを、モスクの維持のために使うワクフ財へと転換した。[8]

上述のように、光のモスクはヌールッディーンにより建設されたと伝統的に考えられている。ところが、19世紀ドイツの東洋学者エルンスト・ヘルツフェルトドイツ語版は、ヌールッディーンは建設を始めたのではなく、兄のサイフッディーン・ガーズィーが1148年に建設した既存のモスクを拡張したに過ぎないという説を唱えた[1]。ヘルツフェルトによると、サイフッディーンも、もともとそこにあったイスラームの礼拝所の上にモスクを建造したとされる[1]

12世紀の第二次十字軍へのレジスタンスを行ったサラーフッディーンは、開戦前にこの光のモスクで礼拝を行ったのち、十字軍に対するジハードを始めることを宣言した[4][10]

ミナレット[編集]

ハドバーゥ、1932年撮影

光のモスクは、教育施設であるマドラサや、礼拝への呼びかけが行われるミナレットも付属する宗教複合である[5][11]。モスクの敷地の北西隅に位置するミナレットは、45メートルの高さがある円筒形のシャフト部を有する[5][12]。シャフト部には装飾レンガが外側に巻かれており、鉛直方向に7パターンの異なる幾何学模様が並ぶようにデザインされているため、外部から観察すると塔が7層を成すように見える[5][6][11][12]。基部は東西南北に四面を向けた直方体で、15.5メートルの高さがある[1][12]。基部はさらに地中8.8メートルのところまで埋まっている[1][12]。基部の東面にアーチ状の入口があり、内部に進入できる[1][12]。シャフト部の内部の螺旋階段を上がると、回廊とドームが設置された頂部に達する[1][12]。ミナレットは1796年に雷に打たれて一度損傷しており、頂部の回廊とドームは1925年の修復時に設置されたものである[1][12]

モスク本体とは独立してモスクの敷地内に一本だけという設置態様、直方体の基部及び円筒形のシャフト部という設計、焼成したレンガによる幾何学的な装飾といったミナレット建築の設計思想(バンナーイー英語版)は、11世紀前半のイランに始まり、中央アジアでも流行した思想である[1][12][6][11]マルディンシンジャールアルビールといった上部メソポタミアの街々にも見られる[6][11]。なお、焼成レンガを用いて表現されたミニマルで幾何学的な模様や装飾は、ペルシア語でハザールバーフ英語版と呼ばれる[13]

光のモスクのミナレットは傾いていることで有名であり、昔からアル=ハドバーゥ(アラビア語: الحدباء‎, ラテン文字転写: al-hadbāʿ、「反り返り」や「湾曲」の意。以下では定冠詞を省略して表記する。)という愛称で呼ばれている[2][3]。俗に「イラクの『ピサの斜塔』」とも呼ばれる[14]。19世紀にモスルを訪れた旅行者グラッタン・ギアリー(? - 1900)は、その外観を次のように伝えている。

ミナレットは地面から真っ直ぐに立ち上がっているが、頂部に至ると外側へ数フィート張り出すように傾斜している。頂部には回廊とドームがあり、ドームは再び真っ直ぐに建っている。ミナレットの姿勢はまるで人がお辞儀をしているかのようだ。[15]

14世紀にイブン・バットゥータがモスルを訪問した時には既に傾いており、ハドバーゥというあだ名も人々に受容されていた[5]。ハドバーゥの傾き・湾曲の原因については、中世以来議論が続けられており、神話的なものから科学的なものまで、種々の理由付けがなされてきた[16]。時系列が少々おかしいが、地元のムスリムの伝承では、ハドバーゥは、クルアーン第17章に語られるムハンマドの夜の旅フランス語版の際、ブラークペルシア語版にまたがって夜空を疾駆するムハンマドに敬意を示して自ら傾き、そのまま戻らなくなったとされる[16][17][18]。先述のギアリーが報告するところによると、19世紀当時のモスルに住むイスラーム教徒とキリスト教徒都の間では、当該ミナレットがお辞儀をしているように見えるという点で意見が一致しているものの、敬意の対象に関する意見が異なっていた[15]。ミナレットのお辞儀について、ムスリムは預言者ムハンマドへの敬意を示していると主張するのに対し、キリスト教徒はモスルの近くにあるアルビールの町から北へ1マイル行ったところにある聖母マリア廟に敬意を示すため、ミナレットが自ら頭を垂れているのだと主張していた[15]

ギアリーの旅行記にあるように、ハドバーゥの基底からの立ち上がり部分は、鉛直方向に比較的真っ直ぐに立ち上がっている。途中で湾曲が始まる点で、地盤の不等沈下により傾いているピサの斜塔と根本的に異なる。湾曲に起因する頂部の中心軸からのズレは、20世紀末の時点で、2.5メートルに達していた(ピサの斜塔は4メートル)[16]。ハドバーゥの湾曲の原因として中世から言われてきた比較的科学的な説としては、北西から吹く風が原因という説、隣接するレンガ間の接着に用いられている弱い石膏が原因という説などがある[16]。地元モスルの大学でハドバーゥの保全を訴えていた研究者は、ハドバーゥを構成するレンガが昼間日光にさらされることで一時的に膨張し、夜間に収縮することが繰り返されて南東側が縮んだという説を支持していた[16]。ハドバーゥの内側には石が積まれているが、外側の装飾レンガは土塊を焼成して造られており、20世紀末の時点では随所に亀裂が入っていた[16]

解体と再建、破壊[編集]

2013年iPhone4で撮影されたハドバーゥ

12世紀に建造された光のモスクは、1942年に、当時のイラク政府の改築キャンペーンの一環で、モスク本体とマドラサが一度解体された[5]。新たな建築プラン、新たな建材を用いて、マドラサの合体したモスクが建て直されたが、できたのは真四角で平凡なモスクであった[1][5]。中世の建築のまま維持されたのは、ハドバーゥだけであった[5]。イラクがイギリスの半植民地状態にあった時代、イラク国民に「サッダーム以上の悪政をしいた」と記憶されるヌーリー・アッ=サイード(この名前は「光の人」を意味する)が首相や外相、国防省などを兼務し、権力の絶頂にあったときに、イラク考古学庁の旗振りにより実行に移されたこの改築を、コロラド州立大学のウェブサイトなどは「破壊(destroy)」と表現する[1]

1942年の「改修」により残されたものは、ミナレット(ハドバーゥ)1本、2つのミフラーブ、大理石のレリーフの塊1つ、化粧漆喰による装飾いくつかのみであった[1]。1947年の調査では、ハドバーゥに倒壊の危険があることが示された[5]。1970年代からイタリア、ローマの企業にレストアが委託され、その工事が終わる前後に、イラン・イラク戦争が始まった[16]。レストア直後の1981年、イランの空爆によりモスルの街の下水設備が破壊され、光のモスクの庭から雨水の排水がうまく行かなくなった[16]。これによりハドバーゥは40.5センチメートルほどさらに南東方向に傾いた[16]。地元のシェイフはハドバーゥに昇ることを戒めたが、子どもたちは度胸試しで昇った[16]

2014年の6月にISによりモスルが占領され[19]、同年7月4日には、IS指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディーが同モスクの金曜礼拝に姿を現し、カリフ制の復活と、自らがカリフ預言者ムハンマドの代理人)になることを宣言した[20]

2017年6月21日、イラク政府軍によるモスル奪還作戦が進行する中、光のモスクのモスク本体及びミナレットが破壊された[2][3][4]。モスクの破壊について、イラク政府軍はISが自ら爆破したと主張したが、これに対してIS系の通信社・アマーク通信は同日付の速報でモスクの破壊は米軍機によるミサイル攻撃によるものであると報道し[2][3][4]6月23日には破壊されたモスク内部の映像と、米軍機による攻撃の証拠とされるミサイルの残骸の画像を公開した[21]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「フランク」は十字軍に対するムスリムや中東のキリスト教徒たちからの呼び名。
  2. ^ Wafayāt al-aʿyān wa-anbāʾ abnāʾ az-zamān

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 047. Mosul - Minaret of the Great Mosque of Nur al-Din and Mosque al-Nuri”. Cultural Property Training Resource, Iraq. US Dept. Defence. 2017年6月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Iconic Grand al-Nuri mosque in Iraq's Mosul 'blown up'”. Al Jazeera (2017年6月21日). 2017年6月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i “Battle for Mosul: Destruction of al-Nuri mosque 'shows IS defeated'”. BBC. (2017年6月22日). http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-40363671 2017年6月27日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g h i La grande mosquée Al-Nouri de Mossoul détruite”. Le Monde (2017年6月21日). 2017年6月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m Al-Hadba’ Minaret”. World Monuments Fund. 2017年6月27日閲覧。
  6. ^ a b c d e Anger after 800-year-old mosque is demolished by Islamic State”. news.com.au (2017年6月23日). 2017年6月27日閲覧。
  7. ^ a b Grousset, René (1934). Histoire des croisades et du royaume franc de Jérusalem. 2. Paris: Plon. pp. 920. 
  8. ^ a b c d e ابن خلكان. “قطب الدين مودود”. 2017年7月5日閲覧。
  9. ^ a b c Richards, Donald Sidney (2008). The chronicle of Ibn al-Athīr for the crusading period from al-Kāmil fi'l-Ta'rīkh: The years 541-589/1146-1193, Volume 2. Aldershot, Hants: Ashgate Publishing, Ltd.. p. 193. 
  10. ^ Michael Weiss; Hassan Hassan (2015). “Nour Al-Din et l'Irak”. In Hugo et compagnie. EI, État islamique, Au cœur de l'armée de la terreur. ISBN 978-2-7556-2244-7. https://books.google.fr/books?id=UHGJCgAAQBAJ&pg=PT39&dq=%22al-Nouri%22+Mossoul&hl=fr&sa=X&ved=0ahUKEwie66ey-s_UAhUIJsAKHVIYAYYQ6AEIMzAD#v=onepage&q=%22al-Nouri%22%20Mossoul&f=false. 
  11. ^ a b c d Petersen, Andrew (1996). Dictionary of Islamic Architecture. (Pbk. 1999. ed.). London: Routledge. p. 189. ISBN 978-0-203-20387-3. 
  12. ^ a b c d e f g h Manara Jami' al-Nuri al-Kabir”. 2017年6月30日閲覧。
  13. ^ George Potter. “Square Kufic”. 2017年6月30日閲覧。
  14. ^ Heartbreak over ISIS destruction of Mosul mosque and iconic minaret, Iraq's 'Tower of Pisa'”. Straits Times. 2017年6月22日閲覧。
  15. ^ a b c Geary, Grattan (1878). Through Asiatic Turkey: narrative of a journey from Bombay to the Bosphorus, Volume 2. London: Sampson Low, Marston, Searle & Rivington. p. 88. 
  16. ^ a b c d e f g h i j Sami, Mariam (1998年10月3日). “Is tower bowing or tumbling?”. The Associated Press. http://www.deseretnews.com/article/655157/Is-tower-bowing-or-tumbling.html 2017年6月28日閲覧。 
  17. ^ Luke, H. C. (1925). Mosul and its minorities. London: Martin Hopkinson & Co.. p. 19. 
  18. ^ René Guitton, Blessure d'Orient, Galaade Editions,‎ .
  19. ^ Kariml, Ammar (2014年7月31日). “In Mosul, resistance against ISIS rises from city’s rubble”. 2017年6月30日閲覧。
  20. ^ Strange, Hannah. 'Islamic State leader Abu Bakr al-Baghdadi addresses Muslims in Mosul'. 5 July 2014. The Daily Telegraph , retrieved 2 March 2017
  21. ^ http://bangordailynews.com/2017/06/24/news/nation/isis-claims-historic-mosque-in-mosul-was-destroyed-by-us-airstrike-but-video-evidence-suggests-otherwise/

関連項目[編集]

座標: 北緯36度20分35.49秒 東経43度7分36.74秒 / 北緯36.3431917度 東経43.1268722度 / 36.3431917; 43.1268722