修練農場
修練農場(しゅうれんのうじょう)は、1948年の農業改良助長法施行まで存在した日本の農業者向け教育施設。昭和農業恐慌対策である農山漁村経済更生運動の流れを受けて1934年から整備されたものであり、第二次世界大戦後に経営伝習農場への改称を経て農業大学校の母体となる。
沿革
[編集]日本の農業教育は、明治維新後に文部省を中心として農学校などが学校体系の中で整備されていったが、日本各地で統一的なカリキュラムを履修させていく教育内容には批判もあり、1920年代にはデンマークのフォルケホイスコーレを参考とした教育施設の開設が続き、1930年代に入ると昭和農業恐慌対策として講じられた農山漁村経済更生運動の中で即応的な農業教育・農村部の人材育成を主目的とした教育施設の整備・制度化が進められていく[1][2]。
1934年に農林省は「農村中堅人物養成施設助成方針」を定め、日本国民高等学校(日本農業実践学園)をモデルとした修練農場を各府県に設立していく[2][3]。修練農場は、文部省系統の学校体系には組み込まれず、農事講習所の一形態と位置付けられた[3]。制度発足当初の1934年に20箇所設置され、1938年には各府県施設の教員養成を目的とする八ヶ岳修練農場(八ヶ岳中央農業実践大学校)が開設する[1][3]。修練農場の設置数は1944年時点で50を超えた[3]。
第二次世界大戦の終戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指示を受け、1946年に「修練農場刷新に関する件」が発せられて教育内容の見直しが進むとともに1948年の農業改良助長法の施行によって施設の位置づけが変わり、1949年1月の農林省次官通達によって「経営伝習農場」と改称する[2][4]。経営伝習農場は、1977年の農業改良助長法の改正に伴い、自営農業者の養成を目的とする2年制の農業大学校へと再編されていく[1][4]。
教育内容
[編集]修練農場のモデルとなった日本国民高等学校は、デンマークのフォルケホイスコーレの影響を受けた全寮制の教育機関であり、少人数で実践的な教育を行うことを特徴とした[1][3]。1934年以降に整備された修練農場もこれに倣い、農場に併設された寮で教員と生徒が共同生活を送りながら農業技術や農業経営を学ぶスタイルを採った[1][3]。また、禊、参拝、武道など当時の農本主義に依って立った精神教育も行われ、戦時下には皇国思想との結びつきが強まっていく[3][5]。
満州国への移民運動が活発化するに伴い、開拓移民の訓練施設としての性格も持つようになり、1943年以降は皇国農村確立運動の拠点として機能が拡充していく[5][6]。戦時下の教育内容から戦争協力のための組織と受け止められ、終戦後の教育内容刷新へとつながっていく[1]。
終戦後は、連合国軍最高司令官総司令部から軍国主義的・全体主義的とされた内容が廃止され、食料の増産に重きを置いた教育内容となるが、修練農場の廃止を求める声は強く、1949年の経営伝習農場への改称へとつながっていく[2][7]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f 『戦後日本の食料・農業・農村 第10巻』農林統計協会、2003年、345-350頁。ISBN 978-4-5410-3107-5。
- ^ a b c d 『新版農業経営ハンドブック』全国農業改良普及協会、1993年、867-870頁。doi:10.11501/13271170。
- ^ a b c d e f g 上野忠義 (2014). “日本における農業者教育”. 農林金融 (農林中央金庫) 67 (4): 26-47.
- ^ a b 『新教育学大事典 第5巻』第一法規出版、1990年、458-459頁。doi:10.11501/13145882。
- ^ a b 高山昭夫『日本農業教育史』農山漁村文化協会、1981年、276-279頁。doi:10.11501/12633855。
- ^ 楠本雅弘、平賀明彦『戦時農業政策資料集 解題』柏書房、1989年、32-35頁。doi:10.11501/13068395。
- ^ 飯塚節夫『新しい農業普及の進路:普及事業の主体性確立に向けて』全国農業改良普及協会、1993年、331-334頁。doi:10.11501/13326692。