伊藤平治郎

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伊藤平治郎
いとう へいじろう
生年月日 1880年(明治13年)5月18日
出生地 三重県四日市市
没年月日 1941年(昭和16年)
出身校 東京高等商業学校(現在の一橋大学)中退
親族 6代目伊藤平次郎

日本の旗 富洲原町議会議員・実業家・歌人・平治郎橋の建設者。
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伊藤 平治郎(いとう へいじろう、1880年明治13年)5月18日 - 1941年昭和16年)1月三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家実業家歌人

歌人[編集]

  • 「伊藤平治郎編」の「鈴木小舟自歌集の白鳳」を出版した。本名の憲彦や伊藤家の養子として襲名した伊藤平治郎以外の呼び名があり、歌人名では、伊藤美挙といわれた歌人である。三重県三重郡菰野町湯の山温泉茶会や歌会を伊藤平治郎が中心となって開催していて、伊藤平治郎自身も参加していた。湯ノ山に山隠れをする鈴木小舟と幼年期に出会った伊藤平治郎は、その後歌人で書家でもあり、古筆研究家や宮内省御歌所寄人である阪正臣から執事を受けて佐佐木信綱とも交流を深めた。松平楽扇公(松平定信)自筆本である「住吉百首和歌」2巻の復刻作業や知己への配布をした[1]

家系[編集]

伊藤家の家系図
  1. 伊藤家の祖である伊藤治郎右衛門
  2. 伊藤治郎右衛門の長子の伊藤治右衛門(享保11年に死没)
  3. 伊藤治右衛門の長子の伊藤平右衛門
  4. 伊藤平右衛門の長子の初代伊藤平治郎
  5. 伊藤治右衛門の次子で初代橋詰家当主の伊藤惣右衛門
  6. 伊藤惣右衛門の子供の伊藤宗平衛
  7. 伊藤治右衛門の三子の伊藤治郎吉

橋詰家[編集]

  • 江戸時代に富田一色村の海運橋の東北詰に伊藤氏が住んでいました。これを橋詰と言いました」と、富田一色観静寺の境内の、大きな公孫樹の樹樹があり、そばの立札に記述されている。伊藤氏とは、伊藤惣平衛のことで、初代伊藤平治郎の叔父に当たり橋詰家の先祖である。橋詰家は代々回船問屋を営み、主要な事業として五十集を担当していた。その後、惣兵衛の子孫の伊藤宗兵衛は、富田一色本町に神楽獅子を、富田一色村の観静寺に地獄絵図と観音図各一幅を寄進している。

4代目伊藤平治郎[編集]

  • 富田一色村民の通行を便利にして、米などの運搬を速やかにするため、八風道路の改修に着手した。改修区間は、交通量の多い大矢知から富田一色港に至る、20余町(約2.4km)の距離で、八風街道の改修工事には多額に費用を費やした。平治郎は努力して私財を投入して沿道の田畑を買収して、八風街道の改修工事を推進した。1838年天保9年)8月ようやく八風街道の改修工事が完了した。総出費は136両2分であった。八風街道の改修の功績で、4代目伊藤平治郎は、翌年の1839年(天保10年)5月に郷士格を賜った。

経歴[編集]

  • 三重郡日永村(天白地区で現在の住所では四日市市日永二丁目)の真宗高田派の興正寺で、伊藤家の娘婿になっていた寺の男性が父親で、父は7代目伊藤平治郎と漢字が一文字違う6代目伊藤平次郎を襲名していて、伊藤家の5代目伊藤平次郎の娘と婿養子との間に生まれた第3男子で、幼名は憲彦と命名された誕生した。の実家がある三重郡富洲原町の伊藤家の養子となり、7代目伊藤平治郎を襲名する。伊藤家は富田一色を起点として四日市市富洲原と滋賀県米原を結ぶ八風街道を建設した家だった[2]
  • タオル製造業を営んでいる。1904年(明治37年)11月に万国博覧会の他の品評会で優秀賞を授与されて、宮内省の買い上げ品の光栄を得た。
  • 学歴は一色学校(現在の四日市市立富洲原小学校)→東京商工中学校を卒業した。東京府に移住(上京)して東京高等商業学校一橋大学の前身)で学んだが、19歳のとき病気になった事が理由で、大学を中退して故郷の富洲原に帰郷する。

実業家[編集]

  • 1902年(明治35年) - 富田一色倉庫を開設する。富洲原村に愛知銀行富田一色出張所と倉庫会社を創設した。将来の発展の才能があると伊藤甚太郎富洲原村長より信望があり褒められた。公共事業に熱心であった。
  • 1904年明治37年)- 三重浴布商会を設置する。 
  • 1919年大正8年)- 三重織布を創業する。生産額と品質が三重郡富洲原町(四日市市富洲原地区周辺)生産額は最高で品質は上質であり、日本一のタオルの生産地と呼ばれるようになり、宮内省から上質の大和タオルを賜る。
  • 1934年(昭和9年)名古屋税務監督局の所得税調査委員と富洲原町の商工会会長と富洲原町会議員を兼務する。
  • 1937年昭和12年) - 三重郡県村の下海老原地区(現在の四日市市県(あがた)地区)に羊毛生産農園の祥来円を建設した。東洋紡績富田工場や三重織布と三重浴布で繊維生産をするための羊毛の原料確保に必要であるからで、海外からの輸入ではなくて現地の三重郡で調達された原料による生産を重視した[3]

政治家[編集]

富洲原町会議員[編集]

  • 1923年(大正12年)1月1日に、三重郡富洲原村が伊藤平治郎が誘致した三重紡績株式会社を前進とする東洋紡績富田工場や、初代平田佐次郎が創業した漁網を製造する「平田商店」が事業を拡大して、その後平田一族(平田家)が経営する(平田製網)となり昭和時代に拡大発展した平田紡績など繊維産業を中心とする軽工業化によって富洲原村の人口が増加した事を背景に町制施行をして、三重郡富洲原町が誕生した。伊藤平治郎は富洲原町会議員に就任する。

富洲原町の家(苗字)[編集]

  • 富洲原町会議員を務めた大日本帝国時代の封建的な家制度下における代表的な家柄で、地縁血縁による一族として富洲原地域に多数存在した苗字は、以下である。
  • 富田4家である以下の家があった。
  1. 伊藤家
  2. 渡辺家
  3. 鈴木家
  4. 小川家
  • 富田一色4家である以下の家があった。
  1. 野呂家
  2. 樋口家
  3. 渡部家
  4. 生川家
  • 天ヵ須賀地区には天ヶ須賀4家である以下の家があった。
  1. 旧家の天野家(天ヶ須賀村(天ヵ須賀地区)に最古の家であり、天ヶ須賀の地区名の由来は天野氏から)。
  2. 旧家の田代家(鉄砲医者であった田代随意の子孫である)。
  3. 早川家(川越町豊田地区から移住して天ヶ須賀村民(天ヵ須賀地区民)となった)
  4. 高橋家(天ヶ須賀地域(天ヵ須賀地区)に多数居住する)がある。

四日市市議会議員[編集]

  1. 天ヶ須賀早川家(早川政蔵・早川新平)
  2. 松原伊藤家(伊藤信一)
  3. 松原田村家(田村末松)
  4. 富田一色生川家(生川平三郎の息子である生川平蔵)
  5. 富田一色小川家(小川政人)
  6. 富田一色野呂家(野呂幸太郎)は、三重郡富洲原町の四日市市への合併後に四日市市議会議員を務めた。

富洲原町の自治会制度[編集]

  • 政治家の富洲原町議会議員として三重郡富洲原町の町政を担当し、富田一色地区の自治会制度の創設・天ヶ須賀地区の自治会制度の創設・松原地区の自治会制度の創設を行った。また、三重郡富洲原町の商店街整備・発展に貢献するなどの町作りを行った。

富田一色地区[編集]

  • 富田一色地区に江戸時代桑名藩領の朝明郡富田六郷時代の富田一色村の町割りで旭町・港町・北町・南町・堺町・中町・北條・南條・本町・寺町・八間家町・山ノ神町・大黒町・夷町・布袋町・弁天町・江戸町・豊富町があった。そこから大正時代三重郡富洲原町によって富田一色地区の町割りをして以下の自治会名を命名した。
  1. 北部(北条)が旭町自治会・港町自治会・北町自治会・七軒町自治会・本町自治会・中町自治会・広小路町自治会の大通り
  2. 中部(中条)が寺町自治会・新町自治会・南町自治会・堺町自治会・八軒町自治会
  3. 南部(南条)が蛭子町自治会・大黒町自治会・布袋町自治会・弁天町自治会・江戸町自治会・豊富町自治会
  • 富田一色地区の各町名の命名と自治会制度を創設した。
  • 以下の自治会名は七福神から由来する。
  1. 蛭子町自治会の蛭子
  2. 大黒町自治会の大黒
  3. 布袋町自治会の布袋
  4. 弁天町の弁天
  • 松原地区から伊藤甚五兵衛が買収した土地を富田一色地区の富田一色甚五兵衛町として松原地区から富田一色地区に編入して、富洲原町(富田一色地区と天ヶ須賀地区と松原地区)の中心部である好条件の土地に1916年(大正5年)に四日市市立富洲原小学校を建設する。

天ヶ須賀地区[編集]

  • 天ヶ須賀地区に創設した自治会は以下である。
  • 港町自治会
  • 南町自治会
  • 本町自治会
  • 寺町自治会
  • 中町自治会
  • 江戸町自治会
  • 岩戸町自治会
  • 常盤町自治会
  • 北町自治会
  • 島崎町自治会の各町名の命名と自治会制度を創設した。
  • 以下の自治会名は天ヶ須賀地区の旧家である天野氏の出身地の三河国山中庄岩戸と常陸国磐城が由来である。
  1. 常盤町自治会の常盤
  2. 岩戸町の岩戸
  • さらに、入江で造成された埋立地として住吉町歓楽街が誕生して、住吉町に赤線を富田地区や富田一色豊富町と松原地区から集めて売春街を作った。ここ須賀浦(須賀浦海水浴場)を整備して、名古屋方面から伊勢電鉄富洲原駅に下車して海水浴を楽しむレジャー施設を作って、富洲原の観光地化をした。

松原地区[編集]

  • 松原地区の自治会は、朝明川から土工動力で走るトロッコ線路を敷いて、を運搬して埋め立てて造成された(現在の住所制度では四日市市富州原町の東洋紡績の敷地や宮町社宅や東洋町商店街付近や西元町商店街付近や茶の水町などの松原地区。富田一色地区の甚五兵衛町や四日市市立富洲原小学校付近。三重郡川越町の豊田地区の天神町商店街付近)の土木工事をして、松原西町自治会と松原元町自治会が合併をした西元町商店街を作り東海銀行百五銀行などの金融機関を誘致して銀座街とよばれた。
  • 東洋紡績富田工場由来の東洋町商店街が誕生して平治郎が東洋町自治会の命名者となり東洋町を中心に西元町や緑町や住吉町の商店で構成される富洲原商工会の会長に就任した。
  • 地域出身の個人からの寄贈で一王稲荷神社が建立されて、文化街として八千代座劇場(その後映画館⇒パラダイス劇場⇒スーパーオカダヤ富洲原店⇒スーパーミスターベンリ⇒住宅団地)が立地していた緑町自治会が誕生した。
  • 清流である茶の水川由来の茶の水町自治会が設置された。
  • その他の松原地区の自治会は以下である。
  • 千歳町自治会
  • 錦町自治会
  • 新栄町自治会
  • 本松町自治会
  • 八風町自治会
  • 平町自治会
  • 松武町自治会
  • 松ヶ枝町自治会が設置された。
  • 東洋紡績従業員の社宅で成立した松原宮町自治会の松原地区の各町名の命名と自治会制度を創設した。
  • 松原地区は富洲原の中心市街地として商店街がある商業地になり松原の石取祭が6台で盛大に行われるようになる。 

富洲原の政治家[編集]

  • 1916年(大正5年)、三重紡績富田工場(後の東洋紡績富田工場)を大地主で有力者の2代目平田佐次郎を説得して誘致する。2代目平田佐次郎と共に三重郡富洲原町の建設をリードして東洋紡績富田工場と平田紡績富洲原工場の2大紡績会社による工業化政策をとった。
  • 伊藤平治郎、水産功労者の生川平三郎、(2代目)平田佐次郎の3人による三重郡富洲原町政が行われた。
  • 伊藤平治郎は富田一色地区及び松原地区の担当として、東洋紡績富田工場の誘致による松原地区の工業化政策と商業化政策を行った。
  • 2代目平田佐次郎は富田一色地区と天ヶ須賀地区を担当して平田紡績による製網業の工業化政策で富田一色地区と天ヶ須賀地区の橋渡しとなった。
  • 生川平三郎は富田一色区長として水産業を中心とする富田一色地区の担当と、隣の三重郡富田町と富洲原町との政治経済関係を担当した。
  • 富洲原町長より伊藤平治郎や生川平三郎などの富洲原町会議員の権限と大地主の平田紡績家の力が強かった。富洲原町長の安達松治郎は形式のみの名誉職であり、富洲原町政の実権を握っていたのは富洲原町会議員と各自治会長と平田家であった。富洲原町は三重県で最初の近代化や工業化に成功した地域となった。三重郡富洲原町は大正時代に東洋紡績富田工場と平田紡績の建設で三重県で最初に工業化を達成した。次いで東洋紡績東洋紡績楠工場)と東亜紡織東亜紡織楠工場)の建設で三重郡楠町昭和時代初期に工業化を達成した。

東洋紡績富田工場と平田紡績の建設[編集]

  • 東洋紡績富田工場の建設の陰には伊藤平治郎の努力があった。1912年(明治45年)の大正時代以前は三重郡富洲原村の主要産業は漁業農業であった。漁業は不安定であり、農業も耕地が狭い上に塩分が混じる不良田があり、生産は行きつまりの状態であった。工業は漁網を生産する平田製網とタオルを生産する伊藤平治郎が経営する会社の三重浴布があるにすぎず、富洲原村内の子女を養うには不十分であった。伊藤平治郎は富洲原に大工場を誘致して、東洋紡績で最大規模の工場だった東洋紡績富田工場から得られる収入で富洲原発展に結び付けようと思考した。富洲原には、塩役運河と呼ばれた堀川の西の堤防に囲まれた土地が広がっていた。この土地大字松原の一部で小字名も塩役と呼ばれていて、塩水が混じるので不良田が多くて、芦原になっているところであった。それゆえ農業には不向きだが、海上交通は有利な条件を備えており、松原地区に新しい工場を誘致しようとした。伊藤平治郎は誘致工場に富洲原に近い大企業の三重紡績の(その後の東洋紡績株式会社)を選び、経営者の10代目伊藤伝七と交渉して、平田製網の経営者で富洲原の大地主の2代目平田佐次郎の協力を得てひそかに工場用地を買収をすすめた。ところが米価の高騰が地価上昇となり、地主が土地売却を売り惜しんだこと、計画途中で社宅買収が必要となり、秘密買収が伊藤平治郎の私欲である噂が広まり交渉が進まなかった[4]
  • 以下の富洲原の政治家が東洋紡績富田工場敷地となった大字塩役の土地買収に尽力した。
  1. 2代目平田佐次郎
  2. 片岡徳松
  3. 加藤正家(三重郡富洲原村長)
  4. 田村与三吉(三重郡富洲原村の助役
  • 富洲原町の有力政治家の援助もあった富洲原村民の理解も進み、1915年(大正4年)に、ついに東洋紡績富田工場の建設工事が始まった。

富洲原町の人口[編集]

  • 四日市市史や富洲原地区の郷土史料の人口統計では、三重郡富洲原町の人口は大正時代初期には富田町と同数レベルだったが、大正時代に富洲原町は約6000人増加して、富田町は1700人の増加であったので富洲原町のほうが4000人多くて経済的に差をつけた。1921年(大正10年)には1万人を突破した。
  • 1941年(昭和16年)の四日市市に合併する直前の人口統計は合計約1万6000人で、その内男女比は男性人口が約6000人対<女性が約10000人(1万人)の割合で、性比が60%で女性比率が日本一多い市町村であった。昭和13年調査の東洋紡績富田工場の従業員が合計3652人であり(綿糸・綿布・紡績工場であり、男性従業員が246人で若い女性労働者が3406人)と昭和13年調査の平田紡績の従業員が2544人であり(製網・綿糸・綿布工場であり、男性従業員が381人で若い女性労働者が2163人)[5]や三重織布工場の従業員が211人で(タオル工場・別珍製織工場であり、男性従業員が18人で若い女性労働者が196人)や平田浴布の従業員が30人で(タオル製織工場であり、男性従業員が2人で若い女性労働者が28人)などの若い女性労働者の流入が理由であった。
  • 若い女性人口が多かったため伊藤平治郎は女子教育に力を入れて、三重郡富洲原町に三重県富洲原町立実科高等女学校(戦後に現在の三重県立四日市高等学校に統合された)を開校をした。

富洲原駅と三岐鉄道の建設[編集]

上下水道などの福祉[編集]

  • 平治郎は三重郡富洲原町に日本全国では12番目の下水道であり、三重県下でも津市に次ぐ下水道を建設した。富洲原港の整備事業の実施。富洲原町立の火葬場と墓地の建設を1924年(大正13年)から1925年(大正14年)の間に行い、宗教施設の設置をする。富田一色地区民(6000人)が使用する下水道設備と大矢知村を水源とする上水道を建設した。
  • 貧困層のための社会政策として三重県下で初めての公益質屋を開設した。富洲原町民の利用率は40%。約4割の40パーセント前後であった。
  • エピソードとして、1913年(大正2年)の愛知県名古屋市の全国博覧会に、平治郎がタオル出品のため出席した。その会場で一枚の統計表を見た平治郎は、ひどい衝撃を受けた。それは日本国内の全国市町村のトラホーム(トラコーマ)患者数の順位で、第1位に三重県富洲原村を記述されていたからであった。普段平治郎は赤い目の人を見つけて気の毒に思っていたが、富洲原村会議員でありながら、何とうかつな申し訳なさで胸をふさがれて、1時間を立ち尽くしていた。帰りは関西本線富田駅から飯田病院で行き、飯田左三院長と石田誠副院長にトラホームの根絶を尋ねて、ただ一言『上下水道の完備です』と、また石田誠医師は『無料診療券』と回答した。平治郎は『まず下水道工事、その後上水道を造りましょう。富洲原村での下水はどぶの状態ですから、上水道を先に造ればかえって困るはずだ』。石田医師の提案の無料飲料はすぐ平治郎が実施した。平治郎は大学教授から教育されて、水道技術を学び、文献を読み、内務省で全国の上下水道の現状を調査して、工事の専門家にも話史を聞いた。全国10か所ほどの先進都市に見学に行った。三重県庁では、この不況期に、都市でも普及が早期なのに、村で水道なんて早過ぎると一笑されたが、あきらめず10年余りも内務省三重県へ通い続けた。三重郡富洲原村は1923年(大正12年)に三重郡富洲原町に昇格して、上下水道事業に全力を注ぎ、巨額の予算が計上された。各家庭も水道貯金を積み立てて、富洲原町をあげて上下水道工事を推進した。昭和初期に下水道が完成して、上水道は父が一番良いと考えて広島県呉市の方式で完成して、1929年(昭和4年)に通水式を迎えた。平治郎は娘のともに『お父さんの生涯で大事な日だ。お前も学校を休んで式場へ行きなさい』と出席させた。富洲原小学校で行われた通水式は、小学生、役員など富洲原町民約1000人が、今村真橘富洲原町長の押されるボタンを一瞬シーンと待った。校庭には新設された噴水が、朱塗里の太鼓橋の横からサーと上がった。ドッとどよめきの後拍手が沸いた。平治郎は真っ直ぐに立ちモーニング服に涙を流した。

朝明市構想[編集]

  • 平治郎は三重郡富田町と富洲原町と大矢知村の3ヵ村が対等合併をする「朝明市」構想を立て合併協議を行った。
  • 富田町と富洲原町の主導権争いと対立が起きて合併が困難になり、<大四日市構想>があり東洋紡績四日市港などの経済関係が重視されて、三重郡富洲原町は1941年(昭和16年)2月11日紀元節四日市市と合併して、四日市市富洲原地区となる。

平治郎橋[編集]

平治郎橋の建設[編集]

  • 富田一色の地形は、西に松原地区があり富田一色地区から松原地区に行くは運河(塩役運河)を渡らなければならなかった。北側には富洲原港(富田一色漁港)と東側には伊勢湾の海水浴場の砂浜がある。南側のみ陸続きであり。西側は運河、北側は漁港で、東側は砂浜で、南側に繋がっているのが現在の東富田町である。半島型の漁師町であり江戸時代桑名藩朝明郡所属の富田六郷時代に下町として街作りが行われた密集地であった。富洲原地区は中央を南北に運河が流れている地形で富田一色地区と松原地区が遮断されている。富田一色地区民が運河である東西の堀川を渡って国鉄富田駅へ向かう際、富田一色北側の海運橋しかなく、南部には橋が無いため南部の人は富田駅に行くには、海運橋まで迂回してまず現在の松原西元町商店街に行き東洋紡績富田工場を通る遠回りだった。
  • そこで伊藤平治郎は1899年(明治32年)交通上の不便解消と父の還暦祝いに永遠に富田一色地区を繁栄させる事業として、富田一色の南部から富田の代官町の中間を通って富田駅に通ずる橋の新設を決意した。経費は当時の650円で、日露戦争直後に新しく予算を増額して1960円で幅が2間で、長さが8間であった。富田一色北部の商店は得意客が減少すると言って反対した。1908年(明治41年)に、近回りとなる南寄りに平治郎橋を私財で建設した。
  • 地元の富田一色地区の住民の要望で富田一色豊富町(南側)に架けられた近回りの橋は伊藤平治郎にちなんで「平治郎橋」と呼ばれた。現在、平成時代に建設されて架けられているのは3代目の橋で、四日市市が計画した治水事業と景観事業の公共工事で塩役運河は埋め立てられて水と緑のせせらぎ広場となっている[7]

娘の田村ともの回想[編集]

  • 三重郡菰野町の田村家に嫁いだ娘の「とも」が、1989年(平成元年)富洲原地区の広報富洲原(とみすはら)に父伊藤平治郎の思い出平治郎橋のむかし・いまとして平治郎橋建設の逸話を寄稿した。東京都上野国立博物館で、当時(明治時代)に伊藤平治郎が発行した金本位制による交換券が展示されている。
  • 平治郎の娘の田村ともの寄稿文はこのように紹介されていた。「明治時代江戸時代鎖国から開国して、西洋文化が流入した。文明開化の時代で鉄道は大日本帝国臣民である明治時代の日本国民の待望であった。関西鉄道が開通して、祖父の6代目伊藤平次郎は旅行好きで京都市の寺院へ国鉄富田駅から鉄道へ行けるのを喜んでいた。父伊藤平治郎の祖先の江戸時代の封建制度士農工商身分では武士階級であったが、江戸で商いを始めて成功して郷里の桑名藩領であった四日市市富田地区の茂福村へ善教寺を建立して、富田六郷の富田一色村へ移住した。父伊藤平治郎は伊藤家の6代目の祖父が、富田駅が明治時代末期の当時は富田の東富田町へ迂回して廻らなければ行けず、祖父は寄進してでも橋をかけ、富田駅へまっすぐ直通の道をつけたいと言っていた。3代目伊藤家当主の伊藤才助が千石船を2隻保有して伊勢国江戸を交易して伊藤家は繁栄して相応の家財を残して、加えて川越町の南福崎地区と北福崎地区の福崎村の田んぼを売却して資金を作った。祖父は1904年(明治37年)に亡くなり父伊藤平治郎はその志を継いで1908年(明治41年)に最初の平治郎橋を完成させた。父伊藤平治郎は自分の名前が付いた橋をと思った訳でなく富田一色村の人達から当然のように伊藤平治郎の名前から平治郎橋と橋名が決定された。」

参考文献[編集]

  • 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」
  • 1985年(昭和60年)と1989年(平成元年)富洲原地区の広報「富洲原(とみすはら)」
  • 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念史
  • 四日市市史(第18巻・通史編・近代
  • 三岐鉄道株式会社(社史)
  • 「のびゆく四日市」 四日市市教育委員会 小学校3年生4年生用教材
  • 漫画「四日市の歴史」
  • 三重県紳士録(大正4年発行)

脚注[編集]

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  1. ^ 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」詩人の項目は70ページ1行目〜71ページ6行目。住吉百首和歌の項目は71ページ16行目〜21行目
  2. ^ 「のびゆく四日市」 四日市市教育委員会 小学校3年生4年生用教材100ページの項目
  3. ^ 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」71ページ上段7行目〜下段15行目
  4. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌の147ページの項目
  5. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌168頁
  6. ^ 三岐鉄道50年の歩み(三岐鉄道株式会社発行)112頁
  7. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌133ページ上段1行目〜下段15行目の項目

関連項目[編集]