信玄公旗掛松事件

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日野春駅前にある信玄公旗掛松碑
(2013年4月5日撮影)
風林火山の旗

信玄公旗掛松事件(しんげんこうはたかけまつじけん)は、1914年大正3年)12月に一本の老松が蒸気機関車の影響で枯れたことから、所有者の清水倫茂(しみずりんも)[† 1] が1917年(大正6年)に国を相手取り起こした損害賠償請求事件である。

この松樹は武田信玄軍旗を立て掛けたという伝承・由来のある「信玄公旗掛松」と呼ばれていた老松で、国鉄(現JR東日本中央本線日野春駅山梨県北杜市長坂町富岡)駅構内に隣接した線路脇に生育していたが、老松の所有者(地権者)であった清水倫茂は、蒸気機関車煤煙蒸気振動などにより枯死してしまったとして、一個人として国(鉄道院)を相手取り訴訟を起こした。

国家賠償法成立以前の、大正年間1910年代 - 1920年代)に起きた当訴訟事件は、鉄道事業という公共性の高いものであっても、「他人の権利を侵略・侵害することは法の認許するところではない、松樹を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である。」、すなわち「権利の濫用」に当たると司法によって判断され[1]第一審甲府地方裁判所第二審東京控訴院に続いて、上告審大審院(第二民事部)に至るまで、原告である清水倫茂が被告である国に勝訴した歴史的裁判であった[2](大判大正8年3月3日民録25輯356頁)。

これは近代日本の民事裁判判決において、権利の濫用の法理が実質的に初めて採用された民事訴訟案件であり、加害者の権利行使の不法性(違法性)について重要な判断が示されるなど[3]、その後の末川博我妻栄青山道夫ら、日本の法学者による「権利濫用論」研究の契機となった、日本国内の法曹界では著名な判例である[4][5][6]

事件の背景としての地理関係[編集]

七里岩台地と日野春原野[編集]

日野春駅(2013年4月5日撮影)
信玄公旗掛松事件の位置(山梨県内)
信玄公旗掛松
信玄公旗掛松
信玄公旗掛松の生育していた位置

信玄公旗掛松(しんげんこうはたかけまつ)と呼ばれた老松がかつて生育していた所在地は、山梨県旧北巨摩郡日野春村字富岡26番地(現、山梨県北杜市長坂町富岡)、今日のJR東日本中央本線日野春駅構内南東側の線路脇である[7][8]

日野春村の立地する八ヶ岳南麓一帯は近世において、逸見路(へみじ)、信州往還(甲州街道原路)、棒道など、甲府盆地信州諏訪地方を結ぶ複数の街道が通過していた交通の要所であり[9]、これらの街道のうち日野春村は信州往還(2015年現在の山梨県道、通称「七里岩ライン」に相当)の道筋にあたる[10]

日野春(ひのはる)付近は、八ヶ岳泥流と呼ばれる火山泥流によって形成された七里岩台地の上面にあたり[11]、かつては別名、日野春原野(ひのっぱらげんや[12])とも呼ばれた雑木林が広がる原野であり、台地上という地形のため古来より水利の便が悪く、開発の遅れていた一帯であった。明治初年頃より徐々に開拓が始まり、1873年(明治6年)に山梨県令藤村紫朗[† 2] による「日野春開拓計画」が策定され、翌明治7年、日野春新墾地移住規則が通達された。こうして募集された移住者により日野春付近の原野は開墾され開発された。日野春駅の所在する字名富岡とは、県の開拓指導の責任者であった富岡敬明から名付けられた地名である[13]

当地を通過する中央本線は、釜無川塩川支流の鳩川に挟まれた七里岩台地の尾根上を、複数のスイッチバック[† 3] により最大25パーミル[14] の急勾配で登る経路で敷設されており[† 4]、信玄公旗掛松は日野春原野のほぼ中央、七里岩台地分水嶺のちょうど真上、標高約600メートルに生育していた。

七里岩台地先端部付近の空中写真(1976年撮影)。画像右下の市街地が韮崎、ここから中央本線は七里岩台地の急勾配を登っていく。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
日野春駅付近の空中写真(1976年撮影)。
左の画像の延長線上に当たる範囲。
西を釜無川、東を塩川支流の鳩川に挟まれた台地上(尾根上)に信玄公旗掛松があり、その尾根上に中央本線と日野春駅が設置されたことが分かる。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成


信玄公旗掛松[編集]

信玄公旗掛松。健在な頃の1906年(明治39年)の撮影。松樹のすぐ側にレールが敷設された様子が分かる。日野春駅東南側より、下り線方向(諏訪側)を撮影した写真。

信玄公旗掛松は、高さ約15メートル、木の周り約7メートルにおよぶ巨木であり、別名「信玄公旗挙松」、「信玄公旗立松」、「甲斐の一本松」などとも呼ばれた老松であった[15]。ただ、武田信玄の時代よりも後世のものであることが、後述する裁判過程で国側の鑑定により明らかにされた。

しかしながら、見晴らしの良い丘の上に立つこの一本松は、古来から名の知れた名木であることに変わりはなく、甲斐源氏の祖である逸見清光(源清光)が、ここに物見櫓を置き、戦が始まると、松に軍旗が立てられ農民兵を集めたという伝承が残されており、武田信玄もまた、この松樹に「孫子の旗」を立て掛け目印とし[16]、周辺の家臣、農民兵を集めたという話が、天明年間1781年 - 1789年)に著された加賀美遠清の『甲陽随筆』に見られるなど[17]、古くからこの地域の人々にとって代々親しまれた名木であった[† 5]

山梨県内には信玄堤信玄の棒道信玄の隠し湯など、到るところに武田信玄ゆかりとされるものが残されており、この老松もそうしたものの一つであった[8]

このような由緒ある古木、名木に隣接した位置に鉄道を敷設するようなことは、自然保護、文化財保護等の理解が浸透した現代の感覚からすると考え難いことである。しかし現実に、信玄公旗掛松の根元から至近距離にレールが敷かれたことによって本訴訟事件は発生した。

日本では人的記念物の保存については古くから関心が高く[18]1871年(明治4年)5月23日に公布された太政官布告古器旧物保存方に続いて、1897年(明治30年)には古社寺保存法の公布があったが、これらはいずれも神社仏閣等の人的記念物を対象としたものであり、植物動物地質鉱物など、自然環境を対象とした文化遺産に関する保護制度は一元化されていなかった。1919年(大正8年)になり史蹟名勝天然紀念物保存法が制定されたことによって、初めて日本に天然記念物という概念が成立した[18]。信玄公旗掛松が枯死したのは、その5年前の1914年(大正3年)年末のことであった。

事件の背景としての鉄道事業[編集]

甲武鉄道の社章

1872年(明治5年)に新橋駅横浜駅間が開業されたのを皮切りに、日本の各地では鉄道の建設が急速に発展していった。当初、政府主導で始まった鉄道事業は、民間による鉄道会社設立敷設の動きが、企業家を中心として始まった。当時鉄道は、企業家が競って投資の対象とするほど、将来の発展が約束された魅力的な産業でもあった[19]

中央本線の敷設については、東京から立川方面へ鉄道を敷設する民間会社甲武鉄道1886年(明治19年)に設立され[† 6]、3年後の1889年(明治22年)4月11日に、新宿駅立川駅の区間で開業し、同じ年の8月11日に八王子駅まで延伸された。この甲武鉄道は甲州財閥と呼ばれる山梨県出身の実業家、雨宮敬次郎若尾逸平を中心として設立されたもので、社名の甲武鉄道とは甲州(現:山梨県)と武州(現:東京都)を結ぶことを目的としたものであった[20]

一方で、これら私設鉄道(私鉄)の計画が日本全国で過熱気味になり、中には投機目的の誇大な計画が増えるなど問題化し始めた。この流れを受けて、幹線鉄道はなるべく国が主体となって設けるべきとの方針を国は取るようになる[21]。そして1892年(明治25年)に制定された鉄道敷設法へ、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布へと、私鉄国有論は台頭していった。鉄道敷設を取り巻くこのような流れの中、甲武鉄道として八王子まで開業していた中央本線は、八王子から西は国が主体となって建設する方針が取られた。1896年(明治29年)、八王子駅塩尻駅(現:長野県塩尻市)間の工事が開始され、難工事の末貫通した笹子トンネル等の完成により、1903年(明治36年)6月11日に甲府駅まで、同年12月15日に韮崎駅まで開通し、韮崎から県境を越えた富士見(現、長野県諏訪郡富士見町)までの区間は1904年(明治37年)12月21日に開通した。信玄公旗掛松事件で問題となった日野春駅は、この「韮崎 – 富士見」の区間に所在する。次いで1906年(明治39年)10月1日、国は甲武鉄道(新宿 - 八王子)を買収し、八王子から西の国有鉄道と一体化され、今日の中央東線の原型となった[22]

「国は悪をなさず」という認識[編集]

鉄道院2120形蒸気機関車

当初、国有鉄道は逓信省が管理していたが、1907年(明治40年)4月1日に逓信省から帝国鉄道庁が独立し、翌1908年(明治41年)12月5日に後藤新平を初代総裁として鉄道院が発足した。その後1920年(大正9年)に鉄道省が設立されるまでの約13年間、国の鉄道は鉄道院により管理運営が行われた。信玄公旗掛松事件はこの鉄道院時代に起きた事件であった。

前述したように中央本線の開設は、国が主体となり建設が行われたものである。そして開設の背景には日清日露の両戦を通じて、鉄道輸送の重要性を認識し、幹線鉄道の国有化を推進した軍部の思惑、要請が大きかったと言われている[23][24]

このように鉄道院時代の日本における鉄道の役割は、国家目的の遂行、しかも国防上の目的という考え方が背景にあり、一般の人々にとって鉄道は国のもの、「国は悪をなさず」という考え方が強かった。たとえば、1909年(明治42年)、中央本線沿線の武蔵野市(当時の東京府北多摩郡武蔵野村)で蒸気機関車の火の粉によるボヤが生じ、被害者が鉄道院に補償を求めたところ、鉄道院はこれを全く受け付けなかったという[25]。また、事故も頻発していたようで汽車をもじって「人ひき車」と揶揄されるほど、被害も生じたというが、これらの賠償問題がどのようにして処理されていたのか記録が残されておらず、被害者の救済がどのように行われたのか不明であるが、今日で言う無過失責任に近い処理が行われたと考えられている。いずれにしても「国の権威を背景にした鉄道院」、「国は悪をなさず」という世間一般の鉄道に対する認識が、信玄公旗掛松事件の生じた背景に控えていたと言える[26]

裁判の経過[編集]

日野春駅から望む八ヶ岳(2013年4月撮影)

信玄公旗掛松事件は煤煙によって被った被害をめぐる煙害事件であり、今日で言う公害問題に属する事件である。それに加えて「権利濫用」の法理が日本で初めて実質的に法廷で取り上げられた点や、その3年前(1916年)の大阪アルカリ事件に続いて、権利者による権利行使が「不法行為」に該当し責任を問えるのか争われた点に、信玄公旗掛松事件の特筆性がある[3]。そのため日本国内の法学部等における民法講義で、権利濫用の古典的事例として採り上げられる[27][28] ほど、日本の法曹界では著名な事件である。だが、社会一般的にはあまり知られた事件ではない[2]。たとえば1969年昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて、当時の国鉄が編纂した『日本国有鉄道百年史』という全19巻にもおよぶ詳細な書物の中でも、わずかに他の公害問題の箇所にこの事件が引用されているだけである。この点について法学者である川井健一橋大学名誉教授は、「国鉄当局にとってこの事件は、さほどとるに足りない事件であったのかも知れない」、との見解を示している[29]。このように敗訴した立場である当時の国側(鉄道院)の観点に立った資料は極めて少ない[† 7]

本記事では、中立的観点に立った法学者郷土史家ら識者が、現存する「裁判記録正本」、「関連原文書」、「新聞記事」等を、検証、考察し、まとめ上げた複数の二次資料文献を出典とした。なお、当事件の判決文記録には、活字になった『民事判決録』(民集)等が存在する[30] が、以下、本記事中に引用した判決文および裁判に関連する各種文書は、本記事末尾の参考文献節に提示した二次資料に記載されたものを、一部省略改変の上、適宜引用した。

当訴訟の経過は非常に込み入っており、以下に示す時系列順に合計8つの判決・決定が存在する[31]

(1) 甲府地判大正7 (1918)・1・31 判例集未登載
中間判決。原告の請求原因を正当とする。
(2) 東京控判大正7 (1918)・6・4 判例集未登載
(1)の控訴審。闕席判決により控訴棄却。甲府地裁に差戻し。
(3) 東京控判大正7 (1918)・7・26 新聞1461号18頁
(2)に対する故障申立て。(2)判決を維持。
(4) 大判大正8 (1919)・3・3 民録25輯356頁
上告棄却(この判決が、いわゆる「信玄公旗掛松事件」と呼ばれる判例である)。
(5) 甲府地判大正10 (1921)・2・15 判例集未登載
被告に金499円(うち50円は慰謝料)の支払いを命ずる。
(6) 東京控判大正11 (1922)・4・11 判例集未登載
(5)の控訴審。被告に金72円60銭(うち50円は慰謝料)の支払いを命ずる。
(7) 東京控判大正13(1924)・12・25 判例集未登載
(6)に対する更正申立。賠償額・訴訟費用負担割合に関する更正申立を却下。
(8) 甲府地決大正14(1925)・9・28 判例集未登載
訴訟費用額(241円71銭2厘5毛。原告が9割を負担)を決定。

上記のうち、(1)から(4)までが「責任の有無」に関するもの、(5)から(7)までが「賠償額算定」に関するもの、(8)は「訴訟費用額」に関するものである。このうち(1).(3).(4)が、後の権利濫用論に影響を与えた重要なものである((2)は理由を欠く)[32]。したがって以下、本記事中に全文引用する判決文は、責任の有無を争った一審の甲府地方裁判所判決から大審院判決((1)から(4))までのみとし、甲府地方裁判所に差し戻された後の賠償額算定、訴訟費用額決定に関する判決文((5)から(8))の全文引用は割愛した。これら原文はすべて縦書きである。また、裁判関連各文書原文中の記述には、数値等の一部に矛盾するものや、誤記、誤植と思われるものがあり、それらについては該当部に原文ママの注釈を加えた。なお、以下の事実(信玄公旗掛松の枯死)につき当事者間に争いはない[33]

この節では、枯死原因の発端となった、当地に中央本線を敷設し日野春駅を建設する計画が具体化した1902年明治35年)5月から、当事件の裁判がすべて終結する1925年大正14年)9月までの、約23年間におよぶ経緯を時系列に沿って記述する。

提訴に至るまでの経緯[編集]

信玄公旗掛松の所有者であった清水倫茂が、国(鉄道院)を相手取り訴訟に踏み切ったのは、1917年大正6年)1月の甲府地方裁判所への提訴であった。しかし、この提訴に至るまでの過程には、清水が国、鉄道院に対し、信玄公旗掛松への保全保護対策を行うよう要望する陳情を再三にわたり訴え続けたにもかかわらず、それが受け入れられず、ついに老松が枯死してしまったという経緯が背景にあった[34]

事件の発端[編集]

清水倫茂(1865-1936)

当訴訟事件の当事者原告)であった清水倫茂は、山梨県北巨摩郡甲村(かぶとむら、現:北杜市高根町下黒沢)の旧家である清水家、清水啓造の長男として、元治元年12月7日 (旧暦)グレゴリオ暦1865年1月4日)に生まれ、父啓造から1888年明治21年)7月に家督を相続した後、1893年(明治26年)12月に、甲村の村会議員に初当選し、2年後には甲村の助役になる。清水倫茂は曲がったことを嫌い、自分の思うことは自由に行うという[35]、いわゆる熱血漢タイプの人物であったと言われており[36]、周囲を引っ張っていく親分肌的な行動力により地域社会で頭角を現し、1898年(明治31年)4月に33歳という若さで甲村の村長に就任し、さらに1903年(明治36年)9月には北巨摩郡の郡会議員に当選するなど、言わば地元の有力者、かつ実力者、かつ資産家であった。大正期に一個人として国を相手に訴訟を起こすことができたのも、清水が裁判費用を捻出できるだけの資産家であったからでもあり、事件発生当時には、合資会社甲斐銀行の取締役頭取を務め、甲村にある自宅において「甲斐銀行日野春支店」を開業していた[37]

甲村は信玄公旗掛松の生育する日野春村富岡から見て、すぐ北東に隣接した位置に当たる。甲村の清水にとって日野春村は隣村である。しかし中央本線敷設が計画された一帯は、先祖代々清水家の土地であり、1902年(明治35年)当時は清水倫茂の所有地であった。つまり、そこに生育していた信玄公旗掛松は、清水倫茂が所有権を持つ個人所有物であった。

東京方面から甲府駅まで着工されていた中央本線を、信州諏訪塩尻方面へ延伸する計画は、数年前からルートの検討が行われていたが、日野春村を含む周辺8か村による「停車場位置請願書」提出などの誘致活動が行われ[38]、日野春村字富岡に停車場が設置されることが1896年(明治29年)に内定し、1902年(明治35年)に正式決定された。

日野春駅設置決定を知った近隣の人々は喜び、これを歓迎した。その一方で地権者であった清水倫茂は、鉄道院が作成した詳細な計画図面を見て驚いた。その図面によると、信玄公旗掛松の根元から西側にわずか一間(約1.8メートル)足らずという至近距離に、停車場と線路が敷設される計画であったからである[39]

鉄道院への上申書提出[編集]

上申書
上申書に添付された図面

20世紀初頭の当時、多くの日本人にとって鉄道、蒸気機関車は未知なる乗り物であり、文明開化の象徴として捉えられる一方で、機関車から排出される煤煙による悪影響を懸念する声もあった。計画図を見た清水もまた、蒸気機関車の煤煙による信玄公旗掛松への影響を危惧する。計画図通りに敷設されると、松樹から張り出した10数本のは、線路上に覆い被さるような形になり、蒸気機関車から噴出する煤煙を枝葉が直接被ることは明らかであった。また、根元の至近距離に敷設するとなると、施工に伴い老松の根元付近を掘り返したり、盛り土を施す等の工事が予想され、土中にある松樹のを損傷する恐れもあった。清水は信玄公旗掛松の衰弱や枯死を恐れ、鉄道を敷設するのは松樹から離れた位置に変更してもらえないかと、1902年(明治35年)5月6日付で、「鉄道作業局八王子出張所長」古川阪治郎宛に「上申書」を提出した[40]

鉄道作業局八王子出張所長 古川阪治郎殿
右奉上申候儀ハ拙者所有地タル同郡日野春村字富岡第貮百拾六番郡村宅地四畝九歩内ニアル老松即チ甲斐ノ一本松(一名ヲ信玄旗立松トモ云フ、此所以ハ甲斐国史並ニ古書歴史等ニ明瞭ナル古蹟ナリ)ノ根株ヨリ僅々一尺ママ余リヲ隔リ候ノミニテ鉄道線路敷地ト相成リ候ニ付テハ、該老松大枝十数本凡ソ五間以上線路内ヘ繁茂シ、且ツ大根等モ数本地上ヘ現出致シ居リ候ニ付キ、工事ノ際取土又ハ置土等ノ事ハ工事上当然ノ儀ニ有之候。果シテ然ラバ終ニ枯死スルノ恐レアルヲ以テ、該老松ヲ永遠ニ維持スル為メ根株ヨリ大凡貮間以上線路ノ変更相成リ度、若又変更ノ儀相成リ兼候ハヾ別紙図面ノ通リ測量ノ際、老松ヲ除却スル為メ特ニ線路ニ屈曲有之、現ニ前後ノ黒杭ヨリ見透ス時ハ老松線路内エ入ルヲ以テ相当代価ニテ買収相成リ度、実地御調査ノ上、何分ノ御詮議相仰せギ度此段及上申候也。
— 上申書、清水倫茂、明治35年(1902年)5月6日[40][41]

しかし、この要求は「鉄道事務掛長・北巨摩郡長 松下賢之進」から「甲村長代理・助役 小尾濱吉」へ宛てた、同年6月23日付文書(鉄第四八二号ノ一)をもって却下された。

甲村長代理助役 小尾濱吉殿
貴村清水倫茂ヨリ別紙之通リ上申書差出候ニ付、其筋ヘ進達候処右ハ最初設計ノ際、該老松ニ支障ヲ与ヘザル様特ニ線路ヲ迂回シタル次第ニシテ、施工上松樹ヘ影響ヲ及ボスガ如キハ万無之旨ヲ以テ、書面却下相成候条其旨御示論ノ上別紙反面返戻方御取計相成度。
— 鉄第四八二号ノ一、鉄道事務掛長・北巨摩郡長 松下賢之進、明治35年(1902年)6月23日[42][43]

この返答によれば、鉄道院としても老松への影響は特に配慮しており、老松に影響を与えぬよう迂回するなど、最初から考えて設計したのであり、また、施工工事により老松に害が及ぶようなことは無い、という内容であった。なお、この文書の宛先が清水ではなく、「甲村助役小尾濱吉」宛となっているのは、甲村村長が他ならぬ当事者の清水倫茂であったためであると考えられている[44]

上申書が却下された清水は、自らの訴えを袖にされたことを不当に思い、「本当に支障がないのであるならば、今後は松の枝、一枝たりとも伐採することは承知致しかねる」として、改めて線路経路の変更を強く求め[45]、同年8月5日付で古川阪治郎宛に再度上申書を提出し、さらに三度目の上申書を9月5日付けで提出する。しかし、清水の訴えは解決されることのないまま、当初の計画通り工事は着工された[46]

信玄公旗掛松の枯死[編集]

日野春駅構内に残る給水塔(右)
左は鉄道員の生活用水のための貯水槽である。(2013年4月撮影)

実際に工事が開始されると、清水が危惧していた通り、線路上に覆い被さる形になった信玄公旗掛松の枝葉が、機関車運行の障害になることが分った。鉄道を通すためには枝葉を除去しなければならず、鉄道院からの1903年(明治36年)12月3日付の申し出による補償料「金弐拾円也(20円)」で清水は止む無くこれを了承し、信玄公旗掛松の枝葉10数本が枝打ちされた。なお、この「請書」は清水倫茂の先代(父)である清水啓造名義で作成されているが詳しい経緯は不明である[47]

こうして1904年(明治37年)12月21日、中央本線の韮崎駅から富士見駅までの区間が開通したのと同時に日野春駅は開業した[48]。なお、2014年現在の同区間には合計6駅が存在するが、開業当初は日野春駅と小淵沢駅の2駅しか設けられていなかった。また、日野春駅の設置された場所は、韮崎方面から七里岩台地、八ヶ岳南麓へと登り詰める急勾配区間の中間点にあたり、蒸気機関車の給水を行うための給水塔が設けられた[49]。蒸気機関車時代、すべての下り列車が給水のために停車する[50] 日野春駅は、旅客の取り扱いだけではない運行上の重要な役割を担っていた。

駅が開業したことにより、近隣の人々の暮らしは便利になった一方で、日野春駅まで登ってきた蒸気機関車の熱い蒸気や多量の煤煙は当然、信玄公旗掛松に噴き付けられた。設置された給水塔は松樹の近くにあり、煙を吐き続ける機関車が松樹の傍で給水のため長時間停車し、機関車の振動にさらされ続けるなど悪条件も重なった。さらに、1911年(明治44年)には、駅構内に鉄道の待避線が新たに引かれ、これに伴いレールと松樹の距離は更に狭まってしまう[16]。開業当初に約4間(約7メートル)であった信玄公旗掛松の根元とレールとの実距離は、1間(約1.8メートル)未満となってしまったのである[8]。これに追い討ちをかけるように同年9月18日未明、日野春駅構内で転轍手の不注意による貨物列車脱線事故が発生し、脱線した機関車が信玄公旗掛松に激突、松樹の大枝が数本折れてしまう。ただでさえ煤煙や蒸気、振動により衰弱していた老松にとって、この脱線衝突事故によるダメージは大きく、この事故に対し鉄道院は慰謝料として15円を清水に支払っている[16][47][51]

原敬

これ以上の老松へのダメージは、取り返しのつかない最悪の結果を招きかねず、清水は2ヵ月後の同年11月、蒸気や煤煙と松樹とを隔てる「ガス防除設備」設置を要求する上申書を、時の鉄道院総裁原敬宛に提出した。

帝国鉄道院総裁 原敬殿
……(前略)松樹ノ根株ヨリ僅ニ一尺ヲ隔リタルノミニテ鉄道敷地ノ相成、現ニ老松ノ枝下ニ線路ヲ布設致シ候故、目下松枝ハ瓦斯ノ為メ(否ナ火ノ為メ)ニ焼枯シタル大枝数本有之、特ニ本年九月拾八日機関車転覆ノ際、該老松ノ大枝数本折損シ、障害物除却シタルヲ幸ヒ今回老松ノ根元僅ニ一尺ヲ隔リタル所ハ線路ヲ増設スルニ当リテハ今後数年ヲ経ズシテ老松ノ焼枯セル事ハ明瞭ニ有之候間、老松保存上必要ニ付キ、此際実地御検査ノ上相当ノ瓦斯除建設相成度別紙参考書相添ヘ此段及上申候也。
— 瓦斯除建設ニ付上申書、山梨県北巨摩郡甲村十六番戸 啓造相続人 清水倫茂、明治44年(1911年)11月[52][53]

当時の鉄道院総裁である原敬は、後に第19代内閣総理大臣となる人物である。これまでの出張所長宛への訴えと異なり、組織のトップである鉄道院総裁へ直接訴えた上申書は、「衰弱した老松を何とか守って頂けないだろうか」、「実際に現地へ御足労願い、枯死の危機に瀕する老松を直接御覧頂けないだろうか」、という、清水の切実な懇願であった。

しかし、この要求も履行されることはなく、日野春駅開業からちょうど10年を経過した1914年(大正3年)12月、ついに信玄公旗掛松は枯死してしまう。先祖代々同地の地主として信玄公旗掛松を大切に守り続けてきた清水の落胆は察するに余りあるものであった。翌1915年(大正4年)12月10日付の『甲斐新聞』は、「名木の枯死」として清水倫茂が取り組んできた経緯を報じている[54]

鉄道院への直接損害賠償請求[編集]

添田壽一
枯死直後の信玄公旗掛松。日野春駅から上り線方向(甲府側)を撮影した写真。
上記枯死写真と、ほぼ同じ場所を撮影した2013年4月の様子。

1916年(大正5年)4月15日、清水倫茂は添田壽一鉄道院総裁(当時)宛に「松樹枯死ニ付賠償請求書」を提出し、賠償料2,000円と慰藉料として1,000円の、合計3,000円の損害賠償を直接要求した。この請求で清水は「去ル明治四十四年十一月中別紙第五号証写ノ如ク瓦斯除ヶ建設ヲ上申候モ御採用ニ至ラズ、遂ニ昨大正四年末に全ク枯死セリ」と訴えている。

鉄道員総裁 添田壽一殿
見積計算書
一、金弐千円也 但松枝弐百八拾五把七分 壱把金七円ノ見積リ
右鉄道敷設ノ際松枝伐採見積リ三把賠償金弐拾円也
明治四十四年九月十八日機関車脱線ノ際松枝折傷見積リ弐把賠償金拾五円、合計三拾五円、五把ニ対スル賠償金、壱把平均七円也。右之割合ヲ以テ頭書ノ金額。
一、金壱千円也 但松樹枯死ニ対スル慰藉料
合計金参千円也 ……(後略)
— 松樹枯死ニ付賠償請求書、山梨県北巨摩郡甲村十六番戸 清水倫茂、大正5年(1916年)4月15日[55][56]

清水が松樹本体の賠償金算定額を2,000円としたのは、明治36年の鉄道敷設時に伐採された松枝3把の賠償金20円、明治44年の貨物列車脱線事故時の賠償金2把に対して15円、計5把に対する賠償金の合計が35円であったことが根拠にあった。

つまり、(35円)(5把)(円) となり、1把あたりの平均は7円となる。
枯死後見積もった松樹全体の把数は、合計2857であったので、(杷)(円)になる、とするものであった。

この直接賠償請求に対し鉄道院からは、総官房文書課長名義による同年6月20日付「官文第402号」として、次の拒否返答があった。

清水倫茂殿
客月十五日御請求ニ係ル山梨県北巨摩郡日野春村字富岡第二十六番地所在松樹枯死ニ付損害賠償ノ件ハ非常ニ気之毒、御来意ニ応ジ難ク候間、不悪御了知被下度候。
— 官文第402号、鉄道院総裁官房文書課長、大正5年(1916年)6月20日[57][58]

鉄道院からのこの拒否回答をもって、清水倫茂は「信玄公旗掛松事件」と後に呼ばれることになる歴史的訴訟へ踏み出していくこととなった[58]

甲府地方裁判所への提訴[編集]

弁護士・藤巻嘉一郎[編集]

藤巻嘉一郎(1872-1946)

清水倫茂は訴訟代理人弁護士藤巻嘉一郎(ふじまき かいちろう)[† 8] を立て、1917年(大正6年)1月6日、国(鉄道院)に対する損害賠償請求を甲府地方裁判所に提訴した[59][† 9]

藤巻嘉一郎は1872年(明治5年)7月2日、日野春村にほど近い北巨摩郡清哲村(現山梨県韮崎市清哲町)に出生し、同じ村の藤巻貞長の養女ためと結婚し藤巻家を継いだ。1896年(明治29年)7月に司法省指定の明治法律学校を卒業し、同年11月に判検事登用試験に合格すると、12月には司法官補佐に任命され、検事代理として岐阜区裁判所に赴任した。その後、岐阜県内数ヶ所の裁判所で判事を務め、1900年(明治33年)12月に、生まれ故郷である山梨に戻り、甲府地方裁判所の判事に赴任した。その後、1908年(明治41年)1月に弁護士業を独立開業し、甲府地方裁判所検事局の弁護士名簿に登録され、1914年(大正3年)4月には甲府弁護士会の会長に選出されていた[60]

藤巻の出身校である明治法律学校は今日の明治大学の前身校であり、当時の日本では和仏法律学校(現法政大学)と並ぶフランス法を主体とした法律学校であった。したがって、明治法律学校出身の藤巻はフランスの「権利濫用論」を学んでいたものと考えられている。ただし、当時のフランスにおける民法では、権利濫用に関する直接的な規定は設けられておらず、あくまでも考え方として権利濫用の理論、法理が発展していた[61]。藤巻は当時の日本では法理論として未確定であった権利濫用論を信玄公旗掛松事件の弁護で推し進めた。この裁判を勝訴に導いた要因のひとつは、藤巻がフランスにおける権利濫用論を身に付けていたことが大きく影響したと考えられている[62] が、真偽を確認することはできない。しかし、大審院判決に携った柳川勝二判事がフランス法に造詣の深い裁判官であったという指摘もあり、信玄公旗掛松事件の権利濫用論をフランス法と結びつけることは可能かもしれないと、東京大学大学院法学政治学研究科教授大村敦志は述べている[63]

提訴をとりまく報道と口頭弁論[編集]

1916年(大正5年)4月28日付山梨日日新聞

この頃になると、一連の騒動は地元新聞各社によって取り上げられ、詳細に報じられ始めていた[16]1916年(大正5年)4月26日付山梨日日新聞では、『名松枯死の損害要求、鉄道院総裁に対して』として採り上げられ、論説(社説)では世界の事例を引用し解説した。続く4月28日付記事では『旗立松ママの損害は果たして取れるものか?』とする見出しで、匿名弁護士による論述が紹介され、5月4日付の記事では「賠償の責任なし」とする鉄道院側の意見が紹介された。また、山梨毎日新聞4月28日付記事では『前例の無い興味ある問題、松樹の損害賠償』の見出しで、「東京に於ける某法律家は本件は未だ前例の無い問題である」と語ったことを伝え、「欧米に於いても盛んに論争されて居るが我国では未だ大審院の判例が無い」、として権利濫用の問題にも言及している[64]

このように、実際に提訴が行われる半年ほど前から、地元では社会問題、法律問題として報道されており、人々の関心と注目を集めていた中での提訴であった。清水倫茂が甲府地方裁判所に提訴した翌日の、1917年(大正6年)1月7日付山梨日日新聞では『名松枯死の損害賠償訴訟、鉄道院で却下されて裁判所へ』の見出しで以下のように報じられている。

名松枯死の損害賠償訴訟、鉄道院で却下されて裁判所へ
……(前略)鉄道院にては右名松の枯死たるは自然の作用にて鉄道の為に非ずとの見解にて、右請求を拒絶したるを以って今回清水氏は法廷に於いて之を争ふ事と為し、昨夕藤巻弁護士を代理人として松の代金千二百円、慰藉料として三百円、合計千五百円を請求すべく後藤鉄道院総裁を相手取り甲府区裁判所へ提出したり。
— 山梨日日新聞 大正6年1月7日[65]

清水倫茂による提訴の要点は

  1. 老松が枯れたのは鉄道院に責任があるので、
  2. 鉄道院は賠償金の内、金1,200円と慰藉料300円の計1,500円を原告へ支払い、
  3. かつ訴訟費用は鉄道院が支払うこと、

この3点の要求であった。

対する鉄道院側は、

汽車を運転する上において石炭を使用し、その結果煤煙が噴出するのはあくまで営業権の行使の結果であり不法行為ではない。従って国には賠償する責任はない。老松の枯死は自然の作用である」

このように述べ、鉄道院に過失責任は無いと主張した[16]

1916年大正5年)撮影の甲府地方裁判所

第一回口頭弁論は2月6日午前11時より、甲府地方裁判所民事部において開廷した。口頭弁論の詳細な内容については、調書等の存在が確認できず不明である。ただ、翌2月7日付の山梨日日新聞では、「東裁判長係り木村・栗山両判事陪席にて、原告代理人としては藤巻弁護士、被告代理人としては本院より参事中原東氏出廷したるが、問題が問題だけに甲府運輸事務所より工富所長・植原・石岡・竹村各書記他十余名傍聴に来れるは人目を惹きたりし。斯て裁判長より一応事実調べありて後、原告側より証拠申請の為め延期を求め許可となり、結局来る二月二十四日開廷と決定して閉廷」と、報じられている。また、同紙面では鉄道院の主張として、「右松は煤煙の為め枯死したるものに非ずして熊蜂が巣を作りし為め枯死するに至れるなりと云ひ居れりと云」と、被告側の主張も取り上げている。続く2月24日に行われた第二回口頭弁論では、現場検証鑑定人依頼が裁判官によって決定された[66]

前年の清水による鉄道院への直接損害賠償の請求額3,000円から、本提訴での賠償請求額が半額の1,500円になっているのは、訴訟代理人である弁護士、藤巻嘉一郎による意図、意向によるものと考えられている。この老松の来歴、算定額について藤巻は苦慮しており、提訴後の1月23日付藤巻嘉一郎の清水倫茂宛書状では、「賠償請求訴状ニ記載セル歴史上ノ事蹟ハ漠トシテ拠所不確定ニ有之候ニ付テハ、本訴上事蹟ノ立証必要ト存候間至急調査御依頼願度」と述べており、さらに「新聞社其他有志ヨリ事蹟ヲ訊ネラルゝガ訴訟代理人タル小生ニ於テハ目下調中ト伝ヒ居苦致シ候」とも記述している。また、同年4月19日付の藤巻から清水へ宛てた書状では「鉄道院ニ係ル事件ニ付、来ル四月二十九日本件松樹附近ニ於テ証拠調致申候趣キ通知致候間、同日九時近ク同所ヘ御出向キ相成候様」と連絡するなど、松樹の枯死に対する損害賠償、しかも相手は国と言う前例の無い訴訟に、藤巻は弁護士として試行錯誤を続けていた[67]

鉄道院からの松枝剪除要求の逆提訴[編集]

甲府地方裁判所では、三浦伊八郎、土居藤平を鑑定人として、日野春駅構内枯死現場の検証作業に着手し、原告被告双方の主張する事実関係の鑑定が進められた。また、同年5月に鉄道院総裁後藤新平は、同院参事、中原東吉、岩瀬脩吉を代理人として、原告清水倫茂を相手取り、「樹枝剪除請求」の逆提訴を甲府地方裁判所に行った[57]。同年5月13日付山梨日日新聞では、鉄道院側の主張を次のように伝えている。

……(前略)松樹の枝が隣接せる原告所有の鉄道用地との境界線を越へて繁伸し鉄道線路の直上に及べるが右樹は日を追て朽廃し終には原告所有の用地に落下することあるやも計り難く鉄道用地利用上危険少なからずを以って速やかに剪除すべし。 — 山梨日日新聞 大正6年5月13日[68]

「枯死したまま放置されている松樹を速やかに除去せよ」とした、この鉄道院側の逆提訴には、原告側の推し進める「権利濫用論」に対して、ならば鉄道敷地への松枝越境も鉄道院に対する「権利」を侵害している、という主張によって、裁判を有利に進めようとする意味と、逆に提訴することによって清水倫茂に心理的圧迫を加えるという意味があったと考えられているが、この逆提訴の経過および結果は不明である[68]

甲府地方裁判所の判決[編集]

勝訴を喜ぶ藤巻嘉一郎からの葉書。「本日の判決言渡しは左のようです。原告の請求は正当と認める。判決は勝訴で、喜ばしいことです。

甲府地方裁判所民事部において、原告勝訴の判決が下されたのは、翌1918年(大正7年)1月31日であった。判決は裁判長東亀五郎、判事大庭良平・高橋方雄によって行われた。ただし、ここでの勝訴は、老松枯死の原因が鉄道院側にあるとする訴訟原因についてのみであって、損害賠償額の具体的な算定については、後日の判決に持ち越された。したがって甲府地方裁判所でのこの判決は中間判決にあたる[69]

以下、甲府地方裁判所による中間判決の全文を示す。なお、原文は縦書きであることに留意。引用準拠著作権法第13条

主文は、「原告ノ本訴請求ノ原因ハ正当ナリ」、として原告清水の訴えを認めたものであった。

続く理由は要約すると、煤煙が樹木を枯死させることは予見できたことで、松樹の近くで汽車を走らせるためには、松樹の生存を維持する相当の施設を要すべきであるのに、保全の措置をとらず枯死させたることは鉄道院側に過失があることは当然であり、これによって生じた損害を賠償する義務があることを認める。よって原告の請求の原因は正当である。また、鉄道線路に汽車を走らせる事は鉄道事業者の正当な権利であり、その権利行使に伴う煤煙の発散は必然の結果であるとは言えども、これによって他人の権利を侵害することは法の認許するところではない。老松を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である、とするものであった[1]

甲府地方裁判所 判決正本

判決翌日の山梨日日新聞(同年2月1日付)では、『旗掛松事件の中間判決』・『原告有利の判決』として大きく取り上げられ、「原告の請求は理由ありと認むとの中間判決あり、更に損害の程度其他については追って原被双方よりの立証に依って裁判を進行し賠償金額を決定する筈」と、前例の無い論点が争われた判決を報じた[69]

本判決文で注目されたのは、理由中にある、

…他人ノ権利ヲ侵害スルコトハ法ノ認許セザル所ナレバ、松樹ヲ枯死セシメタルコトハ則チ権利ノ内容ヲ超逸シタル其権利行為ナリ…」、

の文節であった。

ここでは直接的に「権利濫用」とは表現されていない。だが、「枯死させたことは権利の内容を超逸した権利行為である」とした、この第一審判決理由が、この後続いていく控訴審判決全体に影響を与えていくこととなった。

甲府地方裁判所での敗訴判決を受けた国(鉄道院)は、即座に控訴へ踏み切り、東京控訴院(現在の東京高等裁判所)への上告手続きに入った[72]

東京控訴院での判決[編集]

鉄道院による控訴[編集]

後藤新平
東京控訴院(大審院との合同庁舎)

甲府地方裁判所での敗訴判決を受けた鉄道院は、1918年(大正7年)3月25日付で東京控訴院院長・富谷鉄太郎宛に控訴状を提出した。控訴代表者は後藤新平鉄道院総裁(当時)、指定代表者は中原東吉・岩瀬脩二。被控訴人は清水倫茂、弁護士は藤巻嘉一郎であった。

控訴状

控訴人

右代表者 鉄道院総裁
男爵 後藤新平

東京市麹町区永楽町所在 鉄道院総裁官房文書課勤務

右指定代表者 中原東吉
同所勤務 同 岩瀬脩治

山梨県北巨摩郡甲村

被控訴人 清水倫茂

損害賠償請求事件ノ控訴

……(中略)右判決ハ大正七年一月三十一日言渡ヲ受ケ、控訴人ハ同年二月二十八日其送達ヲ受ケタルモノニ有之候。

提訴ヲ為スノ陳述及不服ノ程度

原判決ハ全部不服ニ付控訴申立候。

一定申立

原判決ヲ棄却ス。
被控訴人ノ請求ハ之ヲ棄却ス、訴訟費用ハ第一、ニ審共被控訴人ノ負担トスト御判決相成度候。

事由

原判決摘示ノ事実ト同一ニ候。

証拠方法

口頭弁論ノ際必要ニ応ジ提出可仕候。

付属書類

指定書 壱通 右控訴申立候成。
大正七年五月廿五日
右控訴人指定代表者 中原東吉・岩瀬脩治

東京控訴院長判事法学博士 富谷鉄太郎殿[73]

東京控訴院での裁判の過程で、原告清水と弁護士藤巻は、鉄道院に対して強く示談を求めていった。同年5月10日の口頭弁論期日に先立つ、5月7日付の「弁護士藤巻嘉一郎法律事務所」より清水倫茂に宛てた書状では、口頭弁論期日に都合上出席不可能との清水からの連絡に対して、「寧ロ来ル十日ハ変更セズ開廷致シテハ如何ニ候ヤ、示談ノ成ル成ラザルハ別問題ニシテ、事件ハ相当ニ進行シタル方宜ロシカリト存候。右御照会申上候。」と、勝訴判決を予測した内容であった。

5月10日の口頭弁論に清水は都合により欠席したため、訴訟代理人藤巻弁護士だけの出廷であった。翌5月11日付の藤巻から清水への書状では次のように書かれている。「拝呈 先便ヲ以テ申入候貴殿対鉄道院ノ松訴訟事件ニ付、昨十日ノ口頭弁論ニ際シテ貴殿方ヨリ何レノ御通知ニモ接セズニ付、当所先生ニ於テハ昨日東京ニ出張致シ相手方ト共ニ出廷致シ候。相手方ニテハ示談ノ模様等ハ更ニ無之、堂々事件ヲ進行スル有様、為ニ当方ハ立証準備ノ為続行ヲ申立テ候……」[74]通信機器の発達していなかった当時では、このように郵便を利用した文書によって裁判経過の報告が行われていた。

控訴判決[編集]

東京控訴院 欠席判決正本

二審にあたる東京控訴院民事第一部での判決は、同年6月14日に行われた。この時は、控訴人である鉄道院側欠席のままの「闕席判決」(欠席裁判)であった。

判事は裁判長、岩本勇次郎の他に、矢部克己・沼義雄が担当した。

闕席判決

東京控訴院大正七年(ネ)第一二二号 注意、氏名役職等は省略した[75][76]

右当事者間ノ大正七年(ネ)第一二二号損害賠償請求控訴事件ニ付控訴人ハ合式ノ呼出ヲ受ケタルニ拘ラズ、大正七年六月十四日午前九時ノ本件口頭弁論期日ニ出頭セズ、被控訴人ハ右期日ニ出頭シ、闕席判決ヲ以テ控訴ヲ棄却セラレタキ旨申立テタリ。当院ハ民事訴訟法第四百二十八条、第七十七条ノ規定ニ依リ左ノ如ク判決ヲ為ス
主文 本件控訴ハ之ヲ棄却ス。訴訟費用ハ控訴人ノ負担トス。

このように、控訴人(鉄道院側)の欠席のため、「事実」と「理由」の説明はなく、「主文」だけが言い渡された。なぜ鉄道院が出廷しなかったのか、その理由は不明である[77]

この6月14日の欠席判決に対し、控訴人から故障の申立が行われ、東京控訴院は同年7月26日、この欠席判決を維持し、故障申立後の訴訟費用を控訴人の負担とした上で、本案件を甲府地方裁判所に差し戻す判決を下した。この判決は、一審判決と比較して理由付けが詳細であり、特に「理由」の中で明確に「権利の濫用」と明記され、これを問題としている点が注目される[78]

7月26日の控訴判決は、東京控訴院民事第一部で、裁判・長神谷健夫、判事・矢部克巳と下田錦四郎により開廷し、「事実」と「理由」の説明が行われ、判決文の前文では次のような説明がされた。

汽車と煙害予防の責任
汽車が煙害予防の為相当なる設備を為さず為に煙筒より噴出したる石炭の煤煙の害毒作用に因り沿道の樹木を枯死せしめたるときは、権利侵害は之を予見せざりしことに付き其行為者に過失ありしものとす[78]

「理由」で述べられた要点は、次の点であった。

  1. 右の松樹は控訴人が鉄道本線竝に復線ママ上に於て運転したる汽車の煙筒より噴出したる石炭の煤煙の有毒作用に因りて枯死するに至りたるものなることを認むるを得…
  2. 煙害予防の為め相当なる設備を為さゞりしとの被控訴人の主張は控訴人の争はざる所なるが故に本件の権利侵害は之を予見せざりしことに付き其行為者に過失あるものと認むるを相当とす…
  3. 汽車運転の際故意又は過失に因り特に煙害予防の方法を施さずして煤烟に困りて他人の権利を侵害したるときは其行為は法律に於て認めたる範囲内に於て権利を行使したるものと認め難く却て権利の濫用にして違法の行為なりと為すを正当とするが故に…

東京控訴院での判決は、一審の甲府地方裁判所への差し戻し、つまり国(鉄道院)側の敗訴であった。

以下、東京控訴院での控訴棄却判決の全文を示す。原文は縦書きであることに留意。引用準拠著作権法第13条

東京控訴院での差戻し判決を受けた国(鉄道院)は、約2カ月後の同年9月25日に大審院へ上告の手続きを行った。

国(鉄道院)側による上告の要点は以下の2点であった[3]

  1. 原審(甲府地方裁判所判決)は、相当なる設備を施していないとするが、具体的に何をすべきかを述べていない。
  2. 鉄道の運転は被告(鉄道院)の権利行使であり、その必要の限度を超えない限りは、たまたま沿線の樹木を枯らしても権利濫用による違法とはならない。

老松枯死の責任をめぐって、一個人が国を相手に争うという前例の無い訴訟は、ついに大審院での審判に持ち越されることになった。

大審院での勝訴[編集]

中村是公

鉄道院は、1918年(大正7年)9月25日、上告代表者を中村是公鉄道院総裁(当時)、指定代表者を中原東吉・岩瀬脩二として、大審院へ上告を行った。被上告人は清水倫茂、弁護士は藤巻嘉一郎であった。

大審院での最初の言い渡し予定日がいつだったのかは明らかでない。しかし、判決言い渡し期日が再三にわたって変更、延期されたことから、大審院内部において簡単に結論が出せず、政府からの圧力や、担当判事たちの意見に違いがあったのではないかと考えられている[80][81]。再三にわたる言渡し期日延期を知らせる清水倫茂宛ての手紙や通知書が、今日でも北杜市立郷土資料館に保管され展示されている。たとえば大正8年2月5日付、弁護士・藤巻嘉一郎法律事務所からの清水倫茂に宛てた書状では、「鉄道院ノ件は大審院言渡ノ儀ハ、来ル10日(2月10日)ニ延期ノ通知之有候間、然可御承知相成度候」とあり、また、翌2月6日付の「大審控訴院詰所・弁護士大平恵吉」から清水倫茂に宛てた通知書には、「間合ノ件過刻打電ノ通リ言渡延期ニ相成候。多分来ル10日ニ言渡可有之カト被存候、延期ノ件ハ其節直ニ藤巻氏ヘ通知致置」と通知されている。しかし、次に送られてきた弁護士・大平恵吉による清水倫茂への書状には、「拝呈 本日言渡アルベキ筈ノ七(オ)八九八号事件、本日又々延期ニ相成候。言渡アリ次第御通知可申御座候。」とあり、この2月10日に判決言い渡しはなかったことが分る。2月13日付の藤巻嘉一郎弁護士事務所から清水倫茂宛ての書状では、「拝啓 兼テ鉄道院事件ハ又々延期ノ通知之有、言渡期日ヲ来2月17日ト決定通知之有候間御通知申上候。」とあり、2月17日付の大平恵吉による清水倫茂宛ての書状では、「言渡期日ハ未定ナリ」と書かれている[82]

このように判決の言渡し期日が二転三転したが、1919年(大正8年)3月3日、大審院での判決が下された。これが信玄公旗掛松事件と呼ばれる著名な判決である[83]

以下、大審院判決正本の全文を示す。原文は縦書きである。引用準拠著作権法第13条

大審院法廷

判決は東京控訴院判決と同様、上告棄却、すなわち原告清水倫茂の勝訴であった。この大審院判決が後の法曹界に与えた主な影響は以下の点であった[85]

  • 第一に、不法行為の成立について「行為者の故意または過失の存在を要件」とし、国(鉄道院)が防止施設を施さなかったこと、すなわち障壁を設ける、あるいは線路を隔てる等の措置を講じなかったことに過失があったとした点。
  • 第二に、権利行使の適当な範囲を超えたか否かについて、その判断に社会観念を導入し、本件の権利行使(松樹の至近距離で鉄道運送を行ったこと)は、適当な範囲を逸脱したものであると認定し、被害者を救済する考え方を重視した点である。

鉄道の「公共性」は重要なことではあるものの、当事件松樹と一般樹木とを区別することによって、信玄公旗掛松が「著しく煤煙の害を被り」、かつ「予防すべき方法がなかったわけではない」とし、鉄道院の行為を権利行為の範囲内にはないとしたのである。判旨は理由の最後で「鉄道院が沿道到る所に散在する樹木と同一視して原判決を攻撃するは原判決に副はざるものにして採るに足らず」との結論を述べており、まさにこの点が判断の分かれ目になったものと考えられている[86]

このように、権利者は悪をなさず、国は悪をなさずという、当時の国家権力が非常に強く、軍部の発言権も強かった時代に、むしろ鉄道事業、国家権力に不利な判決が下されたのである。この点で信玄公旗掛松事件は、新しい判例法の転換を見せた事件であった[3][87]

大審院 判決正本 冒頭部分 大審院 判決正本 末尾部分
大審院 判決正本 冒頭部分
大審院 判決正本 末尾部分


信玄公旗掛松への賠償額決定[編集]

枯死に対する「過失の有無」、それによる「損害賠償の算定」は、第一審の甲府地方裁判所での判決から別個のものとして審議が進められていた。大審院判決に到るまでの審議は、あくまでも松樹の枯死に対する「過失の有無」を争ったものであって、具体的な「損害賠償額の算定」についての審議は行われなかった。この節では、信玄公旗掛松枯死に対する損害賠償額決定についての審議過程から当裁判が終結するまでの流れを解説する。

示談交渉と鑑定人による樹齢鑑定[編集]

大審院での上告棄却により、信玄公旗掛松の枯死に対する鉄道院の過失が確定し、裁判の争点は賠償金、損害額の算定に関する審議に移行した。大審院判決から2か月後の1919年(大正8年)5月19日に甲府地方裁判所で賠償金額決定訴訟が開廷された。

法廷では当初から示談を中心に審議が進められた。開廷2日目の5月20日に、吉田裁判長により示談が勧告され、原告被告ともこれを一旦受諾したが、裁判長によって提示された500円の示談金を原告清水は承諾したのに対し、被告鉄道院は300円なら応ずるとして拒んでしまう。結局示談交渉は不調のまま、同年10月に不成立に終わっている。10月16日付けの山梨県内各新聞は「裁判長の顔を潰した鉄道院」と報じている[88]

1919年(大正8年)10月16日付、山梨県内主要新聞での報道は次の通り[89]

  • 「吉田裁判長より鉄道院金五百円を提供して円満解決をしては如何んとの条件にては五百円は高し三百円なら応ずべしとの事」、『山梨民報』
  • 「示談不調」、「裁判長の顔を潰した鉄道院」、『山梨毎日新聞』
  • 「裁判長は被告鉄道院は金五百円を原告に支払ふべき旨の条件を提示し原告は承認したるも被告側は最高幹部会議の結果五百円は高額に失すとて之を拒否」、『山梨日日新聞』

500円という示談金に鉄道院側が応じなかった背景には、信玄公旗掛松の樹木としての査定価値基準にあった。大審院での敗訴が決定した後、鉄道院側は植物学者ら複数の生物学識者による信玄公旗掛松の樹齢鑑定を行っていた。1920年(大正9年)に入ると、当時の新聞は鉄道院側の樹齢鑑定を次の見出しで複数回報じている[90]

  • 「再鑑定の旗掛松」、「今度は鉄道院から申請」、『山梨毎日新聞』1月23日付
  • 「旗掛松鑑定、来る九日現場にて」、『山梨日日新聞』3月7日付
  • 「旗掛松事件樹齢鑑定、武田時代の物に非ずと鉄道側主張」、『山梨日日新聞』3月27日付
  • 「樹齢鑑定は三浦林学士」、『山梨毎日新聞』4月2日付
  • 「又鑑定の旗掛松、更に原告の申請」、『山梨毎日新聞』8月1日付
  • 「旗掛松事件、松平技師に鑑定を命ず」、『山梨毎日新聞』12月23日付

このように、鉄道院側は老松の樹齢について何度も鑑定を繰り返していた。鑑定人の中には森林学者として知られる三浦伊八郎[91]、松平東美彦ら、著名な植物学者が含まれている[92]

このような経緯を経て、1921年(大正10年)2月15日、信玄公旗掛松の枯死に対する賠償額決定裁判の判決が甲府地方裁判所で言い渡された。この甲府地方裁判所の判決は、裁判長横田貞祐、判事中島奨、高崎長一郎によるものであった[93]

ここでは判決文全文は割愛し、主文、および理由の一部を抜粋して引用する。

甲府地判大正10(1921)・2・15 判決
右当事者間ノ大正六年(ワ)第一号損害賠償請求事件ニ付、請求原因正当ナリトノ中間判決確定シタルヲ以テ更ニ数額ニ付当裁判所ハ判決スル事如左
主文
被告ハ原告ニ対シ金四百九十九円ヲ支払フベシ。
原告其余ノ請求ハ之ヲ棄却ス。
当審ノ訴訟費用ハ之ヲ十分シ其一ヲ原告其九ヲ被告ノ負担トス[88]

賠償額決定判決文中の事実、および理由で述べられた要点は、

…古来ノ口碑ニ依レバ機山公信玄ガ其松樹上ニ於テ…と、信玄公所縁の伝承により地域の人々にとって特別な存在であった松樹であったことを認めつつも、
…鑑定人三浦伊八郎及松平東美彦ノ各鑑定ニ依レバ右松樹枯死当時ノ年齢ママガ約百六十年ニシテ、信玄時代(松樹枯死当時ヨリ約三百六、七十年前)ノモノニアラザル事明ナルヲ以テ…と、松樹の樹齢鑑定結果に基づき、枯死した時点での信玄公旗掛松の樹齢は約160年であると証明し、この老松が武田信玄の時代のものでなかったことを、賠償額算定の基準にしたことであった。

信玄公旗掛松が地域の人々にとっても、清水倫茂にとっても、先祖代々信玄公ゆかりの伝承とともに大切に扱われてきた松樹であったことに疑いはなかった。その一方で、損害賠償額算定の根拠として考えるならば、「伝承としての松樹の評価額」ではなく、樹齢鑑定に拠る評価という当時としては最先端の科学的検証により、「事実としての松樹の評価額」を主張した鉄道院側(国)の要求が認められた形になった。

当初清水が求めた松樹代金1,200円、慰藉料300円、合計1,500円の損害賠償請求は、信玄時代のものではなかったことを理由に、一般の材木薪材)としての価格で計算した449円とされ、慰藉料として50円を加えた、合計499円が賠償額とされた。これは示談過程で清水が同意していた500円とほぼ同等額であり、かつ訴訟費用の1割を原告清水、9割を被告鉄道院とする負担判決は、原告清水にとって不服はなかった[94]

ところが、鉄道院はこの賠償額499円を不服として再度、東京控訴院へ控訴を行った[95]

裁判の終結[編集]

損害賠償額をめぐり控訴された東京控訴院での判決は、1922年(大正11年)4月11日に行われたが、実に珍妙[96] かつ、不可解な[87] 判決であった。この東京控訴院判決は、同院民事第二部、裁判長三橋久美、判事水口吉蔵、竹田音次郎によるものであった。

ここでは判決文全文は割愛し、主文の一部を抜粋して引用する。

東京控判大正11(1922)・4・11判決
右当事者間ノ大正十年(ネ)第三一五号損害賠償請求ノ数額ニ関スル控訴事件ニ付キ当院ハ判決スルコト左ノ如シ
主文
原判決中原告其余ノ請求ハ之ヲ棄却ストアル部分並ニ訴訟費用ノ負担ヲ原告ニ命シタル部分ヲ除キ其他ヲ左ノ如ク変更ス
控訴人ハ被控訴人ニ対シ金七十二円六十銭ヲ支払フヘシ
被控訴人ノ其余ノ請求ハ之ヲ棄却ス
訴訟費用ハ第一、二審ヲ通シ之ヲ十分シ其一ヲ控訴人ノ負担トシ其九ヲ被控訴人ノ負担トス[97]

つまり、賠償額が499円(内訳、松樹449円、慰藉料50円)から、72円60銭(内訳、松樹22円60銭、慰藉料50円)に減額され、なおかつ訴訟費用の負担割合が原告清水9割、被告鉄道院1割という、一審判決とは全く逆になってしまったのである。

慰謝料については一審同様50円とされた。松樹に対する賠償金を22円60銭とした根拠は、「理由」での説明にあった鑑定人剣持元次郎の鑑定によるもので、松樹の損害を薪材としての価格で算定したのは一審と同様であった。しかし、損害算定の時点を一審判決が口頭弁論における鑑定当時の1920年(大正9年)3月としていたのを変更し、損害発生当時、つまり信玄公旗掛松が枯死した1914年(大正3年)12月を損害算定基準時とした上に、一審では枯死していない材木としての価格を損害としたが、二審では枯死していないものを123円25銭、枯死したものを100円65銭と評価し、その差額を損害であるとした。その結果、一審では449円であった松樹損害算定額が、22円60銭と大幅に減額されたのである。これは今日も大いに争われる損害賠償算定基準時の問題でもある。さらに、訴訟費用負担割合については、判決主文中に「原判決中……訴訟費用ノ負担ヲ原告ニ命シタル部分ヲ除キ其他」を変更する、と書かれているのにもかかわらず、訴訟費用負担割合が一審判決と逆になっているなど、この東京控訴院での賠償金額決定二審判決には疑問点や問題点があると、今日では複数の法学者、識者によって指摘されている[98][99][100]

このように松樹の評価が伝承的価値としてではなく、材木・薪材としての評価の問題として扱われ、信玄公云々の部分に関しては慰藉料50円として処理された。これに対し、たとえこの老松が信玄公時代からのものでなくとも、人々は代々固く信じてきた事実を重視し、もう少し高額の慰藉料を認めてもよかったのではないかという意見もある[87][99]。賠償額、裁判費用負担割合だけを考えると、原告の清水は実質的に勝訴したのかどうかわからないほどであり、被告の鉄道院(国)は、結果的には名を捨て実をとったとも言える[87]

判決を受けた当事者の清水倫茂も、賠償総額の72円60銭はともかく、訴訟費用を9割まで負担させられた点は腑に落ちず、「これは誤記ではないか」と東京控訴院に更正の「申立」を行った[101]。しかし、東京控訴院は1924年(大正13年)12月25日、この申立を却下した[102]

ここで清水倫茂は、訴訟行為を断念する[103]

1925年(大正14年)9月28日、甲府地方裁判所において、訴訟費用額241円71銭2厘5毛。原告(清水)が9割を負担とする決定が行われ[32]、長期間に及んだ信玄公旗掛松事件の裁判はすべて終結した。

権利濫用論に与えた影響[編集]

末川論文[編集]

富井政章
末川博

「権利濫用」の概念は、19世紀後半にフランス判例法として確立された。日本国内では明治期に牧野英一富井政章らによって日本に導入され、前述したように明治法律学校(現明治大学)や、和仏法律学校(現法政大学)などの私立法律大学において、信玄公旗掛松事件の弁護士を務めた藤巻嘉一郎をはじめ、法学を志す多くの日本人がその概念を学んだ[104]。しかしながら「権利濫用」の概念は当時の明治民法では触れられておらず、当然ながら現実の裁判において「権利濫用」が援用される事例は信玄公旗掛松事件以前にはなかった。

信玄公旗掛松事件が1919年(大正8年)3月に、原告勝訴として大審院で結審すると、判決に触発された末川博は同年8月に『権利の濫用に関する一考察 -煤烟の隣地に及ぼす影響と権利行使の範囲 - 』(『法学論叢』第一巻六号、1919年8月。のち、末川博『権利侵害と権利濫用』岩波書店、1970年7月に収録。)と題する論文を執筆する[105]。末川博は後に立命館大学名誉総長となる日本を代表する著名な法学者であるが、この論文を書いたのは京都帝国大学大学院法科に在籍中のことであり、この論文は末川の処女論文でもあった[106]

この論文で末川は、ローマ法スイス民法ドイツ民法イギリス法を検討しつつ、

  • 今、我民法上の規定に付きて考ふるに、此点に関しては、何等の明文存すること無し
  • 判例の採れる見解に対して、賛意を表するものなりと雖も、その賛意を表するに先ちて、一応、所謂権利の濫用なる観念に付きて、考察する必要あるを感ず

このように述べ、社会観念上の秩序、公序良俗等と権利行使の範囲とを検討し、信玄公旗掛松事件の大審院判決は「頗(すこぶ)る当を得たるものなりと云はざるべからず」と高く評価した。 末川博はこの論文研究を端緒として「権利濫用論」の研究を生涯にわたって続け、「権利侵害から違法性へ」というテーゼを立て、不法行為法の再構築をすべきとの学説を唱えた[107]。やがてそれは我妻栄青山道夫ら、多くの法学者へと波及していくこととなり、明治民法の下では全く触れられていなかった「権利濫用論」が、現行の日本国憲法第12条、および現行の民法1条基本原則3項において、「権利の濫用は、これを許さない。」と規定され、第709条第834条それぞれの条文中に「権利濫用」が明文化されることに至った[108][109]

信玄公旗掛松事件判決後、権利濫用の概念が独立して問題となった著名な事件として、宇奈月温泉事件1935年・大判昭和10・10・5民集14巻1965頁)、板付空港事件1965年・最判昭和40・3・9民集19巻2号233頁)へと続いていった[110]

末川博は1977年(昭和52年)2月16日に亡くなった。その翌日2月17日付朝日新聞夕刊の「今日の話題」における論説では以下のように紹介されている。

……民法学者としての末川さんの業績は、権利濫用論の禁止を理論化し、集大成してきたことである。
有名な大審院判権ママに「信玄公旗掛松事件」というのがある。武田信玄ゆかりの名木が、国鉄ママの汽車のバイ煙のために枯れたというので、松の所有者が国を相手どって損害賠償の訴えを起こした。
今日の公害訴訟のはじめだが、大正八年、大審院は原告の主張を認めて、国の敗訴を言い渡した。
この判決が、終生のテーマとして「権利の乱用ママ」を選ばせるきっかけだった、と末川さん自身が書いている。が、同時にそれはまた末川さんの生きざまの投影でもあった。
権利の主張も、節度とけじめが伴わなければならない、というのが末川さんの持論であったようだ。……
— 今日の話題 -ひとすじの道- 『朝日新聞』 1977年2月17日夕刊[111]

判例・事例としての意味[編集]

信玄公旗掛松事件は日本国内の法曹界で著名な判例ではある。しかし、今日の民法講義等で使用される教科書類では、内田貴『民法II』(東京大学出版会2007年)、大村敦志『基本民法II』(有斐閣2007年)などで、受忍限度論の登場に至る過度的なものとして取り上げられているに過ぎず、いわゆる先例判例として法学部の講義等で取り上げられる機会は少なくなっている[112]。その理由を2007年の窪田充見『不法行為法』では次のように説明している。

今日では……権利の行使であるが、適当な範囲を逸脱しているから権利の濫用であり、不法行為になると説明する必要は無い。……それでは、なぜ信玄公旗掛松事件は、権利の濫用として取り上げられたのだろう。この背景には、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』というローマ法に由来する考え方があったとされる。つまり、この法諺(ほうげん)を前提として、鉄道の運行というものを権利行使と考えるところから出発すれば、不法行為責任を認めるためには、権利の濫用という、もうひとつの概念が必要とされたのである。しかしながら、……今日では、こうした問題について、そのような説明はしていない。それは、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という前提自体が、もはや共有されていないからである。……このように考えてくると、信玄公旗掛松事件におけるようなタイプの権利濫用の禁止の法理は、それが克服すべき前提(つまり、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という考え方)が失われた今日では、すでにその意味を失っているとみてよい。
— 『不法行為法』 窪田充見 (2007) pp.59-60[113]

今日、信玄公旗掛松事件判例は、権利行使の違法性を強調するために「権利濫用論」が引き合いに出されたものと位置づけられており[28]、現実の裁判では実例の意味として機能しておらず、実質的な判例の意味を失っていると考えられている。しかし、この判例以前には「国による権利は絶対である」という社会風潮が存在していたということ、それが信玄公旗掛松事件を通じて克服されたという歴史的事実に意味があり、明治・大正期の国家や地域社会、さらに当時の法学者と外国法理の関わりの一例を示すなど、近代日本法理の歴史を理解する上で重要な事例と位置づけられている[112]

信玄公旗掛松碑[編集]

石碑裏面1
石碑裏面3
石碑裏面2
石碑裏面4

日野春駅前広場の南東側の一角には、仙台石で造られた高さ約4メートルの石碑、「信玄公旗掛松碑」が建てられている。これは枯死の原因が、国側の不法行為、権利の濫用であると、大審院で認められ勝訴したことを記念して、清水倫茂本人により建てられたものである。建設費用は建設当時(昭和8年)の価格で148円であった。石碑の裏面には、次の文字が刻まれている[† 11]

信玄公旗掛松碑
明治三拾六年敷設中央線之鉄条去樹僅間余
常吹付煤烟及水蒸気尚以震動為之使樹齢短
縮法之所認也這般碑建樹跡伝後世
大正十一年五月三十日
従六位弁護士藤巻嘉一郎撰 古屋邦英書
所有者甲村清水倫茂建之 石工当村古屋政義
現代訳
明治36年に敷かれた中央本線の線路は、松樹からわずかしか離れておらず、常に、煙や水蒸気が吹き付け、そのうえに振動が加わった。そのために松樹の寿命が短くなったことは、法の認めたところである。このことを松樹の跡に碑を建てて、後世に伝える[114]


石碑の建立計画は、大審院判決により清水が勝訴した1919年(大正8年)頃から始まった。

石碑の文面には大正11年(1922年)5月30日と記されているが、これは弁護士藤巻嘉一郎によって書かれた撰文の日付である。実際に石碑が建立されたのは、1933年(昭和8年)4月28日に、清水倫茂が日野春警察署に石碑建設許可を願い出て、翌月5月15日に許可が下りた1933年昭和8年)のことであった。

清水倫茂は石碑の建立から3年後の1936年(昭和11年)に亡くなり、ともに闘った弁護士藤巻嘉一郎は1946年(昭和21年)に亡くなった[114][115]

大審院勝訴後の示談過程で持ち上がった石碑建立の経緯について、当時の新聞記事は清水倫茂の発言を引用し、次のように報じている[103]

信玄公旗掛松碑と日野春駅(2013年4月5日撮影)

原告清水氏は元来が鉄道院より金を取らんとするが目的にあらざれば…、
たとえ松樹は枯死してその形影を止めさるに至るも
後世まで旗掛け松の歴史をつたえんとの希望にて損害賠償としてその建設方を示談の条件として鉄道院に交渉した。

— 大正8年6月2日、山梨毎日新聞[114]

清水倫茂にしてみれば、賠償金を受け取ることよりも、法によって「松樹枯死の責任」が鉄道院側(国)にあったと、公に認められたことのほうが嬉しかったのである[116]

この石碑は、枯死した信玄公旗掛松の株跡に建立されたものであったが、1969年(昭和44年)の中央本線複線化工事に際し、石碑が複線化予定用地にかかってしまったため、当時の国鉄により国鉄自らの経費によって丁重に現在地に移設された[117]。国鉄当局の考え方が信玄公旗掛松事件当時の鉄道院時代とは全く変わっていることがわかる[118]

1964年(昭和39年)に甲府駅から上諏訪駅までが電化され給水の必要もなくなった今日の中央本線では、日野春駅に停車する列車は各駅停車のみとなり、同駅に立ち寄る人も少なくなった。しかし、今後もこの石碑は日本裁判史上記念すべきモニュメントとしての役割を果たし続けるであろうと、民法学者の川井健は述べている[2]

年表[編集]

年号 月日 出来事 備考
1902年明治35年) - 中央本線敷設、日野春駅建設計画
5月6日 清水倫茂、鉄道院へ「上申書」提出
6月23日 鉄道院より上申却下 甲村助役経由で上申書返戻
8月5日 清水倫茂、鉄道院へ「上申書」再提出
9月5日 清水倫茂、鉄道院へ「上申書」再々提出
1903年(明治36年) - 工事障害のため松枝剪除 補償料20円
12月3日 清水啓造、鉄道院へ請書
1904年(明治37年) 12月21日 日野春駅開業
1911年(明治44年) 9月18日 貨車脱線事故発生 補償料15円
9月下旬 清水倫茂、鉄道院へ請書
11月 清水倫茂、鉄道院へ瓦斯除建設ニ付上申書
1914年大正3年) 12月中旬 信玄公旗掛松枯死
1916年(大正5年) 4月15日 清水倫茂、鉄道院へ直接損害賠償請求 請求額2000円
6月20日 鉄道院、賠償拒否返答
1917年(大正6年) 1月6日 甲府地裁へ提訴
5月13日 鉄道院、清水倫茂へ樹枝剪除請求 新聞報道の日付
1918年(大正7年) 1月31日 甲府地裁、結審 中間判決
3月25日 鉄道院、東京控訴院へ控訴
6月14日 東京控訴院、判決(主文言渡しのみ) 控訴側(鉄道院)の欠席裁判
7月26日 東京控訴院、判決 6月14日判決を維持、事実と理由の説明
9月25日 鉄道院、大審院へ上告
1919年(大正8年) 3月3日 大審院、判決 原告勝訴
5月19日 甲府地裁、賠償額決定訴訟開始
6月2日 示談条件として、記念碑建立計画 新聞報道の日付
8月 末川博「権利の濫用に関する一考察」発表
10月19日 示談不調
1920年(大正9年) 3月9日 現場再鑑定
8月 原告再鑑定
12月 松平鑑定
1921年(大正10年) 2月15日 甲府地裁、賠償額決定判決
- 鉄道院、東京控訴院へ控訴
1922年(大正11年) 4月11日 東京控訴院、判決
- 清水倫茂、更正の申立
1924年(大正13年) 12月25日 東京控訴院、更正申立却下
1925年(大正14年) 9月28日 甲府地裁、訴訟費用額決定 全訴訟終了
1933年昭和8年) - 信玄公旗掛松碑建立 4月28日建築許可請願、5月15日許可
1936年(昭和11年) - 清水倫茂、死去
1946年(昭和21年) - 藤巻嘉一郎、死去
1964年(昭和39年) - 甲府駅 - 上諏訪駅間電化
1969年(昭和44年) - 信玄公旗掛松碑、駅前広場(現在地)へ移設 複線化に伴う移設

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 原告および関係者氏名の記載については、当訴訟事案が公式判例集に登載された事件であるばかりでなく、さまざまな文献等(一般に市販されているものも含む)により周知の事実となっている経緯から伏せていない。
  2. ^ 着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。
  3. ^ これらのスイッチバックは今日ではすべて解消されている。
  4. ^ なぜ比較的平坦な釜無川沿いのルート(現国道20号沿い)ではなく、急勾配となる七里岩台地上のルートが選定されたのか、理由は明らかでない。釜無川沿いに敷設した場合、甲斐駒ケ岳から流れ下る渓流が非常に多く、橋梁を多数建設する必要があった為であるとか、県境を越えた所にある甲州街道蔦木宿が鉄道敷設を反対した等諸説あるが、実際の理由は不明である。川島 (2003)、pp.36-37
  5. ^ 信玄公旗掛松の具体的な樹種(アカマツクロマツ等)については、渉猟した文献中に記載はなく不明である。
  6. ^ 当初の社名は「甲武馬車鉄道」、明治21年(1889年)に「甲武鉄道」に改称。川島 (2003)、pp.10-11
  7. ^ 1975年(昭和50年)の日本国有鉄道総裁室法務課による、「信玄公旗掛松訴訟事件に関する調査記録」法務情報141号1頁以下が存在する。ただし、これは国鉄に勤務していた江川義治による個人的関心から作成されたものであり、かつ社内誌という一般の目に触れにくいものである。川井(1981)、pp.242-244
  8. ^ 日本弁護士連合会編・『弁護士百年』、1976年(昭和51年)2月10日発行、71ページでは、藤巻嘉一郎の写真とともに「公害民事事件の先駆」、「信玄笠ママ掛松事件を一人でやった甲府の弁護士」として紹介されている。川井(1981)、p.273
  9. ^ 清水倫茂が藤巻嘉一郎へ弁護を依頼した具体的な経緯は渉猟した文献中に記載はなく不明である。
  10. ^ a b 引用中のアンダーラインは川井(1981)での記載に倣った。
  11. ^ 碑文の一部に、組み合わせられた漢字による変換不能文字が含まれるため、ここでの表記は長坂町郷土資料館編集『旗かけ松の本』(2001年)、p.15での表記に倣った。実際の表記は添付した画像を参照のこと。

出典[編集]

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  2. ^ a b c 川井(1981)、はしがき「民法判例の基礎としての経済・社会の構造」i-ii
  3. ^ a b c d 吉村(1990)、公害・環境私法史研究序説(三・完)
  4. ^ 川井(1981)、p.241
  5. ^ 山下(2002)、p.106
  6. ^ 裁判所めぐり 甲府地方・家庭裁判所 (PDF)
  7. ^ 新藤(1990)、p.139
  8. ^ a b c 川井(1981)、p.249
  9. ^ 長坂町誌下巻 (1990)、pp.413-440
  10. ^ 長坂町誌下巻 (1990)、pp.450-452
  11. ^ 長坂町誌上巻 (1990)、pp.55-58
  12. ^ 長坂町郷土資料館編 (2001)、p.2
  13. ^ 長坂町誌上巻 (1990)、pp.195-198
  14. ^ 川島 (2003)、p.36
  15. ^ 長坂町郷土資料館編 (2001)、p.3
  16. ^ a b c d e 沼田(2000)、pp.18-19
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  19. ^ 川井(1981)、p.244
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  25. ^ 朝日新聞昭和49年4月4日朝刊による。川井(1981)、p.247
  26. ^ 川井(1981)、p.247
  27. ^ 信州大学法科大学院教授 池田秀敏 (PDF). 不法行為法 2011年度前期 第三講 不法行為の要件(2) - 権利侵害 (Report). オリジナルの2012年1月31日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120131174639/http://www.ne.jp/asahi/ikeda/office/resume/fuhou2011-03.pdf. 
  28. ^ a b 京都大学法学部 松岡久和民法Ⅰ・総則 最終回 私法の基本原則 権利濫用禁止の原則 (PDF)
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  87. ^ a b c d 川井(1981)、p.274
  88. ^ a b 川井(1981)、p.268
  89. ^ 新藤(1990)、p.175
  90. ^ 新藤(1990)、p.176
  91. ^ 三浦伊八郎-コトバンク 2013年3月20日閲覧。
  92. ^ 大村(2010)、p.76
  93. ^ 新藤(1990)、pp.176-179
  94. ^ 新藤(1990)、p.179
  95. ^ 川井(1981)、p.270
  96. ^ 新藤(1990)、pp.179-180
  97. ^ 川井(1981)、pp.270-272
  98. ^ 川井(1981)、pp.273-274
  99. ^ a b 大村(2011)、pp.66-67
  100. ^ 新藤(1990)、pp.179-181
  101. ^ 新藤(1990)、p.181
  102. ^ 川井(1981)、p.272
  103. ^ a b 新藤(1990)、p.182
  104. ^ 大村(2011)、pp.76-79
  105. ^ 大村(2011)、pp.62-63
  106. ^ 新藤(1990)、pp.141-142
  107. ^ 川井(1981)、p.276
  108. ^ 新藤(1990)、pp.144-146
  109. ^ 川井(1981)、p.277
  110. ^ 大村(2011)、pp.63-64
  111. ^ 新藤(1990)、pp.143-144
  112. ^ a b 大村(2011)、p.55-56
  113. ^ 大村(2011)、p.55
  114. ^ a b c 長坂町郷土資料館編(2001)、p.15
  115. ^ 長坂町郷土資料館編(2001)、p.26
  116. ^ 長坂町郷土資料館編(2001)、p.22
  117. ^ 新藤(1990)、pp.140-141
  118. ^ 川井(1981)、p.248

参考文献[編集]

書籍

以下3点の文献を主に用いた。

さらに補足として以下の文献を参照した。

  • 加藤陸奥雄、1995年3月20日発行、『日本の天然記念物』、講談社 ISBN 4-06-180589-4
  • 川島令三、2003年10月25日初版発行、『山梨の鉄道』、山梨日日新聞社 ISBN 4-89710-715-6
  • 末川先生古稀記念論文集刊行委員会編青山道夫、1962年11月発行、『権利の濫用上巻』、有斐閣
  • 長坂町郷土資料館編、2001年3月3日初版1刷発行、『旗かけ松の本』、小宮山プリント社
  • 長坂町誌編纂委員会、1990年3月31日発行、『長坂町誌 上巻』、長坂町
  • 長坂町誌編纂委員会、1990年3月31日発行、『長坂町誌 下巻』、長坂町
  • 沼田一、2000年12月20日発行、『山梨の公害・環境百二十年-明治10年(1877)〜平成9年(1997)-』、サンニチ印刷
  • 山梨郷土研究会編、影山正美、1992年8月1日発行、『甲斐路 第74号 歴史と伝説の間「信玄旗掛松」』、サンニチ印刷
論文

外部リンク[編集]

参考資料リンク
展示

座標: 北緯35度47分22.7秒 東経138度23分43.5秒 / 北緯35.789639度 東経138.395417度 / 35.789639; 138.395417