伊牟田尚平

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伊牟田 尚平(いむだ しょうへい、天保3年(1832年)5月 - 明治元年(1868年)8月)[1][2]は、江戸時代末期(幕末)の薩摩の武士(陪臣)。通称は伊勢吉茂時。別名、永頼、相良武振。

生涯[編集]

天保3年(1832年)5月、薩摩藩喜入郷の領主・肝付氏の家臣の息子として生まれた[1][2]

鹿児島城下に出て医学を学び、長崎で蘭学を学ぶ[1]安政元年に江戸に出て、安政4年(1860年)に脱藩する[1]

清河八郎が結成した「虎尾の会」に名を連ねる[3](九州遊説に同行)。アメリカ公使館員のヘンリー・ヒュースケン暗殺など、各地で外国人を殺傷した。このため、薩摩藩の追捕を受けて捕らえられ、鬼界ヶ島に流罪に処された。後に罪を許される。

西郷隆盛らは江戸幕府を挑発し、武力討幕に結び付ける目的で、御用盗と呼ばれる不逞浪人組織を糾合し、商家への強盗や江戸市中で江戸城二の丸に放火するなどの破壊工作を計画し、益満休之助、伊牟田を江戸に派遣した。江戸では相楽総三らが加わった。中村半次郎が遺した『京在日記』には慶応3年10月3日に「益満休之助と弓田正平(伊牟田尚平)とが義挙のために江戸に派遣された」ことが記されている[4]

慶応3年10月14日、幕府が大政奉還を行ったため、吉井友実は益満と伊牟田に工作の一時中止を書状で指示している[5]。しかしながら、集めた浪人たちを抑えることができず、御用盗は江戸市中で強盗などを行い、江戸の住民は無関係な辻斬りや便乗した強盗なども薩摩御用盗の仕業と噂しあうようになった。このため、老中稲葉正邦勘定奉行小栗忠順が薩摩藩邸にたむろしていた御用盗の引き渡しを要求するが、薩摩藩がこれを拒否したため、慶応3年12月25日江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きることになる。この時に益満は捕縛されたが、伊牟田と相楽は逃れている。

この後、相楽総三は赤報隊を組織するが新政府によって偽官軍として捕縛され処刑されることになる。結果として間に合わなかったものの、伊牟田は相楽の救出のために、京都から下諏訪へ向かったことが史料に残っている[6]

伊牟田は、京都や大津の辻斬り強盗が伊牟田の部下であるとされ、責任を負う形で明治元年に京都二本松の薩摩藩邸にて自刃する[1]

生誕地である鹿児島市喜入の地元有志によって、大正12年(1923年)8月に「伊牟田尚平の誕生地記念碑」が建立された[2]

演じた人物[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 伊牟田尚平誕生地”. 鹿児島市. 2018年3月13日閲覧。
  2. ^ a b c 伊牟田尚平の誕生地記念碑”. かごしまデジタルミュージアム. 2018年3月13日閲覧。
  3. ^ 永濱眞理子 『オールカラーでわかりやすい!幕末・明治維新』 西東社、2014年、90頁。ISBN 9784791623105
  4. ^ 粒山樹 『維新を創った男 西郷隆盛の実像 明治維新150年に問う』 扶桑社2017年[要ページ番号]ISBN 978-4594078508
  5. ^ 桐野作人. “維新の志士・吉井友実(下)”. 南日本新聞「さつま人国誌」第148回. 2016年8月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月13日閲覧。
  6. ^ 桐野作人. “草莽の闘士・伊牟田尚平(8)”. 南日本新聞「さつま人国誌」第168回. 2018年3月13日閲覧。