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元文遙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

元 文遙(げん ぶんよう、生没年不詳)は、東魏から北斉にかけての官僚政治家は徳遠。本貫河南郡洛陽県[1][2][3]

経歴

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元晞の子として生まれた。員外散騎常侍を初任とした。父の服喪を終えると、太尉東閤祭酒に任じられた。戦乱がひどくなると、官を辞して林慮山に隠れた。東魏の武定年間、大将軍高澄に召されて大将軍府功曹となった[4][2][3]

北斉が建国されると、中書舎人となった。後に理由も定かでないまま獄に捕らえられた。年をまたいで文宣帝により釈放され、尚書祠部郎中として起用された。高演(後の孝昭帝)が大丞相となって政権を掌握すると、文遙は大丞相府功曹参軍となって、政権の機密に参与した。孝昭帝が即位すると、中書侍郎に任じられ、永楽県伯に封じられた。孝昭帝が落馬の負傷のために死の床につくと、文遙は平秦王高帰彦や趙郡王高叡らとともに遺託を受け、武成帝の擁立に参加した。給事黄門侍郎・散騎常侍・侍中・中書監をつとめた[5][6][7]

天統2年(566年)、高氏の姓を賜った。尚書左僕射となり、寧都郡公に進んだ。趙彦深和士開らとともに重用された。天統5年(569年)、高叡や婁定遠らとともに和士開の追放を画策したが、失敗して高叡が殺害されると、文遙は西兗州刺史として出された。武平年間、和士開の死後に東徐州刺史から召されて入朝したが、任用されることなく死去した[8][9][10]

子女

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  • 元行恭(尚書郎、中書舎人・待詔文林館、北周の司勲下大夫、開皇年間にまた尚書郎となったが、事件に連座して瓜州に流されて死去した)[11][12][13]
  • 元行恕(著作佐郎)[11][12][13]

脚注

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  1. 氣賀澤 2021, p. 481.
  2. 1 2 北斉書 1972, p. 503.
  3. 1 2 北史 1974, p. 2004.
  4. 氣賀澤 2021, pp. 481–482.
  5. 氣賀澤 2021, p. 482.
  6. 北斉書 1972, pp. 503–504.
  7. 北史 1974, pp. 2004–2005.
  8. 氣賀澤 2021, pp. 482–484.
  9. 北斉書 1972, pp. 504–505.
  10. 北史 1974, pp. 2005–2006.
  11. 1 2 氣賀澤 2021, p. 484.
  12. 1 2 北斉書 1972, p. 505.
  13. 1 2 北史 1974, p. 2006.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4