佐々木雅弘

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佐々木 雅弘(ささき まさひろ、1975年7月16日 - )は、日本レーシングドライバー岩手県出身。
愛称はマサ、マーくん、ササキング。

佐々木雅弘
SasakiMasahiro 2008.jpg
スーパー耐久2008 Rd.2 仙台ハイランドにて
生誕 1975年7月16日
岩手県
職業 レーシングドライバー


プロフィール[編集]

  • 身長:172cm
  • 体重:62kg
  • 血液型:B型

経歴[編集]

21歳で4輪デビュー。オプション2カップに参戦、8戦全勝を達成。

2001年
シビック東北ワンメイクレースに3戦出場。地方戦では速さが光ったが、その後鈴鹿で行われたF1の前座レースでは予選・本戦ともに惨敗。『競争で初めて挫折を味わった』と周囲に漏らしている[要出典]。シリーズ4位。
2002年
ホンダワンメイクレース(シビック)ワンメイクにフル参戦。5戦中4戦ポールポジション獲得、4度の優勝を獲得するも、第3戦でのリタイヤのため、チャンピオンを逃す。シリーズ2位。
2003年
インテグラワンメイクレース・東北シリーズにフル参戦する。5戦中ポールポジション2回、2位1回、3位2回と好成績を残すが、この年の優勝は1度に止まる。シリーズ2位。
2004年
アルテッツァワンメイクレースで初めて全国レースを経験。シリーズ5位。
2005年
シーズンオフ中に行った徹底的なトレーニングによって、開幕からチームメイトと白熱したチャンピオン争いを展開する。背水の陣で迎えた最終戦で優勝し、念願のチャンピオンを獲得する。
2006年
キングオブアルテッツァシリーズにチャンピオンナンバーで参戦。シリーズ2位、年間最多勝獲得。
2007年
スーパー耐久シリーズにカーナンバー39 TRACY SPORTS-NSXにてSTクラス3に参戦する。スタートドライバーや車両開発をメインで担当し、予選タイムやレース中も何度かクラストップの走りを見せるが、NSXが持つ独特の不安定挙動[要出典]にシーズンを通してチーム全体が苦しむことになり、チームのシリーズ成績は7位にとどまる。
2008年
スーパー耐久シリーズにカーナンバー333 エクセディHISイングスZでSTクラス3に参戦。地元である東北の仙台ハイランドSUGOでは、レース終盤他のチーム関係者[誰?]すらモニターに釘付けになる[要出典]ほどのデッドヒートを展開。接戦で確実にポイントを重ね、開幕3連勝を含む計4回の優勝、2位3回、3位1回の好成績でクラスチャンピオンを獲得する。
2009年
スーパー耐久シリーズにカーナンバー35 asset テクノファースト ZでSTクラス1に参戦。チームメイトは前嶋秀司。初エントリーのクラス1だったが、開幕初戦からBMW勢やY.K.M. ADVAN Zと終始激しいバトルを展開する。しかし、トップを猛追中のマシントラブルやポール獲得目前での赤旗中断など、「お祓いに行ってくる」と漏らすほど不運が重なる[要出典]。この流れはシーズン中盤となっても解消されず、順調にポイントを重ねるライバルとの差は埋まらなかった。シリーズ4位。
2010年
SUPER GT300クラスに参戦するGOODSMILERACING with COXカーナンバー9 初音ミク×GSR ポルシェのシートを獲得。チームメイトは番場琢。GTマシンの特性に苦戦し、開幕戦では番場とのタイム差は開いていたが、第5戦の新マシン投入後には二人のタイム差はほぼ無くなる。終盤には予選2番手を獲得するなど速さも見せるも、結果には繋がらずシリーズ16位となる。
2011年
スーパー耐久シリーズにカーナンバー34 asset テクノ Z34でSTクラス3に参戦。チームメイトは前嶋秀司。マシントラブルに起因するコースアウト、リタイヤを序盤に繰り返した結果、シリーズ5位に終わる。尚、この年の3月11日に発生した東日本大震災で地元の東北地方が広範囲に被災したことから、スポンサー支援を受けられる環境にないとしてSUPER GT参加を断念している。
2012年
SUPER GTシリーズにGSR & Studie with TeamUKYOから、カーナンバー4 GSR ProjectMirai BMWのBドライバーとして参戦することが発表された。体制発表会では谷口信輝片岡龍也に続いて発表されたが、2年ぶりの復帰にひときわ大きな歓声で迎えられた[要出典]。そのほか、スーパー耐久シリーズにもカーナンバー34 asset テクノ Z34でSTクラス3に参戦することが発表されている。

人物[編集]

非常にフレンドリーでファンサービスも熱心である。
明るくサッパリとした性格で、過去に組んだことのあるドライバーや昨今組むことが多い前嶋秀司番場琢、他カテゴリーのドライバーである今村陽一堀野仁らとも非常に良好な関係を築いている[要出典]
少々軽そうな風貌とは裏腹に職人的な性格で、特にセッティングや車両の不具合については少々辛口になりがちなことから、妥協知らずの頑固者という評価もある[誰?]
自動車整備業でメカニックをしていたことから、車両構造、タイヤの使い方、セットアップ知識が高く、理論派ドライバーの部類に入る。ドライビングレッスンや走行会では分かりやすく丁寧な説明で評価が高い[誰?]
GTで勝利し、ルマンを走るという目標を持っているが、資金が最大の敵のようで、その経験から、将来は資金難で才能のあるドライバーの育成と日本のレース環境を少しずつ変えていく活動をしたいと過去に自身のホームページで語っている。また、近年になってレースシーンで得た知識から、モータースポーツ全体の安全に対する意識向上のための活動も行っているようである[要出典]
商品開発や車両開発を担当することも多く、最近では雑誌のタイムアタック企画等でも顔やコメントをみる機会が増えている。
なかなかのイケメンであり、女性のみならず男性のファンも多い[要出典]

ドライビング・セッティング能力[編集]

峠・草レースあがりのハコ車出身であることからか、GTマシンからノーマル軽自動車まで幅広いタイプの車両を乗りこなす。
峠出身といっても、雑なドライビングスタイルではなく、クラッシュも非常に少ない。
ハコ車ベースのレーシングカーのドライビングでは、コーナーに対し回り込むようなアプローチではなく、最短距離かつ車両負担の少ない鋭角なレコードラインを走り、非常に抜きにくいライン取りをとる。コースによっては明らかに他のドライバーと違うラインで走っているケースもあり、同じラインではタイムが出ないドライバー[誰?]が首をかしげて「佐々木ライン」もしくは「ササキライン」と呼んでいる[要出典]
近年は車両セットアップをメインで担当することが多いことから、セッティング能力に高い評価を得ていると思われる[誰?]。また、ショップチューニングカーの車両開発や、メーカーの商品テスト、カー雑誌等のテストに抜擢されることも多い。

レーススタイル[編集]

デビュー当初は速さを求めすぎるスタイルで、優勝かクラッシュかという結果を出すこともしばしば。接触も多く、安定感に欠けるレース運びも見受けられた。
セッティングをめぐってメカニックと対立したことで、結果に繋がらなかったことを強い反省点としている[要出典]
アルテッツァシリーズに参戦した時期から、精神的な成長が速さと強さに繋がりはじめ、近年では大きな接触やクラッシュは殆ど眼にすることもない[誰?]
レース中に接触で抜いてしまったライバルを前に出し、抜きつ抜かれつのバトルをゴール寸前まで繰り広げたエピソードもあり、基本的にはクリーンなレーススタイルだが、別クラスが追い抜きする場合であっても安易に道を譲るような行動はとらないようである[要出典]
結果には特にこだわり、状況を問わず常に優勝とチャンピオン獲得を目指す姿勢とシチュエーションを問わず魅了する走りが出来るため、そのレーススタイルがより高い評価を得ている[誰?]
地方出身で長年資金難で苦しんでいたことから、自分を支えてくれているチームや支援者への感謝をレースの結果で返すという責任を重く感じており、トラブルでリタイアした際であっても詳細を語らないため、結果報告のブログ記事は他のドライバー[誰?]に比べてあっさりとした報告になりがちである。

エピソード[編集]

  • 高校時代、借り物のスクーターバイクで峠を走行中にクラッシュし、大腿骨を骨折し、入院している。
  • 高校卒業後、自動車関係の専門学校に入学するが、友人のAE86スターレットを分解してばかりおり、「整備士の資格は学校外の勉強でとれた」と豪語している[要出典]
  • グランツーリスモもかなりの腕前だが、設置されていたとあるショップで大敗。悔しがっている姿を店に訪れた客と店員に目撃されている[要出典]
  • 初めて関東地方で参加した草レースでぶっちぎりの優勝をし、インタビューで「関東のレベルもたいしたことない」などと悪態をついたことで、出入り禁止にされたことがある[要出典]
  • 2004年に初めて全国レースに参加した際に、当然チャンピオンをとれる思っていたところ、見知らぬコースと体力不足で大苦戦を強いられる。後に「正直ナメていた。」と語っている[要出典]
  • SUPER GTの初参戦時にこれまでのハコ車ベースのレーシングカーとの違いに手こずり、開幕戦後に「カルチャーショックを受けた」と語っている[要出典]
  • 2011年に発生した東日本大震災で地元の東北が大きな被害を受けたことから、「走りで被災者を元気づけたい」と地元紙[1]に語っている。
  • 2011年にひっそりとD1ライセンスを取得、その後のドリフト大会初参加で2位という好成績にもかかわらず、結果に不満げな姿を目撃していた堀野仁選手のブログで紹介されている。

脚注[編集]

  1. ^ 岩手日報、2012年3月21日

外部リンク[編集]