佐賀家喜昇・旭芳子

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佐賀家 喜昇・旭 芳子(さがのや きしょう・あさひ よしこ)は昭和期に活躍した夫婦の漫才コンビ。戦前、戦中は天満など、当時の場末の端席に出ていたが、やがて注目され、戦後はトップホットシアター新世界新花月をホームグラウンドとし人気を博した。

メンバー[編集]

  • 佐賀家 喜昇(さがのや きしょう、本名・北中 浅次郎、1897年 - 没年不詳〔1980年時点では存命〕)
大阪の生まれ。生家はうどん店。17歳で東京落語家三遊亭圓流の門下で圓幸を名乗り巡業していたが、1-2年ほどで師匠が亡くなったために大阪に戻った。もともと生家が近く親しかったのちの2代目桂春團治、この時点では佐賀家圓蝶の紹介で、佐賀家圓助に弟子入りし、佐賀家喜昇となる。22~23歳の時に砂川捨丸・中村春代の門下の初代砂川芳子と組んで漫才に転向し、俄由来のものまね芸を得意とした(後述)。その後浅田家朝日の門下の2代目浅田家芳子(のちに亭号を旭に変える)とのコンビを経て、3代目旭芳子と組む。
通称「喜イやん(キーやん)」[1]
  • 3代目旭芳子(あさひ よしこ、本名・谷 久子、生没年不詳)
玉子家源丸の門下。京都桂米楽とコンビを組んだのち、3代目旭芳子として喜昇と組む。

コンビ略歴・芸風[編集]

芳子が三味線を持って椅子に腰掛け、喜昇が立ってしゃべる、というスタイルの漫才だった。芳子の演奏に合わせて喜昇が新磯節八木節といった民謡を唄ったほか、以下のような喜昇のものまね芸が知られた。

  • 「蝿取り」 - 頬かむりをし、蝿が蝿取り紙に捉えられるまでを演じる形態模写[2]
  • 乞食漫才 - 喜昇が乞食に扮して舞台に現れ、芳子の歌う流行歌「満州娘」の替え歌で「御嫁に行きます天王寺。喜イやん待ってて頂戴ね」に合わせて細身で小柄の喜昇が珍妙な踊りを演じ、あわせて、芳子が「投げ銭、おくんなはれ」と言う。すると、客席の客から、おひねりが投げ込まれる。一節終わり客から喝采を浴びると調子に乗り延長するので席亭を困らせたという。最長1時間20分演じたこともあるという。漫才作家の秋田實は「本物の乞食よりもっと真に迫っていて、ひと頃はキーやんの『乞食』には全漫才が掛かってもかなわなかった。それほどキーやんの『乞食』は面白かった[1]」と回想している。
  • エテ公(猿)の物真似 - 「唯一の芸で至芸である[要出典]」とされた。

このほか、客席から「おい!! キー公!! おもんないねん。帰れ!!」等の野次が飛んでくると欠かさず喜昇は「誰がキー公やアホんだら!!」と絶妙な間で言い返し、笑いを生む客いじりをよくしていた。

これらの芸は「おとろしや漫才」の異名をとった一方、下品とされ、角座のような大きい劇場やラジオ・テレビで披露される事はなかった。また、放送に乗せられなかったのは、喜昇は自分の芸に時間の規制を設けられるのを嫌っていたからともされる。

1935年昭和10年)頃、NHKの脚本家だった長沖一は、売れっ子漫才師となっていた横山エンタツに、「ほんまもんの漫才、見せたげまっさ(略)わたしら、この漫才には勝てまへん」と誘われ、「乞食漫才」の喜昇・芳子の出ている小屋へ通った。また、芸人や芸能関係者、東京から来た大衆芸能好きな見巧者、京都大学の教授といった人々が喜昇・芳子に親しんだという[3]

晩年、喜昇は、桂米朝司会のテレビ番組『和朗亭』(朝日放送)に招かれ、出演したことがある。なお、1971年放送のNHKの「新日本紀行 浪華芸人横丁」において、初めてテレビ出演した時の取材の模様が残されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b 秋田實『笑いの創造 日常生活における笑いと漫才の表現』 日本実業出版社、1972年 p.219
  2. ^ 蝿取りは喜味こいしがテレビで披露した事がある。立花家扇遊高砂家ちび助なども行っていた。
  3. ^ 長沖一『上方笑芸見聞録』 九藝出版 1978年 P7~9

参考文献[編集]

  • 「現代上方演芸人名鑑」(1980年、少年社)

関連項目[編集]