伊豆原麻谷

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伊豆原麻谷「蓬莱宮闕図」

伊豆原 麻谷(いずはら まこく、安永7年5月5日1778年5月30日) - 万延元年6月6日1860年7月23日))は、江戸時代後期、三河国加茂郡莇生村(現在の愛知県みよし市)出身の文人画家。名は迂、字は大迂・参賛、通称は橘造。麻谷は号。麻谷が晩年に使用した「原迂参瓚」印の「瓚」字は元王朝末期の画家・倪瓚の名にちなんだもので、別号の「雲林山人」も、倪瓚の号からとったものである[1]。中京の「歳寒三友」の一人とされ(略歴を参照)、江馬細香貫名海屋をはじめとする笑社の社友でもある[2]

略歴[編集]

安永7年(1778年)5月5日、三河国加茂郡莇生村西山(現在の愛知県みよし市)の大工職・伊豆原喜六の三男として生まれる[3][4]

天明元年(1787年)、10歳のとき、名古屋禅寺町某寺へ入って徒弟となり、読経の合間に画を描くことを楽しみとしていた。麻谷を得度した師僧が、「わしよりも画が上手に描けたら、描くことを禁じない」と言って四君子を描いた。この和尚も画心のある人だったが、麻谷の描いた画はそれを上回るものであったという[5]。麻谷はその後も絵を描き続け、16歳になると還俗して京都へ上った。

寛政9年(1797年)、20歳のとき、長崎へ游学して方西園費晴湖に師事し、9年間におよぶ古画臨摸の末、清人直伝の画技を修得する[5]

文化4年(1807年)、30歳のときに京都へ戻り、中林竹洞山本梅逸と「歳寒三友」の契りを交わしたと伝えられる。俗説ではそのために麻谷が一時期「松谷」と号を改めたという[6]。しかしながら、麻谷の画は純然たる中国の古画にもとづく画法で描かれており、南宗画論にいう「気韻」を重んじて「形似」を重んじない画風であったので、竹洞や梅逸のようにもて囃されることもなかった。[7]。しかしながら、鉄翁祖門の門人・倉野煌園が輯録した『鉄翁禅師画談』に紹介されるように、少なくとも当時南宗画のメッカであった崎陽において、非常に評価された文人画家であったことを忘れてはならない[8]

文政3年(1820年)、43歳のときに京都を去って大阪に出て、その後は各地を放浪した後、文政10年(1827年)、50歳のときに名古屋に帰り、田部井竹香はこのときに「麻谷」へ復号したと述べている[7]

天保7年(1836年)、59歳のとき、京都東福寺にて浦上春琴山本梅逸とともに「通天橋図」を描いており、嘉永6年(1853年)の秋、再度「通天橋図」(文人画研究会蔵)を製作している[9]

弘化元年(1844年)、67歳のときに江戸の書肆雁金屋で目にした「蘭亭図模巻摺帖」が強く印象に残り、その後一年間のイメージトレーニングを経て、ついに「蘭亭図」を製作[10]。嘉永4年(1851年)、74歳のとき、長崎を訪れて「長崎真景図」(個人蔵)を画き、嘉永7年(1854年)、77歳のとき、莇生村へ戻る。

万延元年(1860年)6月6日、83歳にて没。現在の名古屋市中区にある正福寺に葬られた。その門人に牧野練石・林稼亭らがいる。

代表作[編集]

脚註[編集]

  1. ^ 特別展・郷土の画人『伊豆原麻谷 名品展』(三好町立歴史民俗博物館 1993)63頁・註10参照。
  2. ^ 『頼山陽全書』全伝の「師友及關涉諸家生歿」にその名がみえる。笑社については『笑社論集』(文人画研究会 2021年)所収「笑社記」の解説を参照。
  3. ^ 『森銑三著作集』第四巻所収「麻谷に与えた竹洞の書簡」中央公論社、1989年
  4. ^ 田部井竹香『古今中京画談』168頁。
  5. ^ a b 田部井竹香『古今中京画談』169頁
  6. ^ 田部井竹香『古今中京画談』169頁に説くように、たしかに麻谷が号を「松谷」と改めることで、松谷・竹洞・梅逸の三人で「歳寒三友」を象徴する「松竹梅」とはなるが、これまで「松谷」と題した画幅は見つかっていない。
  7. ^ a b 田部井竹香『古今中京画談』170頁
  8. ^ 倉野煌園輯録『鉄翁禅師画談』鴻盟社、1885年の緒言に「尾張ニハ麻谷・梅逸、美濃ニハ秋水・杏村・細香・訥斎」と述べている。
  9. ^ 伊豆原麻谷筆「通天橋図」の自画賛による。
  10. ^ 文人画研究会編『読画塾』第3号(14頁)にみえる共箱の解読箇所を参照。
  11. ^ 文人画情報誌『読画塾』第4号(文人画研究会 2013年)31~33頁に画幅掲載、画讃についての解説がある。
  12. ^ 文人画情報誌『読画塾』第3号(文人画研究会 2013年)12頁に画幅掲載、14~20頁に画讃などについての詳細な報告がある。
  13. ^ みよし市立歴史民俗資料館編『南画家 伊豆原麻谷とその時代』(みよし市立歴史民俗資料館 2015年)15頁に画幅掲載。また42頁に「この時期の麻谷作品には明末の画家の影響があると思われる。嘉永5年(1852)に描かれた「酔翁亭図」には、麻谷自身の箱書が付随し、そこに「因明人之図製」とあることが、それを裏付ける」とある。

参考文献[編集]

  • 森銑三『森銑三著作集』第四巻所収「麻谷に与えた竹洞の書簡」(中央公論社 1989年)
  • 田部井竹香『古今中京画談』(興風書院 1911年)
  • 名古屋市役所編『名古屋市史』人物編(名古屋市役所 1934年)
  • 伊東信『濃飛文教史』(博文堂書店 1935年)
  • 名古屋市博物館編『尾張の絵画史 南画』(名古屋市博物館 1981年)
  • 服部徳次郎『愛知書家画家事典』(愛知県郷土資料刊行会 1982年)
  • 吉田俊英『尾張の絵画史研究』(清文堂 2008年)
  • 許永晝『読画稿』(文人画研究会 2015年)
  • みよし市制施行記念 秋季特別展『没後150年 南画家 伊豆原麻谷~精密・気韻・異端~』(みよし市立歴史民俗資料館 2010年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]