コンテンツにスキップ

佐藤四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大井発電所と大井ダム

佐藤 四郎(さとう しろう、1883年明治16年〉 - 1974年昭和49年〉)は、日本建築家大同電力関西電力などの前身)に入社し、長野県から岐阜県にかけて木曽川沿いに点在する、いくつかの水力発電所の建物設計を手がけた。

生涯

[編集]

山形県米沢市に生まれる。1907年(明治40年)に東京帝国大学(現・東京大学)へ入学。在学中の罹患により、同級生である高松政雄安井武雄内藤多仲らに遅れて1913年大正2年)に卒業。すぐ横浜市山田七五郎のもとで開港記念会館の設計に携わる。1917年(大正6年)に工場建築を主とする野村建築事務所大阪市)に入所。1921年(大正10年)、福澤桃介に招かれ大同電力に入社。同社は木曽川沿いに水力発電所の建設を進めており、その建物設計を任される。1929年昭和4年)より同社の顧問に就任。1931年(昭和6年)、佐藤四郎建築事務所を開設。1974年(昭和49年)、死去。

作品

[編集]

逸話

[編集]
  • 大学在学中、理性的で虚無的な人生観を抱く佐藤に対し、同級生の高松は哲学宗教、特にの大切さについて説いた。ただし、佐藤がこれに納得したのは少し先のことである[1]
  • 桃山発電所は佐藤が大同電力に入社してから初めて本格的に設計に携わった物件であるとされている。福澤は当発電所の設計に当たり、美観を重んじるよう職員に再三指示を出していた。当時は日本各地で水力発電所の建設が進んでいたが、同時に自然の美観を損ねるといった批判も相次いだ。かつては外観を整えようと発電所の玄関に門柱を立てた技師に対し、無駄なことだと叱りつけたこともある福澤であったが、こうした批判を受けて考えを改め、建物の意匠や周辺の植栽など環境整備に力を入れるようになった。

参考文献

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 佐藤「高松さんと私」[1](『高松政雄君の制作と著作』1930年)。

外部リンク

[編集]