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佐久間勉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐久間さくま つとむ
生誕 (1879-09-13) 1879年9月13日
日本の旗 日本滋賀県三方郡前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)
死没 (1910-04-15) 1910年4月15日(30歳没)
日本の旗 日本広島湾(山口県新湊沖)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1901年 - 1910年
最終階級 大尉
墓所 福井県三方上中郡若狭町南前川の前川神社
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佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉第六潜水艇艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された。滋賀県三方郡前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)出身。

来歴

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1879年9月13日に滋賀県三方郡前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)で、前川神社神官で小学校教諭だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校攻玉社を経て、海軍省入省(海軍兵学校29期入校)。

1901年12月、海軍兵学校卒業。同期に米内光政大将(のちに内閣総理大臣)、高橋三吉大将(連合艦隊司令長官)、藤田尚徳大将(のちに明治神宮宮司を経て昭和天皇侍従長)など。

1903年少尉に昇任、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎えた。日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいた。日露戦争後は水雷術練習所学生として採用され、水雷母艦「韓崎」に勤務、さらに第一潜水艇艇長、第四潜水艇艇長、第一艦隊参謀、春風駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積む。

1906年川崎造船所で大日本帝国が初めて建造した第六潜水艇森電三艇長の下で副長を務めた[1]

1908年、第六潜水艇艇長に昇任。

1910年4月15日、広島湾(山口県新湊沖)で半潜航訓練中に沈没して佐久間以下14人の乗組員全員が殉職した。調査委員会では、佐久間大尉の安全性を軽視した日頃の行動を問題視し、煙突の長さ以上の深度への潜航を命じたことが沈没の直接原因と結論されている。

4月17日、艇が引き揚げられ、艇内から佐久間の遺書が発見された。内容は同年4月20日に発表されるや大きな反響を呼び、同日中に殉職した乗組員14人全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた。同年4月26日には、佐久間の葬儀が郷里の八村(旧 前川村)の前川神社で村葬として執行された。

第六潜水艇沈没と遺書

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後に水交社から写真版で出版された佐久間艇長の遺書

第六潜水艇が訓練中、佐久間は禁止されていたガソリン潜航を無断で行った挙句、煙突を開けたまま、煙突の長さよりも深く潜航するように命じて事故を起こし、乗組員14人全員が殉職した。

殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れずに死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も修繕に力を尽くしていた。佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、潜望鏡より入る微かな光の中で小さな手帳に、明治天皇に艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた。

謹ンデ陛下ニ白ス
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ

その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と斎藤実をはじめとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して絶命した。佐久間が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだった。佐久間の上着のポケットから見つかり、沈没した艇が引き上げられた後に発表された遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。国外(主にヨーロッパ)では同様の事故の折、脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、乗組員同士で殺し合うなどの悲惨な事態が発生していた。それゆえ、出入口へ殺到せずに最期まで修繕しようとしていた佐久間および乗組員の姿は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いた。

国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載されていたほか、夏目漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」 [2]において、佐久間の遺書とその死について言及していた。

その一方、佐久間大尉は潜水艦母船「歴山丸」との事前申し合わせを無視することが多かったこと、申し合わせよりも長時間の潜航訓練を行うことがあり、浮上の遅れが歴山丸の見張り員から異常と思われなかったことなど、佐久間大尉の不注意や指示無視の傾向も、事故発生原因の一因であったことで批判もあったのは事実であり、さらにもっと直接的に、はっきりと禁止されていたガソリン潜航を無断で行った上に、シュノーケルを開けたまま煙突の長さよりも深く潜航を命じて沈没させたと調査委員会で指摘されているため、加藤友三郎は佐久間大尉の軽率で危険な操艦や脱出を図らなかったことを非難している。

今日でも佐久間の命日である4月15日には、出身地の若狭町の佐久間記念交流会館で遺徳顕彰祭が行われている。海上自衛隊舞鶴地方隊舞鶴音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われている。同様に呉市の鯛乃宮神社境内の第六号潜水艇殉難之碑(艇の部品が保存されている)、前日の14日には岩国市の第六潜水艇殉難者記念碑でも慰霊の式が行われている。

栄典

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脚注

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  1. ^ 関榮次 1996, p. 136.
  2. ^ 夏目漱石「文芸とヒロイツク」『東京朝日新聞』1910年7月19日。(オンライン版)文芸とヒロイツク”. 青空文庫 (2003年4月1日). 2023年10月1日閲覧。
  3. ^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
  4. ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
  5. ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。

参考文献

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  • TBSブリタニカ編集部 編『佐久間艇長の遺書』ティビーエス・ブリタニカ、2001年2月。ISBN 4-484-01201-4 
  • 関榮次『遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督』PHP研究所、1996年。ISBN 4569552315 

関連項目

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