伊藤修令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
伊藤 修令
生誕 (1937-03-07) 1937年3月7日(80歳)
広島県竹原市
国籍 日本の旗 日本
教育 広島大学
業績
専門分野 機械工学
勤務先 プリンス自動車工業
日産自動車
オーテックジャパン
設計 日産スカイライン(7代目R31型終盤から、8代目R32型まで)
日産マーチ(初代)
日産プレーリー(初代)
日産ローレル(C32型)
成果 スカイラインGT-Rの16年ぶりの復活(KPGC110型以来)


伊藤 修令(いとう ながのり、1937年3月7日 - )は、日本技術者広島県竹原市出身。

来歴・人物[編集]

1959年昭和34年)広島大学工学部機械工学科卒業。同年4月、プリンス自動車の前身の富士精密工業に入社。

シャーシ設計を主にスカイライン(ALSID II型~S50型系)を担当。日産自動車との合併後も、スカイライン、ローレルレパード(F30型)の開発に参画。1982年(昭和57年)1月からはプレーリー(主管)、マーチK10型(主管)などの開発を担当。

1984年(昭和59年)には、スカイラインの初代から開発に携わり、2代目からスカイラインの開発主管を一貫して務めていた桜井眞一郎が病に倒れて入院した事により、旧・プリンス時代からの桜井の後輩で一番弟子であり共に車両開発に携わっていた伊藤が、急遽、他車種の開発主管から異動してスカイラインの開発主管を桜井から引き継ぐ事となる。

しかし、伊藤がスカイラインの開発主管として桜井から引き継いだ時は、次期型として開発中であった7代目(R31型・7th(セブンス))は前任の開発主管の桜井の下で車両開発がほぼ終盤を迎えていた状態であり、伊藤が実際に7代目(R31型・7th(セブンス))の開発主管として携わった仕事は、運輸省(当時)(現・国土交通省)に認証登録の申請をしただけであったという。

1985年(昭和60年)8月、スカイラインは7代目(R31型・7th(セブンス))にフルモデルチェンジされて発売されたものの、歴代のスカイラインユーザーやスカイラインファンや自動車評論家などの各界から不評を買ってしまう結果となってしまう。だが、実際、7代目(R31型・7th(セブンス))は前任の開発主管であった桜井の下で車両開発されており、伊藤が7代目(R31型・7th(セブンス))の車両開発に直接携っていないにもかかわらず、7代目(R31型・7th(セブンス))の新車発表時のスカイラインの開発主管として、各界から7代目(R31型・7th(セブンス))に対する不評を聞き入れた悔しさを挽回すべく、次期型となる8代目(R32型)の開発主管も伊藤が引き続き担当して車両開発の初期段階から直接携わった。

1989年(平成元年)5月、スカイラインは8代目(R32型)にフルモデルチェンジされて発売され、一般価格帯のGTSグレードをはじめとするスカイライン全般のスポーツイメージを高めて、新車発表から3ヵ月後の8月に追加発売されたGT-Rを16年ぶりに復活させて好評を得た後、オーテックジャパンに出向して常務取締役、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナルのテクニカルアドバイザーを歴任し、2013年現在、オーテックジャパンの顧問、長野県岡谷市の自動車博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム」の名誉館長(顧問は渡邉衡三)に就任している。

関連事項[編集]

  • HICAS(ハイキャス)
  • 田中次郎 - 1959年(昭和34年)4月に伊藤が富士精密工業に入社して以来、富士精密~プリンス自動車工業時代に最も影響を受けた人物として、田中と桜井眞一郎の名を挙げている。[1]

出典[編集]

  1. ^ 伊藤修令著 『走りの追求 - R32スカイラインGT-Rの開発』 P11 2005年4月18日 グランプリ出版刊 ISBN 4-87687-270-8

外部リンク[編集]