兀突骨

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兀突骨(ごつとつこつ)は、中国の通俗歴史小説『三国志演義』に登場する架空の人物。

南蛮にある烏戈国烏滸族)の王という設定である。身の丈十二尺(後漢の尺で276cm、の尺で288.2cm)の巨漢で、体が鱗で覆われている(皮膚が鱗状になる「魚鱗癬」という疾病は実際にある)。また穀物の類は一切食べず、生きた獣やを食べている。

油を藤の蔓に染み込ませて鎧状に編んで乾かした藤甲を着た、刀や矢も通用せず川などでは浮いて移動する最強の兵、藤甲軍を率い、自らはに乗っていた。6度蜀漢軍に敗走した孟獲に替わり蜀軍に大勝し苦戦させる。しかし、藤甲の製造法とそれゆえ火に弱いことを知った諸葛亮魏延に策を与え、魏延が何度も敗走して兀突骨を盤蛇谷に誘い込み、地雷により部下もろとも全員焼き殺してしまう。兀突骨軍全滅後、諸葛亮は兀突骨の軍勢に化け、孟獲が現れると諸葛亮らを討ち取ったと偽っておびき出して孟獲を捕らえたという。

しかしながら諸葛亮は、兀突骨ら藤甲軍全員を焼き殺すあまりの残虐さに自ら恐怖し、この報いで自分は長生きできないだろうと語り、これがその後の五丈原での病没の伏線となっている。ちなみに横山光輝の漫画『三国志』においては、兀突骨軍を殲滅してしまったことに諸葛亮が涙するも、配下の武将たちに慰められるという話になり、あくまで諸葛亮は正義であるというスタンスを保っている。

柿沼陽平は、木鹿大王金環三結・兀突骨・董荼那阿會喃朶思大王鄂煥などの南蛮武将に関する記載が末以前にまったくみえないこと、『三国志演義』の諸版本には登場することをふまえ、木鹿大王・金環三結・兀突骨・董荼那・阿會喃・朶思大王・鄂煥は元末初に羅貫中がつくりだした架空の人物であると指摘する。さらに兀突骨や朶思大王の名前の由来について「『世本』輯本・『風俗通義』姓氏篇・『潜夫論』志氏篇・『元和姓纂』・『通志』氏族略序等にも漢人姓の「朶」・「兀」は登場しない。魏晋南北朝期唯一の例として『万姓統譜』巻八四引の何承天姓苑』に朶姓が収録されるが、人名の実例はない。だが両字はモンゴル人名の漢訳(のち漢人姓化)として元代史料に散見する。とくに朶顔衛兀良哈三衛の中心で、元末明初の漢文史料に頻出する。その前身の東方三王家は鄂州襄陽における対南宋攻防戦で活躍した象徴的存在である。また兀良合台(兀良哈の長。スベエデイの子でトルイ家宿将)はモンケ期にクビライらと大理遠征を行ない、モンゴルの雲南支配(~1381年)を確立し、1256年にはモンケの命で南宋鄂州にも侵攻した。つまり兀良合台は南蛮との関わりが深い。しかも金文京は、関索伝説(諸葛亮南征時に関羽の子の関索が活躍したとの民間伝説)に基づく関索関連遺址が元明代雲南に多数創設され、それが兀良合台の進軍路に集中していることから、兀良合台伝承が三国志物語に影響を与えたと推測する。この点も鑑みれば、朶思大王と兀突骨が朶顔衛・兀良哈・兀良合台に由来する可能性は十分にある。しかも兀突骨は身長2丈(元明代の単位だと6.2m)で、「高く聳える」意の「兀突」(突兀や兀兀突突にも作る)でもある。現に「兀突骨」を「兀突」や「突兀国王」に作る版本(湯賓尹校本等)もあり、兀突骨の由来の一つを兀突・突兀(高く聳える)に求める一証たりうる。また「骨」も漢人名として類例がなく、むしろ「突骨」は「突兀」の通仮字と解するべきであろう。しかも「骨」は種族・家族を意味するモンゴル語(yasun)の漢訳でもあり、兀突骨は「高身長の種族」とも解釈でき、それは烏戈国兵が全員高身長とされる点とも符合する」と論ずる[1]

脚注[編集]

  1. ^ 柿沼陽平「木鹿大王攷――『三国志演義』とメルヴと雲南ナシ族をつなぐ一試論」(『中国古籍文化研究 稲畑耕一郎教授退休記念論集』下巻,東方書店,2018年3月,203-214頁)