伊賀の方

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伊賀の方(いがのかた、生没年未詳)は、鎌倉時代初期の女性。伊賀氏とも呼ばれる。藤原秀郷流の関東の豪族、伊賀朝光の娘。鎌倉幕府2代執権北条義時の後妻(継室)。兄弟に光季光宗。子に7代執権政村の他、実泰時尚一条実雅室など。

義時が前妻の姫の前と離別したのちに継室となったと見られ、元久2年(1205年)6月22日に政村を出産、 承元2年(1208年)に実泰を出産。

貞応3年(1224年)7月、夫義時の急死後、兄光宗と共に実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図るが、尼将軍北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者とした事により失敗し、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となった(伊賀氏の変)。子の政村は事件に連座せず、のちに7代執権となっている。8月29日、伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ配流となり、幽閉の身となった。4ヶ月後の12月24日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測される。

だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[1]

なお、藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている。

脚注[編集]

  1. ^ 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす日本放送出版協会、2000年

関連項目[編集]