佐川幸義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
さがわ ゆきよし
佐川 幸義
生誕 1902年明治35年)7月3日
北海道紋別郡湧別村[1]
死没 1998年平成10年)3月24日
東京都小平市水上町2-1-8 大東流佐川道場(本部)[2]
国籍 日本の旗 日本
職業 武術家。大東流合気武術第36代宗家(1954年〜1956年)[3]。大東流合気柔術宗範(1956年〜)[4]。大東流合気武術佐川道場主宰(1955年〜)[5]
身長 163 cm (5 ft 4 in)(85歳頃)[6]
体重 75 kg (165 lb)(20歳時)[7]
佐川 子之吉[8]

佐川 幸義(さがわ ゆきよし、1902年明治35年)7月3日 - 1998年平成10年)3月24日)は、日本武術家。大東流合気柔術中興の祖といわれる武田惣角の直弟子のひとり。

概要[編集]

大東流合気武術第36代宗家。大東流合気柔術宗範。大東流合気武術佐川道場主宰。

身長163cm(85歳頃)、体重57kg(20歳頃)ほど、華奢で色白な風貌であった[9]

武田惣角の合気を継承。独自に研究・工夫を凝らしながら厳しい修業を半世紀以上にわたって積み重ねた。

合気」について「敵の力を無にする技術である」と語り、指導においては抽象的な精神論や宗教的な説明は用いず、「姿勢を真っ直ぐに保て」「下腹に力を入れよ」など具体的な技術面を強調していた[10]

70代で開発したという体の合気は、体の作用のみで相手を吹き飛ばすもので濡れ雑巾を床に叩きつけるかのようなスピードがあり、高速度カメラで撮影された写真が残されている。

空手ボクシングなども研究し、それまでの大東流になかった合気拳法を創作した。

最晩年は腰を痛め、歩くのも困難であったが門人を投げ飛ばす迫力は衰えなかったという。

92歳の時に心臓の検査を受けるために医師に「何か運動をしてほしい」と頼まれたところ、その場で腕立て伏せを150回やってみせた。

自分の技が表に出るのを警戒した。映像に残す事も許可せず、本を書くのを許した際も、技術の僅かな記述にも神経質だった。

弟子をとる時は、礼儀が出来ているか、きちんとした人生を歩んでいるかを見たと言う。

長男が17歳で病死、佐川が70代の時に妻を亡くしてからは病身の次男との二人暮らしで、炊事洗濯など家事一切を担った。父の資産で購入した東京小平の自宅周辺の千坪の敷地に十数軒の貸家を建て、その収入で生活に不自由がなく、また実子後継者も居ない為、自己宣伝を行なわず[11]道場や流派の拡大[12]も余り図らなかった[13]

経歴[編集]

1902年(明治35年)7月3日、北海道紋別郡湧別にて、雑貨商を営む佐川子之吉(ねのきち)の長男として生まれる[14]。29歳の時に載った人物事典[15]では下湧別[16]出身となっている。

幼少期より甲源一刀流剣術小野派一刀流剣術関口流柔術などを習う。

1912年大正元年)10歳、子之吉が武田惣角に入門。佐川家に新築された道場兼住居に惣角を住まわせる。

1914年(大正3年)12歳、幸義、惣角に正式に入門。子之吉は惣角より教授代理を許される。

1919年(大正8年)17歳、手の骨格の研究に依り[17]合気の原理」を会得する。

1932年昭和7年)30歳、惣角より教授代理を許される。惣角とともに全国を回りながら大東流合気柔術を教授する。

1939年(昭和14年)37歳、秋、惣角より大東流最高の伝位・正統総伝を印可された[18]

1954年(昭和29年)52歳、惣角長男宗清、同三男時宗により大東流36代宗家に指名される[19]

1955年(昭和30年)53歳、東京都小平市の自宅に道場を構え修行と指導を行う。

1956年(昭和31年)54歳、宗家を時宗に譲り、武田家から返礼として「宗範」(前宗家と総師範の意)の称号を贈られる[20]

1972年(昭和47年)70歳、相手を一瞬で飛ばしてしまう「新たな合気」を発見。

1998年(平成10年)95歳、3月24日病没[21]

(※以上特に注記の無い記述は『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』年譜338-339頁に基づく。)

評価[編集]

直弟子同士の対談に拠ると[22]、戦後の大阪に同様の技巧を保有する剣道四段が居たとされる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『孤塁の名人』36頁。
  2. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』337頁。
  3. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』141-143頁(「柔術」ではなく「武術」とある。)
  4. ^ 『武田惣角と大東流合気柔術』49頁(「武術」ではなく「柔術」とある。)、『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』338頁。
  5. ^ 『武田惣角と大東流合気柔術』309頁(「柔術」ではなく「武術」とある。)、『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』338頁。
  6. ^ 『孤塁の名人』6頁。
  7. ^ 『合気修得への道』157頁。
  8. ^ さがわ ねのきち。1867年慶応3年)頃、会津の農家に生まれる。丁稚奉公の後、東京の明治法律学校で勉強し巡査となるも肺を病み辞職。二十歳頃、北海道開拓団員として渡道、下湧別で雑貨商を始め財を築く。1950年(昭和25年)2月28日、東京小平の佐川幸義宅で87歳で没した。(『合気修得への道』153頁。)
  9. ^ 『合気修得への道』157頁
  10. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』149頁、193頁。なお、佐川道場に掲示された佐川直筆の「合気武道遺訓」には「宇宙天地森羅万象の全ては融和調和に依て 円満に滞り無く動じて居るのである その調和が合気なのである」と合気の精神性が説かれていた(『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』5頁)。
  11. ^ 戦後の上京後に荘内日報に掲載された以外は#参考文献に於ける鶴山氏の著作で紹介されるまで殆ど全国的なメディア露出も無かった。
  12. ^ 上記、鶴山氏の著作では東日本の支部が数ヶ所挙げられている。
  13. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』321頁、『孤塁の名人』7頁。
  14. ^ 『孤塁の名人』36頁
  15. ^ 参考文献参照。当時の風習から30歳と記載されている。
  16. ^ 厳密には旧湧別村が上下湧別村へと分かれたのは1910年に時代が下る。
  17. ^ 『現代日本人名録94』
  18. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』140頁
  19. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』140-142頁
  20. ^ 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』143頁
  21. ^ 午後2時頃、門人高田一夫が道場を訪れた所、浴槽の湯に首まで浸かり、両腕を組んで眠る様に死亡している佐川を発見した。晩年心筋梗塞動脈瘤を患っており、発作が起こったと見られる(『孤塁の名人』194頁)。
  22. ^ 『魂の芸術』(福晶堂) - 「佐川先生もこっちが逃げようとしても、離れられないでしょう。」(津本陽との対談章)

参考文献[編集]

外部リンク[編集]