依田郁子

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依田郁子, 1964

依田 郁子(よだ いくこ、1938年9月30日 - 1983年10月14日)は、日本の陸上競技選手、元女子80mハードル日本記録保持者。長野県丸子町(現・上田市)出身。長野県上田染谷丘高等学校卒業。結婚後の姓名は宮丸 郁子(みやまる いくこ)。

生涯 [編集]

中学3年生のとき肋膜炎肺炎にかかり上田染谷丘高校の受験に失敗、同校の定時制に入るが翌1955年に再受験して全日制に入学した[1]。同校は当時バスケットボールの強豪で身体能力を見込まれた依田はバスケット部の勧誘を受けるも、「私は個人主義だからバスケは向かない」と陸上部に入部する[1]。高校1年の時に全国高校陸上大会200mに出場した。その冬、陸上部の指導教員からハードルの練習を指示されて転向する。これは80mハードルならエントリーが少ないという指導教員の考えによるものであった[1]。2年生のときから全国高校陸上大会の女子80mハードル部門で2年連続して優勝。これにより、陸上界から依田は「ホープ」として注目されることとなった。

高校卒業後はリッカーミシンに入社、往年の名スプリンターである吉岡隆徳の指導を受けた。しかし、1960年のローマオリンピックの代表選考には漏れ、陸上選手団が帰国するという日に相模湖睡眠薬による自殺を図ったが未遂に終わった[1]。その後実力をつけて、女子80mハードルの日本記録を12回も塗り替えた。また、100mでも日本陸上競技選手権大会に2度優勝している。

1964年の東京オリンピックで依田は80mハードルの日本代表として出場し、5位入賞を果たした。なお日本の女子陸上競技史上、短距離個人種目での決勝進出者はこの時の依田のみである[2]。東京オリンピック後に現役を引退し、のちに結婚した。

引退後も依田は東京女子体育大学にて後進の指導に当たっていたが、東京オリンピックから19年後の1983年10月、自宅にて自ら命を絶った。45歳だった。自殺の理由は遺書を残していないため、知ることができない。依田はこの年5月に右膝の膝内症により筑波大学附属病院に入院、手術を受けたが手術中に麻酔のショックが起きて手術は中断し、結局手術は完了しないまま2か月入院して退院していた[1]。亡くなる直前まで普通に家事もこなしていたが、家族ですら鎮痛剤を所持していたことを死亡するまで知らなかったという[1]。没後の取材に対し、リッカー時代の同僚や親族はリッカー時代以降の依田が自分にも他人にも厳しく、きわめて真面目で几帳面であったことを証言している[3]

スタート時の“奇行”[編集]

依田はスタートする前に独特の"儀式"(ルーティーン)を必ず行うことで知られていた。サロメチールを全身に塗りたくる、を手に吐き、これも全身に塗りたくる、後転倒立を行う、など、ともすれば奇行とも思えるような行動であるが、依田はこれらの行動により集中力を高めていたのである。

小林秀雄は『オリンピックのテレビ』というエッセイでスタート数十分前から延々と映し出されたこの動きに小林の独特の観察批評を加えている。

市川崑が監督した東京オリンピックの記録映画でも、80mハードル決勝の場面で依田のこの仕草の一部を見ることができる。

このほか、全国高校陸上大会に初めて出場した際、スタート前に生卵10個を飲みその後も「験担ぎ」といってレース時には実行していた[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 山本幸子「スパイクに恋した女 依田郁子の精神的"アキレス腱"」『Sports Graphic Number』No.92(1984年2月5日号)、文藝春秋、p102 - 107
  2. ^ リレー種目では、1932年のロサンゼルスオリンピックの4x100mリレー(メンバーは土倉麻・中西みち・村岡美枝・渡辺すみ子)で5位に入賞している。
  3. ^ 山本幸子の記事には「依田が自己ベストを出すまで酒を飲まない」と言いながらその直後に飲酒した吉岡に対して立腹したり、課題の練習についていけない後輩選手に対して「できないのなら実家に帰りなさい」と口にしたことなどが紹介されている。