伊賀氏の変

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伊賀氏の変(いがしのへん)は、鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から7月にかけて伊賀氏によって起こった鎌倉幕府政変

経過[編集]

第2代執権北条義時の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)・伊賀の方が、伊賀の方の実子・政村執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策した[1](なお義時の死については、『明月記』は伊賀の方に毒殺されたとする風聞があったことを記し、『保暦間記』では近習の小侍に刺し殺されたとの異説を載せているが、いずれも信じ難い[2])。光宗は鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である三浦義村と結ぼうとするが、伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、京から鎌倉に戻った義時の長男・北条泰時を執権に就任させる。また義村に対し泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐことに成功した[1]。これにより伊賀氏の陰謀は頓挫する[1]。伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行光重は九州へ配流となり、公卿である実雅は朝廷に配慮して京都へ送還された後に越前へ配流となった[1]

しかし彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は処罰を免れ[1]、後に評定衆引付頭人連署など要職を経て第7代執権に就任し、終始得宗家に忠実な姿勢を貫いた[3]。また、主犯として処罰を受けた光宗やその弟の朝行・光重も、政子の死後間もなく幕政への復帰を許されるなど、寛大な措置が採られた。『吾妻鏡』では泰時の温情としている。

これについては、まだ幕府は黎明期で体制が安定しておらず、あまりにも厳重な処分を下せば波紋が広がり幕府の基盤が揺らぐという憂慮に基づく裁定だったとする解釈[4]や、将軍後継として京より迎えられた三寅(後の九条頼経)の側近で義時の娘婿でもあった一条実雅は既に鎌倉内外の御家人に強い人脈を形成しており、泰時は武力衝突の回避と反泰時派の炙り出しの意味も含めて慎重に対応し続けたとする見方もある[5]

一方で、通説は幕府の編纂書『吾妻鏡』貞応3年6月28日条に記された伊賀氏謀反の「風説」を事実と認定した上での説だが、『吾妻鏡』の記事中では伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言されておらず、鎌倉入りの前に事前調査させた泰時によって「謀反の噂は事実ではなく、騒ぎ立てるな」と伊賀氏の謀反は否定されており、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため、この事件はすでに将軍家との血縁もなく、北条本家との関係も希薄となって影響力の低下を恐れた政子が牧氏事件と同じ構図を創り上げて、義時後家として強い立場を持つ事になる伊賀の方を強引に潰そうとして仕掛けたでっち上げで、泰時は政子の画策には乗らずに事態を沈静化させたとする説も唱えられている[6][7]。この説については、言及しつつも「通説もなお傾聴すべきであろう」として、その推測を危ぶむ見方もあるが、特にその根拠は示されていない[8]。一方で、陰謀があったかはともかくとして冤罪だった可能性は高いとして支持する見方もある[9]

義時の先妻(正室)・姫の前の実子である北条朝時はこの政変の時には動かなかったものの、彼もまた評定衆への就任を辞退するなど泰時に対抗する動きを見せている。また、政変の翌年である嘉禄元年(1225年)6月には大江広元が、7月には北条政子が死去しており、泰時主導の体制が固まるまでにはなおも時間を要することになった。

主な出来事[編集]

日付は全て元仁元年(旧暦)による[5]

  • 6月13日 北条義時急死。直ちに六波羅探題にいる北条泰時・時房に対して使者が出される。
  • 6月16日 鎌倉からの使者が六波羅探題のある京都に到着。
  • 6月17日 泰時、未明(丑刻)に六波羅を出立して鎌倉に向かう、しかし、途中で本国である伊豆国(本領のある北条か)に向かう(『保暦間記』)。
  • 6月18日 義時の葬儀が行われる。葬儀の際の兄弟の序列は、北条朝時・重時・政村・実泰有時の順(政村も嫡子ではなく庶子の一人として扱われている)。
  • 6月19日 時房、六波羅を出立して鎌倉に向かう。
  • 6月26日 泰時、時房・足利義氏と共に鎌倉に入るが、この日は由比ヶ浜の別邸に泊まる。
  • 6月27日 泰時、鎌倉の本邸に入る。
  • 6月28日 泰時と時房が北条政子邸に呼び出されて「軍営御後見」(執権の別名)に任ぜられる。泰時が政村を討つという噂が流れ、政村の周辺は騒動となる。また政村の外戚の伊賀光宗兄弟が執権のことについて憤り、伊賀の方が娘婿の一条実雅を将軍に、政村を執権にして、伊賀兄弟に政治を行わせることをひそかに企てているという噂も流れる。泰時方の人々がその噂を泰時に告げるが、泰時はそのような噂は事実ではないと述べて、驚いたり騒いだりしなかった(『吾妻鏡』)。
  • 6月29日 北条時盛(時房の長男)・北条時氏(泰時の長男)が上洛。両人は世間の噂を聞いて鎌倉にいるべきではないかと言ったが、泰時・時房が促して上洛させた。
  • 7月5日 伊賀兄弟が三浦義村の館に出入りし、人々は何か密談をしているのではないかと怪しむ。伊賀兄弟は夜に伊賀の方のいる旧義時邸に集まり何かを変えないことを誓い合っていたと女房が泰時に告げるが、泰時は動揺せず兄弟が変わらないことを誓い合うのは神妙なことだと言う。
  • 7月17日 鎌倉近郊の者どもが集まり騒動となる。政子が義村邸を直接訪問して事実関係を問いただす。義村は何も知らないと答えるが、政子はなおも問い詰め、義村は政村には全く反逆の心はないが光宗らは何か考えがあるようなので私が制止すると言い、政子を帰らせる。
  • 7月18日 義村が泰時邸を訪問して釈明する。泰時は、自分は政村に敵意を持っていないと答える。
  • 7月30日 夜に騒動となり御家人が旗を上げ甲冑を着て競い走るが、実際には合戦など起こってないので夜明けには静まる。
  • 閏7月1日 三寅・政子臨席の宿老会議が泰時邸にて開催。その場に義村が召喚され、事実上拘禁される。葛西清重中条家長小山朝政結城朝光らも召集され、改めて一同に二心が無いことが確認される。
  • 閏7月3日 伊賀の方と伊賀兄弟の処分が決定される。光宗らが実雅を将軍にしようとする陰謀が露見したとして、実雅は公卿のため幕府が勝手に処分できないため京都に送還し朝廷に処分を委ね、伊賀の方と伊賀兄弟は流罪とし、その他の者は罪に問わないとされる。
  • 閏7月23日 実雅の京都送還が行われ、伊賀朝行・光重兄弟が同行を許される。
  • 閏7月29日 光宗の政所執事職を解任し、所領52か所を没収する。母方の叔父の二階堂行村が囚人として預かる。
  • 8月22日 実雅が16日に京へ着いたとの知らせがもたらされる。
  • 8月27日 光宗が処刑されるとの噂が流れ騒動となるが、事実ではなかったので間もなく静まる。
  • 8月29日 伊賀の方が伊豆国北条郡、光宗が信濃国にそれぞれ配流される。朝行・光重は時盛と時氏が囚人として預かり、京から九州への配流が決定する。
  • 10月10日 朝議にて実雅の越前国への配流が決定(実雅は公卿であるため、幕府の奏請を朝廷がそのまま受け入れて朝議決定とする形が取られた)。
  • 10月29日 実雅が解官され越前国へ配流。
  • 11月9日 京に留め置かれていた朝行・光重が九州へ配流される。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 森幸夫 『北条重時』吉川弘文館〈人物叢書〉、2009年、14頁。 
  2. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、P248-256
  3. ^ 高橋慎一朗 『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年、151頁。 
  4. ^ 上横手雅敬 『鎌倉時代 その光と影』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1994年、198頁。 
  5. ^ a b 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』 岩田書院、2020年。 ISBN 978-4-86602-090-7 P41-50.
  6. ^ 永井晋 『金沢北条氏の研究 第2章第1節 伊賀氏事件の歴史的意義』八木書店、2006(初出1997)。 
  7. ^ 永井晋 『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年。 
  8. ^ 目崎徳衛 『史伝後鳥羽院』吉川弘文館、2001年、249頁。 
  9. ^ 呉座勇一 『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年。